2011年05月12日

Coffee Break256 神に反抗した男(ヨナ書)




 民数記を読み終えて申命記に入る前に、少し寄り道しましょう。


 子どもの絵本にもなっている物語、「お魚に飲み込まれたヨナ」の主人公ヨナです。彼の正式な名前は、アミタイの子ヨナです。聖書のヨナ書の書き出しは、つぎのようになっています。(新改訳聖書)

 アミタイの子ヨナに次のような主のことばがあった。
「立って、あの大きな町ニネベへ行き、これに向かって叫べ。彼らの悪が私の前に上ってきたからだ。」(ヨナ書1章1節)


 ヨナは預言者でした。預言者というのは神さまのことばを聞いて、民にそのことばを告げ知らせ、彼らのあるべき方向を指導する人のことです。Coffee Breakでは、すでにモーセが預言者として登場しています。
 聖書には、たくさんの預言者が出てきます。とくに、紀元前1千年頃にイスラエルに王国が成立し、やがて王国が分裂し、周辺国に攻められて弱体化して行く過程で、多くの預言者が、神のことばを語るのです。
 それらは聖書の中で、「預言書」と言うカテゴリーで、括られてています。

 ヨナ書はその預言書の中の、小預言書の五番目の書物です。とても短く、物語は小説のように起承転結がはっきりしていて、リーディングキャラクターである神とヨナとのやり取りが、とてもおもしろいのです。もちろん、読後に深く考えさせられるのです。

☆☆☆☆


 ある日、神様はヨナに、「ニネベへ行って、彼らに警告しなさい」と言われたのです。ニネベとは、BC780年頃、しだいに強大になりつつあったイスラエル北方のアッシリア帝国の首都でした。当時、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂して、弱体化の一途をたどっていたイスラエルにとって、脅威となっていました。
 アッシリアは強大であるだけでなく、残忍な施政でも知られていました。民は道徳的にも乱れ、神の目からご覧になったら忌まわしいことをしていました。

 ヨナは、天地万物を創造されたイスラエルの神に従う「神の人」でしたが、同時に、愛国者でした。アッシリアの人々が神にそむく生活をしているのを、「イスラエルにとっては好都合」と思っていました。忌まわしい民は、神みずからが滅ぼされるからです。
 イスラエルは、武力では、アッシリアに勝ち目はありませんでしたが、神が滅ぼされるなら戦わずして敵が消滅するわけです。

 ところが、なんと、神は、ヨナにニネベへ行き、彼らに悔い改めるように言いなさいと仰せになるのです。「叫べ」と言うのは、文字通り叫ぶようにして悔い改めを迫ることです。

 預言をするというのは、同じ国民の中でも楽なことではありませんでした。預言者は、神のことばを受けて言い広めるのですから、大体、人の耳に痛いことを言わねばなりません。
 それも、庶民に、「耳の痛い忠告」をするなんて、みみっちいことではありません。
 王様や権力者、贅沢に暮している金持などに警告するのです。十戒をはじめとする律法やおきてを思い起こさせ、「そのようなことをしていたら、神の怒りに触れるぞ!」と、悔い改めを迫るのです。

 権力のある人に逆らうのですから、だいたい、厳しい反応が返って来て、預言者の人生は苛酷なものとなるのです。それでも、同胞のためなら、我慢もできます。国を救うためなら叫ぶこともできます。
 しかし、ヨナは思ったのです。
「なんで、敵の国アッシリアに行って、忠告して、助けてやらなきゃならないのだ。」

 ☆☆☆☆

 ヨナは神様に反抗しました。神様を無視して逃げることに決め、ニネベとは反対のタルシシュに行くことに決めました。ヨッパという港町で、タルシシュ行きの船を見つけ、船賃を払って乗り込みました。
 
 もちろん、そのようなことで、神様から逃げることはできません。聖書の神・イスラエルの神は、「わたしはある」(I am who I am.)と自己紹介された神様です。つまり、存在するものすべてを存在させているお方です。神様は私たちの外におられるのではなく、私たちが神様の中に存在しているのです。


 ヨナは預言者ですから、天地創造の神様のことをよく知っていたはずです。逃げ切ることなどできないのを承知で、「反抗」したのです。

 ヨナの乗った船が港を出てまもなく、嵐が海を揺らし、船は難破しそうになりました。

 水夫たちは恐れ、彼らはそれぞれ、自分の神に向かって叫び、船を軽くしようと船の積荷を海に投げ捨てた。
 しかし、ヨナは船底に降りて行って横になり、ぐっすり寝込んでいた。(5節)


 ヨナには、これが神様の自分への報復であるのがわかっていました。神様はヨナをニネベへ行かせたいのですから、船を難破させ自分を殺すことはないと、思っていたのでしょうか。いえ、愛国者ヨナは、敵国を救うくらいなら、死んだほうがましだと考えたのでしょう。

