2011年04月23日

Coffee Break238 復活・十字架刑の意味(マタイの福音書27章27節〜51節)


 

 それから、総督の兵士たちは、イエスを官邸の中に連れて行って、イエスのまわりに全部隊を集めた。(マタイの福音書27章27節)

 また、彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた。(27章30節)
 こんなふうに、イエスをからかったあげく、その着物を脱がせて、もとの着物を着せ、十字架につけるために連れ出した。(31節)

 そして、彼らが出て行くと、シモンというクレネ人を見つけたので、彼らは、この人にイエスの十字架を、むりやりに背負わせた。(32節)
 ゴルゴダという所(どくろと言われている場所)に来てから、(33節)
 彼らはイエスに、苦味を混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。(34節)
 こうして、イエスを十字架につけてから、彼らはくじを引いて、イエスの着物を分け、(35節)
 そこにすわって、イエスの見張りをした。(36節)
 また、イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。(37節)
 


 イエス・キリストの十字架刑が決まってから、じっさいに処刑が執行される箇所です。容赦のない簡潔な描写に驚かされます。くどくどと書かれていないことが、なお切迫感と凄惨さをかもしだしています。
 総督の兵士たちの、イエスに対する敵対的な態度は、どうしたことでしょう。もはや、逃亡の恐れもなく、悪いことをしたという証拠もないイエスを、全部隊で取り囲み、着物を着替えさせたり、イバラの冠りをかぶせたり、叩いたり、つばきをかけたり、からかったり──あらん限りの方法で、慰み物にしているのです。
 

 こうして、イエスを十字架につけてから、彼らはくじを引いて、イエスの着物を分け、(35節)


 イエス様を釘付けにする場面の説明が省かれているのは、示唆的です。
 兵士が、イエス様の手に釘を打ち込んだとか、イエス様が痛そうに顔をゆがめたとか、そのような描写は、四つの福音書すべてに、書かれていないのです。書かれているのは、イエス様の肉体の痛みではなく、十字架刑を行なった兵士たち、十字架上のイエス様を見るたくさんの群衆の言動です。


道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、(39節)
言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」(40節)
同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。(41節)
彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。(42節)
「彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」(43節)
 
 
 とらわれ、十字架に付けられた無力な人に対して、からかい、あざけり、はずかしめることばの数々、まさに言いたい放題です。

 その理由を挙げることはできます。
 イエス様は、人気もあったけれど敵も多かった──。
 福音書に何度も出てくるように、イエス様を一番憎んだのは、祭司長たち、律法学者、民の長老などのユダヤ社会のエリートやリーダーでした。イエス様も彼らと対決することが何度もありました。イエス様は、形骸化したユダヤ教、その律法主義や形式的な神殿礼拝を打ちこわし、新しい真実な救いのために来られたのですから、旧守的な者から見れば、目ざわりを通り越して、怒りを覚えるほどの存在でした。
 また、ローマ兵の多くは、イエスをローマ帝国に敵対するリーダーだと思っていたのでしょう。そうでなくても、ローマ兵は植民地の民を下に見ていたことでしょう。

 けれども、一般庶民はなぜ、イエス様をあざけったのでしょう。群衆の中には、数日前までイエスに熱狂して、追いかけていた者もいたかもしれません。イエス様の行なった奇蹟を目撃した人、しゅろの葉を振って、イエス様のエルサレム入城を迎えた者もいたかもしれないのです。


☆☆☆☆


 熱狂的に迎えられていた政治家やスターや実業家などが、星が落ちるようにつまずいたとたん、人々が手のひらを返したように石を投げるのは、今でもよくあることです。
 人の攻撃や冷たさは、最初から無力なものに対するより、力があると思われていたものに対して、いっそう激しいのです。その心理を、どのようにも説明できるでしょう。強いもの、能力のあるものに対する憧れや期待と、その気持ちの裏にひそんでいた妬みや怒りが、時には、信じられないような冷酷さとなって現れます。それは、人間の罪の性質とも言えます。

 このときの、これほどの冷酷さは、まさに悪魔の差し金ではなかったでしょうか。
 
 そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。(27章50節)
 すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。(51節) 
 


 これは、至聖所と聖所を仕切る幕が裂けたのを、意味していました。
 イエス様がみずから十字架の上で血を流して犠牲となってくださり、全人類のあがないが完了した瞬間でした。大祭司だけが、ささげ物をささげて、神の臨在の場にでるしかなかった旧い契約の時代が、終ったのです。
 悪魔がいちばん、恐れていたことが実現したのです。





posted by さとうまさこ at 04:00| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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