 ヨナはそれでよくても、まわりが黙っていませんでした。
 船長が、ヨナを起こしに来ました。

                    つづく







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2011年05月13日

Coffee Break257 魚に呑み込まれたヨナ(ヨナ書)




 嵐で海が荒れ、船が沈みそうになりました。乗組員も乗客も船を守ろうとして、必死に積荷を捨てたり、祈ったりしていました。けれども、ヨナは平然と船底で眠っていました。ヨナには、嵐が神様の自分への報復だとわかっていました。
 ヨナの行くべきところは、アッシリアの首都ニネベなのに、ヨナは、反対方向のタルシシュ行きの船にのったからです。

 船の乗組員や乗客は、何とか船が沈まないように、積荷を捨てたり、祈ったりしていました。

 それぞれ違う信仰を持っている乗客たちは、みんな自分たちの神様に祈っていました。嵐は、誰かが神様を怒らせたから起きたのかもかもしれないと考えたのです。
 ところが、ヨナがいないので、船長が船底で眠っているヨナを起こしに来ました。

 船長が近づいてきて彼に言った。「いったいどうしたことか。寝込んだりして。起きて、あなたの神にお願いしなさい。あるいは、神が私たちを心に留めてくださって、私たちは滅びないですむかもしれない。」(ヨナ書1章6節)

 ヨナがみんなのところへ行くと、すでに犯人さがしが始まっていました。

 みなは互いに言った。「さあ、くじを引いて、だれのせいで、このわざわいが私たちにふりかかったかを知ろう。」彼らがくじを引くと、そのくじはヨナに当たった。(7節)

 船にいた人々は、いっせいにヨナを責めました。

「いったいあなたはどこから来た人だ。あなたの神はどのような方か。あなたは、神に対して何をしたのか。

 ヨナは自分が神様の命令に背いて反対方向の船に乗ったことや、自分の神様について説明しました。
「私はヘブル人(イスラエル人の別の呼び方)で、私の神様は、海と陸を造られた天の神です。」

 陸と梅を作られた天の神様と聞いて、みんな「なーんと、大きな神様だ」と、恐れました。
「そのような神様に背くなんて、なんてことをしたんだ。あなたが、この嵐の原因だったなんて、いったい、私たちはあなたをどうすればいいんだ!」

 ヨナはもう覚悟ができています。ニネベに行くくらいなら死んだほうがましだと思っているのです。
 そこで、きっぱりと言いました。

「私を捕らえて、海に投げ込みなさい。そうすれば、海はあなたがたのために静かになるでしょう。わかっています。この激しい暴風は、私のためにあなたがたを襲ったのです。」(ヨナ書1章12節)

 人ひとりを海に投げ込むなんて、なかなかできるものではありません。船上の人たちは神に祈り、一所懸命船を操って陸に戻そうとしました。
 それでもダメだとわかったとき、ヨナを抱えて海に投げ込みました。
 すると、海は激しい怒りをやめて静かになった。(15節)のです。


☆☆☆☆

 海に投げ込まれたヨナは、どうなったでしょう。
 大きな魚が近寄ってきて、ヨナを呑み込んだのです。ヨナは魚の腹の中に入りました。


 ふしぎなことに、魚の腹の中で、ヨナは死にませんでした。消化液が出てきて体が溶けるわけでもありません。
 ヨナは、それもまた、神がしておられることだと知りました。死んでも良いと開き直っていたヨナに、神様は死ぬこともお許しにならなかったのです。

 ヨナはようやく、神様に背くことなどできないと悟りました。
 魚の腹の中で、主に祈りました。


                         つづく


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2011年05月14日

Coffee Break258 悔い改めたヨナ(ヨナ書)




 魚の胃袋に閉じ込められて身動きがつかない、けれども死ぬわけでもない状態で、ヨナはようやく目が覚めました。自分の身の程をあらためて認識したのです。

 神と私たち人間との関係では、主権は神にあり、どのように逆らってもみても、人間は神に太刀打ちできる存在ではありません。預言者であるヨナは、もちろん、そんなことは知っていました。それでも、逆らったのは、神の義(正しさ)と自分の正義が一致しなかったからです。神がニネベの人たちを救えと言うのは、ヨナには「敵に塩を送る」行為にも思えました。

 新約聖書が与えられた私たちにとって、神の愛は、あまねく、地上のすべての民に注がれていること、すべての民は神がお造りになったこと、そして、「悪い人にも良い人にも、太陽を照らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」方である(マタイの福音書5章45節)ことを知っています。

 ところが、旧約の民は、天地をお造りになった神を、アブラハム・イサク・ヤコブの神、つまりイスラエルの民族の神、自分たちだけの神に留めておきたかったのです。
 ですから、旧約聖書が預言し続けている「救い主(キリスト)」を待ち望みながら、そのキリストが、旧(ふる)い約束の中から、さなぎが蝶になるようにまばゆく出現されたとき、その教えのあまりの大きさ、広さ、高さ、深さ、のゆえに信じることができませんでした。


 ヨナのような預言者でさえも、天地創造の神は、「自分の神」だと思いたかったのです。私たちが、自分の父親を自分の利益や保護のために動いてくれる人だと思いたいのと同じです。父親が、自分のライバルのために親切をしてやったら、きっと反撥するでしょう。


☆☆☆☆

 ヨナは、「父なる神のユニバーサルな愛と公正」を受け容れた結果、敵が助かるくらいならなら、死んだほうがましだと思いました。少なくとも、死ねば、「反抗する」という目的は達せられます。

 水に投げ込まれた瞬間、ヨナは、「やったー!」と思ったかもしれません。そして、つぎの瞬間、彼は、たちまちもがき始めるのです。


 ヨナは魚の腹の中から、彼の神、主に祈って、言った。

 「私が苦しみの中から主にお願いすると、
 主が答えてくださいました。
 私がよみの腹の中から叫ぶと、
 あなたは私の声を聞いてくださいました。
 あなたはわたしを海の真ん中の深みに
 投げ込まれました。
 潮の流れが私を囲み、
 あなたの波と大波がみな、
 私の上を越えていきました。
 私は言った。
 『私はあなたの目の前から追われました。
 しかし、もう一度、私はあなたの聖なる宮を
 仰ぎ見たいのです』と。
 水は私ののどをしめつけ、
 深淵は私を取り囲み、
 海草は私の頭にからみつきました。
 私は山々の根元まで下り、
 地のかんぬきが、
 いつまでも私の上にありました。  (ヨナ書2章1節〜6節)


 魚の腹の中で、もがき苦しみ、ヨナは神に助けを求めました。主権は神にあり、世界は神の中にあることを、あらためて認めるのでした。

 しかし、私の神、主よ。
 あなたは私のいのちを
 穴から引き上げてくださいました。
 私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、
 私は主を思い出しました。
 私の祈りはあなたに、
 あなたの聖なる宮に届きました。

 むなしい偶像に心を留める者は、
 自分への恵みを捨てます。
 しかし、私は、感謝の声を上げて、
 あなたにいけにえをささげ、
 私の誓いを果たしましょう。
 救いは主のものです。」

 主は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた。 (6節〜10節)


 ヨナは悔い改めて、ふたたび地上に戻ってきたのです。

                   つづく






★聖書は新改訳聖書を使っています。★







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2011年05月15日

Coffee Break259  ニネベで(ヨナ書)


 

 再びヨナに次のような主のことばがあった。(ヨナ書3章1節)
「立ってあの大きな町ニネベに行き、わたしがあなたに告げることばを伝えよ。」(2節)
 

 命拾いして地上に戻ったヨナに、神様はふたたび、敵国アッシリアの首都へ行くよう仰せになりました。いくら強情な愛国者ヨナでも、もう神様に逆らえません。ニネベへ出かけたのです。

 ニネベは、行きめぐるのに三日かかるほどの非常に大きな町だった(3節)とあります。周囲五キロ四方くらいの城壁に囲まれた町でした、
 ヨナは、ニネベへ入り、神様のご命令どおり、一日目から歩けるだけ町を歩いて、叫びました。

「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされるぞ」

 ヨナにしてみれば、神様への義務を果たすだけの気持ちだったかもしれません。さあ、神様。ちゃんとご命令どおり動いていますよ! おっしゃるとおりにしましたからね。

 偶像礼拝を行い、堕落した生活をしているニネベの民だ。どうせ、聞く耳なんかもたないですよ。というより、聞く耳を持ってくれないほうが良いというのが、ヨナの気持ちでした。できることなら、四十日後にニネベが滅びるのを見たいものだ!

☆☆☆☆


 なんということでしょう。
 ニネベの人たちは、ヨナのことばを聞いたのです。

 そこで、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで荒布を着た。(5節)
 このことがニネベの王の耳に入ると、彼は王座から立って、王服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中にすわった。(6節)

 王と大臣との命令によって、次のような布告がニネベに出された。「人も、獣も、牛も、羊もみな、何も味わってはならない。草をはんだり、水を飲んだりしてはならない。」(7節)
 人も、家畜も、荒布を身にまとい、ひたすら神にお願いし、おのおの悪の道と、暴虐の行いから立ち返れ。(8節)
 もしかすると、神が思い直してあわれみ、その燃える怒りをおさめ、私たちは滅びないですむかもしれない。(9節)

 神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。(9節)


 ニネベが悔い改め、結局、神はニネベをお救いになったのです。

 おさまらないのはヨナでした。

 神様、あなたはイスラエルの神さまではないのですか。イスラエルの民・われらの「父なる神」ではないのですか。どうして、敵国へのわざわいを思いなおされるのですか。

 
「ああ、主よ。わたしがまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めタルシシュへ逃れようとしたのです。私は、あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていたからです。」(4章2節)

 ここで、ヨナが、あなた(神)が情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されると、言っているのは、ニネベを救った神への「非難のことば」としては、矛盾するように思われるでしょうか。

 これは、出エジプト記34章6節にあることばです。

☆☆☆☆


 十戒は、最初、出エジプト記31章18節で、モーセに授けられました。ところが、モーセが十戒の石の板をいただいてシナイ山を下山してくると、民は金の子牛を鋳造してこれを拝みお祭り騒ぎをしていました。これを見たモーセは、怒りのあまり十戒の石の板を、山のふもとの投げつけて砕いてしまいました(出エジプト記32章19節)

 しかし、この怒りは、偶像礼拝に対するものでしたから、神の御心にかなうことでした。神はもう一度、石の板を授けてくださることにされたのです。二度目にシナイ山に入ったモーセに顕現された主、神は、みずから宣言されたのです。
「主、主はあわれみ深く、情け深い神、怒るにおそく、恵みとまことに富み、」 


 十戒は、神のイスラエルの民との契約(シナイ契約)を意味します。
 つまり、この時点では、天地万物を創造された神は、イスラエルの民と契約を結ばれたイスラエルの神だったのです。

 ヨナが、神を非難するのに、このときの神ご自身のことばをもち出したのは、神様に、「神様、あなたは十戒を下さったイスラエルの神様でしょう?」と申し上げて、自分の正しさを主張しているのです。

 ちょうど、私たちの父親が、私たちのライバルに良くしてあげると、怒りを覚えるのが正当だと思うように、ヨナは、タルシシュに逃げたときからの、自分の怒りを正当化しようとしているのです。

 ヨナがこのような反応を見せるのは、無理からぬことかもしれません。
 
 旧約聖書は、シナイ契約の下での、神と人との関係に焦点が当てられています。けれども、そこには、アブラハムの子孫であるひとつの民族から、やがて、すべての人類を祝福に入れる(創世記12章3節)といわれた神のご計画がすでに、始まっているのです。新約聖書に、「十字架のあがない」として現れる神のユニバーサルな愛は、ヨナにはまだ、理解できないことでした。






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2011年05月16日

Coffee Break260 神の愛(ヨナ書) 




 ヨナが神の警告を触れ歩いたので、ニネベの人たちは神を信じ、上は王や大臣、身分の高いものから低いものまで、荒布を着て悔い改めました。

 人も、獣も、牛も、羊もみな、何も味わってはならない。草をはんだり、水を飲んだりしてはならないとのお触れが出るほど、徹底したものでした。
 その結果、神は、彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直されたのです。

 ところが、このことは、ヨナを非常に不愉快にさせた。(4章1節)のです。

「主よ。今、どうぞ、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましですから。」

 これは、ヨナがダダをこねているのです。かつて、タルシシュ行きの途上、ヨナはニネベへ行くよりは死んだほうがましだと思って、嵐の海に投げ込んでもらったのに、神はヨナが死ぬのをお許しになりませんでした。

 そこで、今度は、ヨナは、「死なせて下さい」と、頼んでいるのです。神様は、ヨナを死なせるはずもないのですから、まさに子どもが親に無理を言って、すねている図です。

「あなたは当然のことのように怒るのか。」(4節)
 
 神様のあきれておられる様子が見えるようです。
 ヨナは、自分の反抗的な気持ちを、態度で表すことにしました。町外れの小高い場所に行き、小さな仮小屋を作って、その陰の下に座り、町の様子を見物することにしたのです。
 
 さあ、町にわざわいを下してくださいと、意思表示したつもりでした。

 神様は、ヨナが暑い日ざしの中に座って、ますます不機嫌になっていくのを、あわれに思われました。一本のとうごまの木を生えさせ、ヨナの頭に大きな影が落ちるようにしてくださいました。
 ヨナは、ホッとし、喜びました。

 喜びも束の間、翌朝はやく、神様は一匹の虫をとうごまの木に這わせました。虫がとうごまを噛んだので、たちまち、とうごまは枯れてしまいました。
 太陽が昇ってきた頃、神様は焼け付くような東風を起こし、その上、太陽がヨナの頭に照りつけたので、ヨナはぐったりと衰弱していきました。

 ヨナは、すねて言いました。
「私は、死んだほうがましです。死にたいです。死なせて下さい。」
 たとえ、衰弱死しそうでも、神様はヨナを死なせないのを知った上での反抗です。

 神様は、おっしゃるのです。
「このとうごまが、枯れたから怒るのか」
「私が怒るのは当然でしょう。私は死にそうなほど苦しんでいるのですよ」


☆☆☆☆

 そこで、主は仰せられるのです。
 「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。(10節)
 まして、私は、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」(11節)



 主・神を、イスラエルの神だと思いたいヨナは、このことばを聞いて、どのような気持ちになったでしょう。
 思うようにならなくて悔しい気持ちと同時に、神様の前に、心からひれ伏したのではないでしょうか。ヨナは、神のことばを聞いて、神の御用をすることができるほどの預言者だったのですから、天地を創造された神の愛の、大きさ、広さ、高さ、深さを、瞬時に悟ったのではないでしょうか。

                     つづく
 




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2011年05月17日

Coffee Break261 ヨナのしるし(ヨナ書、マタイの福音書12章38節〜41節)




 主は仰せられた。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。(ヨナ書4章10節)
 まして、私は、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」(11節)



 ヨナは神と争いました。神様に勝つことなどできないのを承知で、それでも、反抗し、だだをこねました。
 神様の強権で、ずるずるとニネベへ引っ張られてきた気分だったかもしれません。魚の中で、三日三晩苦しんで助けを求め、祈ったはずなのに、心の奥の奥には自分の正義が生きていて、神様の義(正しさ)に対し、怒っているのです。

 結局、ヨナの魚の中での「三日三晩」で一番変えられたのは、ニネベの人たちでした。
 罪深い偶像礼拝者、淫らで自己中心の生活をしている人たちが、悔い改めたのです。上は王から、下は庶民、家畜や獣にいたるまで、「わざわいを思いなおしてください」と,神様にひれ伏したのです。

 神様は、わざわいを思いなおされました。

 その理由を、神様は、十二万人以上の人間と、それ以上の家畜を惜しむからだと言われました。

「ヨナよ。あなたは、自分が生えさせたのではない一本のとうごまの木さえ惜しんでいるではないか。しかし、ニネベの人間と家畜は、わたし自身が造ったのだ。私の愛の対象なのだ。滅びるのを、惜しむのは当然ではないか。」


☆☆☆☆

 ヨナの時代から七百五十年ほど経ったころ、イスラエルにイエス・キリストが現れ、福音を告げ知らせておいででした。

 ある日、律法学者、パリサイ人たちのうちのある者がイエスに答えて言った。「先生。私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです。」(マタイの福音書12章38節)

 イエス様の評判が日ごとに高くなって、その人気に比例するように、旧来のイスラエルの祭司や神学者たち──支配階層の人たちの妬みや警戒は高まっていました。そこで、彼らは、なんとかイエス様を陥れよう、イエス様を試そうと、いつも機会を狙っていました。


 しかし、イエスは答えて言われた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」(39節)
 ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。(40節)


 このナゾのような答えを、パリサイ人は、どの程度理解したでしょう。
 ヨナが大魚の腹の中にいたこと。ヨナがニネベへ行き、ニネベの人々に悔い改めと救いをもたらしたのは、わかっていたでしょう。
 けれども、人の子(イエス様)が、「三日三晩、地の中にいる」ということばは理解するべくもなかったでしょう。


 当然ですね。
ヨナは人間でしたが、イエス様は神様でした。人間として十字架で死に、神として甦られるために、三日三晩地の中におられたのです。
 そして、新約の民、当時のイスラエルの民は、三日三晩の後──イエス様がよみがえられた後にも、すぐに、悔い改めることはありませんでした。


 つぎのイエス様のことばは、痛烈です。

 ニネベの人々が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりまさった者がいるのです。(41節)

 ヨナ書は、短い中に、強烈はメッセージが凝縮されています。一民族の神・アブラハム・イサク・ヤコブの神──イスラエルの神から、ユニバーサルな愛の神イエス・キリストが、まばゆく顕現されるその予告であると思います。
 




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2011年05月18日

Coffee Break262 モーセ最後の仕事(申命記1章1節〜5節)

 


 いよいよ律法の書(モーセ五書)最後の申命記に入ります。
 創世記から、律法の書全部を通じて登場しているのは神・主だけです。最初に書いたように、聖書の主役は神様なのですから、当然です。
 
 出エジプト記からレビ記、民数記については、モーセが主役に見えます。しかし、モーセは、神から出エジプトのリーダーとして任命された(召命を受けた)、神のしもべにすぎません。モーセは稀有な預言者ですし、じっさいにも、神への従順と使命のために生きた私心のないリーダーだったでしょう。
 ただ、どれほど、モーセがすぐれていても、彼だけでは、奴隷状態から急に解放された何十万もの民を、エジプトから、荒野の四十年を経てモアブまで連れてくることはできませんでした。神がいつもモーセとともにいてくださり、モーセに語りかけ、モーセを指図し、多くの奇蹟によってじっさいにモーセを支え、イスラエルの民をエジプトから導き出し、砂漠で養い、律法を与え、国の形を整えさせ、なだめ、叱り、鍛えながら、カナンの手前まで、連れてきてくださったのです。 

 出エジプト記、レビ記、民数記と連なる世界は、天地をお造りになった神様とイスラエルの民六十万人、さらに約束の地を目指すイスラエルの民をめぐるエジプトや荒野一帯を拠点として暮していたさまざまな人たちを巻き込む、物語としても桁外れに大きく、時間的にも四十年を経過する、壮大な物語です。

 ところが、物語の最初から最後までを通じて名前が出てくる人物はそれほど多くありません。モーセとモーセの兄アロン、姉ミリヤム、ヨシュア、カレブ。祭司となるアロンの息子たち。彼らの内、申命記に入る直前に名が出てくるのは、モーセとヨシュア、カレブ、アロンの息子エリアザルくらいです。
 ミリヤムは、ツィンの荒野で死に(民数記20章1節)、アロンはエドムのホル山で、息子エリアザルに大祭司の引継ぎをしたあと、死んでいます(民数記20章24節〜29節)

 ミリヤムが死んだのは寿命だったのでしょう。が、アロンとモーセには、神が「あなたたちは約束の地には入れない。」と言われたのです。
民が水を求めて騒いだ時、モーセとアロンは、岩を杖でたたいてしまいました。それでも、水は出たのですが、「岩に命じなさい」との神のご命令を守らなかったことで咎められたのです。(民数記20章7節〜13節)

 アロンの死に関しては、聖書は、イスラエルの全会衆は三十日の間、アロンのために泣き悲しんだ。(29節)と記しています。
 それにしても、出エジプトの最初から、モーセと行動をともにしてきたアロンの退場は、ちょっとあっけないほどのものでしたが、モーセには、大切な仕事が残っていました。


 ☆☆☆☆ 

 
 これは、モーセがヨルダンの向こうの地、パランと、トフェル、ラバン、ハツェロテ、ディ・ザハブとの間の、スフの前にあるアラバの荒野で、イスラエルのすべての民に告げたことばである。(申命記1章1節)
 ホレブから、セイル山を経てカディシュ・バルモアに至るのには十一日かかる。(2節)

 第四十年の第十一月の一日にモーセは、主がイスラエル人のために彼に命じられたことを、ことごとく彼らに告げた。(3節)
 

 イスラエルの民が、いよいよヨルダンの手前まで来ました。四十年目の十一月の一日なのですから、カナン入りは目前です。

 モーセは、自分がカナンに入れないことはわかっていました。そこで、全会衆に演説をするのです。

 エジプトを出てきて以来、神がいつもイスラエルの民とともにいて、イスラエルにしてくださったこと、律法やおきて、神との契約について、改めて民に言い聞かせておく必要があったのです。というのも、エジプトを出てきたとき、二十歳以上だった民はヨシュアとカレブを除いて一人もいなかったからです。

 モーセの退場は、やはり、簡単ではありませんでした。





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2011年05月19日

Coffee Break263 過去を反省する(申命記1章)




 人は、来た道を振り返ります。個人でも、会社でも、学校でも、国家でも、教会であってさえも、歩んできた道を振り返り、意味づけをし、成果や反省を語ります。それは、未来を展望し、その道筋をつけるためです。過去から始まった歩みを、より良い未来を示す意義のある足跡にしたいと、だれでも思うからです。

 もし、未来への展望がないなら、振り返ることはたんなる後悔や愚痴、過去の出来事への非難攻撃にすぎなくなってしまいます。

 個人や国が挫折して、未来がとても困難に見えるとき、激しい後悔や愚痴の中で、ますます展望を失うのはそのためです。個人であっても、社会や国であっても、ただ、困難だけが続けば徒労感と無力感で、存在そのものの危機がますます大きくなります。

 どんな挫折であるように見える過去でも、積極的に意味を見出し、未来への展望につなげなければ、私たち人間は生きて行くことはできません。
 
  
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 モーセはヨルダン川の東岸のアラバの荒野で、イスラエルのすべての民に向かって演説をしています。過去を振り返って意味づけし、未来の展望を示すためでした。
 

 私たちの神、主は、ホレブで私たちに告げて仰せられた。「あなたがたはこの山に長くとどまっていた。(申命記1章6節)

 向きを変えて、出発せよ。そしてエモリ人の山地に行き、その近隣のすべての地、アラバ、山地、低地、ネゲブ、海辺、カナン人の地、レバノン、さらにあの大河ユーフラテス川まで行け。(7節)

 見よ。わたしはその地をあなたがたの手に渡している。行け。その地を所有せよ。これは、主があなたがたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓って、彼らとその後の子孫に与えると言われた地である。」(8節)


 最初に、イスラエルの民のエジプト脱出が、神のご命令であったことが告げられます。

 つぎには、モーセが、シナイ山で宿営しているときに、民を十人、五十人、百人、千人の組に分けて、そのかしらを選んだこと。(出エジプト記18章18節〜26節) つまり、烏合の衆に近かったイスラエルの民に、組織と秩序、さばきのルールを与えたことが語られます。(申命記1章9節〜18節)

 けれども、申命記1章で、モーセが語りたかったことは、その後に来ます。

 イスラエルの民がシナイ(ホレブ)を旅立ち、ガデシュ・バルモアまできたときに、カナンの地を探るため、十二人の斥候を出しました。
 ところが、戻ってきた斥候の内、十人はそこに入ることはできないと、悲観的な報告をしたのです。理由は、その地の民が背が高く、城壁は大きく高くとても崩せそうもない。しかもそこには、アナク人(巨人)がいるというわけです。
 
 その結果、主は、あなたがたの不平を言う声を聞いて怒り、誓っていわれた。(34節)

「この悪い世代のこれらの者のうちには、わたしがあなたがたの先祖に与えると誓ったあの良い地を見るものは、ひとりもいない。(35節)
 ただ、エフネの子カレブだけがそれを見ることができる。彼が踏んだ地を、わたしは彼とその子孫に与えよう。彼は主に従い通したからだ。」(36節)


 この事件のため、神がお怒りになり、エジプトを出てきたとき二十歳以上だった世代が死に絶えるまで、斥候がカナンを探った四十日の一日を一年と換算して四十年、イスラエルの民は荒野をさまようことになりました。

 モーセは、出エジプトからカナンまで、四十年も要した荒野の旅について、まず、民に思い起こさせています。
 荒野の四十年の原因をきちんと反省しておくことが、イスラエルの未来に必要不可欠なことだったからでしょう。





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2011年05月20日

Coffee Break264 不信仰の結果(申命記1章)




 申命記1章は、バランの荒野での事件は、是が非でも語っておかねばならぬと思っているモーセの気迫が見える箇所です。
 民の神への不従順は、エジプトからカナンまで一ヶ月ほどと言われる道のりを、四十年に長引かせただけではありません。

 度重なる民の反抗やつぶやきに苛立って、思わず岩を叩いて水を出したモーセ自身、罰を受けてカナンに入ることができなくなったのです。
 

 主はあなたがたのために、この私に対しても怒って言われた。「あなたも、そこに、入れない。(申命記1章37節)
 あなたに仕えているヌンの子ヨシュアが、そこに、入るのだ。彼を力づけよ。彼がそこをイスラエルに受け継がせるからだ。(38節)
 
 あなたがたが、掠奪されるだろうと言ったあなたがたの幼子たち、今はまだ善悪のわきまえのないあなたがたの子どもたちが、そこに、入る。わたしは彼らにそこを与えよう。彼らはそれを所有するようになる。(39節)
 
 あなたがたは向きを変え、葦の海への道を荒野に向かって旅立て。」(40節)



 モーセの演説のこの箇所は回想ですから、パランの荒野での事件と(民数記13章)、ツインの荒野での事件(20章)が交錯しています。

 カナンに入れないと神から宣告されたイスラエルの民は、一転、反省したようなそぶりで、戦う姿勢を見せ、「私たちは主に向かって罪を犯した。私たちの神、主が命じられたとおりに私たちは上っていって、戦おう。」と、言いだすのです。

 しかし、すでに主に見放された民の戦いが、うまく行くはずがありません。

 彼らが山に登っていくとエモリ人が彼らを打ち、さんざん追い散らされ、戻ってきた民は、主の前に泣いたのでした。

 主はあなたがたの声を聞き入れず、あなたがたに耳を傾けられなかった。(45節)

 こうしてあなたがたは、あなたがたがとどまった期間だけの長い間ガディシュにとどまった。(46節)
 

☆☆☆☆

 
 この三十八年に及ぶ長い足踏み状態の期間は、だれよりも、リーダーであるモーセにとって重い歳月だったのではないでしょうか。
 モーセにしても、いっしょに出てきた同胞と手を携えて、カナンの地を踏みしめたかったに違いありません。
 エンターテイメントの映画や小説なら、さまざまな苦難ではらはらしても、やがて全員で目的地に入るのが定石です。聖書は、人間の真実を描くものですから、ときに、どうしようもなくシリアスなのです。


 エジプトへ帰ろうと言い出した民を説得しできず、カナン入りの前に死に絶えさせたことは、モーセにとっても痛恨の思いで振り返る出来事でした。
 
 彼は言ったのです。

「おののいてはならない。彼らを恐れてはならない。」(29節)
 あなたがたに先立って行かれるあなたがたの神、主が、エジプトにおいて、あなたがたの目の前で、あなたがたのためにしてくださったそのとおりに、あなたがたのために戦われるのだ。(30節)
 また、荒野では、あなたがたがこの所に来るまでの、全道中、人がその子を抱くように、あなたの神、主が、あなたを抱かれたのを見ているのだ。(31章)

 このようなことによってもまだ、あなたがたはあなたがたの神、主を信じていない。(32節)


 
 イエス様は、「見ずに信じるものは幸いです。」(ヨハネの福音書20章29節)と仰せになりました。

 出エジプトのイスラエルの民は、多くの奇蹟を目の当たりにしていてさえ、神を信じ続けることができませんでした。

 信じることの難しさを、認識させられるのは、私だけでしょうか。




 
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2011年05月21日

Coffee Break265 エサウの末裔(申命記2章1節〜8節) 




 申命記2章では、イスラエルがカディシュを出て、エドムとモアブを迂回し、次にヘシュボンの王シホンと戦ったことが、回想されています。
 1章と同様、民数記で記録されている事実が、もう一度繰り返されているわけです。
 民数記の記録との違いは、イスラエルがエドムとモアブの地を迂回した理由が述べられていることです。
 以下は、Coffee Break221で、エドムについて説明した時に、引用した民数記の箇所です。
 
 さて、モーセはカディシュからエドムの王のもとに使者たちを送った。「あなたの兄弟イスラエルはこう申します。あなたは私たちにふりかかったすべての困難をご存知です。(民数記20章14節)

 そこで、私たちが主に叫ぶと、主は私たちの声を聞いて、ひとりの御使いを遣わし、私たちをエジプトから連れ出されました。今、私たちはあなたの領土の境にある町、カディシュにおります。(16節)
 どうか、あなたの国を通らせてください。私たちは畑もぶどう畑も通りません。井戸の水も飲みません。私たちは王の道を行き、あなたの領土を通過するまでは右にも左にも曲がりません。」(17節)
 しかし、エドムはモーセに言った。「私のところを通ってはならない。さもないと私は剣をもって、おまえを迎え撃とう。」(18節)


 イスラエルがエドムの領土を通りたかったのは、エドムの中央を貫いて「王の道」があったからです。王の道はモアブ、ヘシュボン、パシャンをも貫通していましたから、このような公道を行くのが、一番安全で近道であったのです。
 ※「王の道とは、シリヤのダマスコからヨルダン川東岸のエドムの領内を通過してアカバ湾に至り、エジプトに向かう重要な通商路。(岩波書店刊、旧約聖書V注釈)」
 
 エドム側がモーセの要請を断った理由は、わかりません。

 イスラエル側は、途中の畑や井戸に立ち寄らない、ただ通過するだけですと誓っているのですが、通過するなら迎え撃とうと言うのです。そこで、モーセとイスラエルはエドムを通過するのを諦めて、エドムの西の国境を迂回することになったのです。
 これは、その後、同様な申し入れを断ってきたエモリ人の王シホンと戦って町々を攻め取り、人も家畜も聖絶したのと比べて、大変な違いです。


 なぜ、エドムには譲歩したのか、その理由が申命記2章に述べられているのです。 
 
 モーセがエドムに申し入れをしたとき、主がモーセに仰せになったのです。

 あなたがたは、セイルに住んでいるエサウの子孫、あなたがたの同族の領土内を通ろうとしている。彼らはあなたがたを恐れるであろう。あなたがたは十分に注意せよ。(申命記2章4節)

 彼らに争いをしかけてはならない。わたしは彼らの地を、足の裏で踏むほども、あなたがたには与えない。わたしはエサウにセイルを所有地として与えたからである。(5節)


 ☆☆☆☆
 
 エサウは、ヤコブの双子の兄でした。本来、長子であるエサウが、アブラハム、イサクの家の財産と祝福を継ぐはずでした。ところが、その祝福と長子の権利を、ヤコブが計略によって奪ってしまうのです。二人の母リベカが、ヤコブの後ろ盾でした。

 激怒したエサウから逃げて、ヤコブは伯父ラバンの元に行くことになりました。そこで懸命に働いて、十二人の息子と多くの財産を作ってカナンに戻ってくるのです。
 ヤコブは、兄の仕返しをおそれていましたが、エサウはすでにセイルに拠点を持つ大きな族長になっていて、ヤコブを許していました。(Coffee Break65参照)

 このようにエサウが大きな成功を治めたのは、神がエサウを祝福されたからでした。エドムは神様が約束された土地ですから、イスラエルはそこに踏み込んではならないと、主は言われたのです。それゆえ、モーセはエドムとの戦いを避けたのでした。

 過ぎ去ったこのような事件の一つ一つが、すべて自分の個人の判断ではなく、神の命令によって行なわれたことを、モーセは民に再確認させているのです。
 神はエサウの末裔のことも、気に掛けておられたのです。 




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