2011年05月22日

Coffee Break266 ロトの末裔(創世記19章37節38節、申命記2章9節19節)




 エサウの末裔が住むエドムの北側(死海の東側)に、モアブがあります。イスラエルは、エドムの西の端を北上し、モアブとエドムとの国境で東に折れ、今度はモアブの東側を北上しました。ちょうど、逆S字に上って行ったのです。
 モアブにも「王の道」は通っていたのですが、イスラエルはモアブを貫通している「王の道」を通った気配はありません。通らせてくださいと頼んだ様子もありません。

 その理由が、申命記2章でモーセの口から、明らかにされるのです。

 主は私に仰せられた。「モアブに敵対してはならない。彼らに戦いをしかけてはならない。あなたには、その土地を所有地としては与えない。わたしはロトの子孫にアルを所有地として与えたからである。」(申命記2章9節)

 モアブは、アブラハムの甥ロトの子孫でした。アブラハムが神様の召命を受けてハランから出てきたとき、妻サライ(サラ)、甥のロトがいっしょだったのです。(創世記12章4節5節)
 しかし、その後、アブラハムとロトの家畜や使用人が増え、ふたりは同じ場所で遊牧することができなくなり、別れたのです。(創世記13章4節〜11節)
 アブラハムが甥に先に選ばせたので、ロトは緑が繁るヨルダンの低地全体を取り、やがて、東のほう、ソドムとゴモラに移住しました。


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 創世記を読み進めているとき、Coffee Breakでは、ソドムとゴモラが滅亡する物語とその後に続く、ロトとそのふたりの娘たちとの近親相姦については、触れませんでした。

 アブラハムの物語の流れを中断したくなかったのが、その大きな理由でしたが、別の機会に取り上げることができると、考えたからです。

 創世記18章17節から19章全部を使って、聖書はソドムとゴモラを滅ぼされた話を展開しています。

 ソドムとゴモラは無法が横行し、神はその町を滅ぼそうと決心されるのです。それを聞いたアブラハムは、甥のロトがいますので、神に何とか思いとどまってくださるよう説得します。その説得のいきさつ(創世記18章から32章)も、ぜひお読みください。神様の聖と愛のご性質の葛藤が、わかるところです。


 神はアブラハムの願いを聞き入れられて、ロトとその家族(娘や娘の婿まで)を火山が爆発する前に、逃がそうとされるのです。
 しかし、ロトの婿たちは、忠告を聞き入れず、ロトとロトの妻、ロトのふたりの娘だけが逃げるのです。
 ところが、火山の爆発と硫黄の流出が始まった時、ロトの妻は驚いて振り返ってしまいます。その瞬間、彼女は塩の柱となってしまったのでした。(創世記19章26節)

 とても、有名なところで、また、示唆的な教訓を引き出すことができる箇所です。背後から追ってくる災難を、振り返ってみてみたい衝動に駆られるのが人間です。それだけに、神様が命じられるとき、人がどのように振舞うべきか考えさせられます。

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 せっかく、破壊の中から逃れでたロト一家ですが、山の中で三人暮らしをしている時に、娘ふたりは父を酒で酔わせ、父と交わって子どもを作ります。
 
 こうして、ロトのふたりの娘は、父によってみごもった。(創世記19章36節)
 姉は男の子を産んで、その子をモアブと名づけた。彼は今日のモアブ人の先祖である。(37節)
 妹もまた、男の子を産んで、その子をベン・アミンと名づけた。彼は今日のアモン人の先祖である。(38節)



 これが、冒頭に引用した、申命記2章9節の意味です。また、同様に神は、イスラエルがアモン人に対しても敵対してはならないと命じておられます。(2章19節)
 その理由は、アモン人もロトの子孫だからです。
 近親相姦をいとわれる神ですが、これが見過ごされたのは、シナイ契約以前の出来事だからでしょうか。
 いずれにしても、神は、アブラハムの縁戚に連なるものに対する約束を、何百年経ってもお忘れになっておられないのです。






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2011年05月23日

Coffee Break267 生きて働かれる神(申命記)



 私たちは、「聖書の神」に対して、いろいろな箇所で違和感を持つことがないでしょうか。
 聖書は、神が主役の書物なので、神のことばや意思、心、感情、すがた(見える姿ではありませんが)などが、その冒頭から一貫して聖書を貫いて、いわば「物語」が展開しているわけです。

 ところが、聖書の神の姿と自分が先入観として持っている神様というものが、重なり合わない箇所がしばしば出てくるのです。
 少なくとも、私の場合はそうでした。そもそも神について、深く考えたことなどなかったわけです。ただ、宗教的な雰囲気の家庭に育ちましたから、混沌とした世界の彼方に、何か、汚れたこの世を、整理し清めてくれるような「存在」があり、それが、神仏と言われるもののような気がしていました。
 
 そのような神仏は、どこか厳かな、深遠な場所に静かに座しておられ、人間の喜びにも、悲しみにも、愚かさにも、戦いにも、距離を置いておられて、立ち上がって直接、関わってくるようなことはないのです。
 
 それだけに、聖書を読み始めて、「はじめに、神が天と地を創造した」と言われて、まずびっくりしてしまいます。

 神様が、ご自分の造った人間を気に掛けられ、救いの計画のためにひとりの人を選び、その子孫をまた、壮大な計画で、ある場所から別の場所に移される。そのような、「生きた行動力のある」神の姿に、圧倒されるのです。
 ひとつの民族を生かすために、別の民を滅ぼすこともある、そのような厳しさにも驚くのです。


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 イスラエルは、遠い縁戚であるエドム(エサウの子孫)とモアブ(ロトの子孫)の国を、迂回して北上したあと、今度はヘシュボンの王エモリ人シホンと対決することになります。

 バモテからモアブの野にある谷に行き、荒地を見おろすピスガの頂に着いた。(民数記21章20節)
 イスラエルはエモリ人の王シホンに使者たちを送って言った。(21節)

「あなたの国を通らせてください。私たちは畑にもぶどう畑にも曲がって入ることをせず、井戸の水も飲みません。あなたの領土を通過するまで、私たちは王の道を通ります。(22節)


 しかし、シホンはイスラエルが自分の領土を通ることを許さなかった。シホンはその民をみな集めて、イスラエルを迎え撃つために荒野に出てきた。そして、ヤハツに来て、イスラエルと戦った。(23節)

 これは、民数記に書かれているシホンとの戦いのいきさつです。

 同じ出来事を、モーセは、申命記で次のように説明しています。

 モアブとアモン人の領土を迂回したとき、主・神がモーセにシホンと戦えと命じられたのです。

 立ち上がれ。出発せよ。アルノン川を渡れ。見よ。わたしはヘシュボンの王エモリ人シホンとその国とを、あなたの手に渡す。占領し始めよ。彼と戦いを交えよ。(申命記2章24節)

 きょうから、わたしは全天下の国々の民に、あなたのことでおびえと恐れを臨ませる。彼らは、あなたのうわさを聞いて震え、あなたのことでわななこう。」(25節)


 この後、モーセは民数記21章21節22節で書かれている申し入れを、シホンに行なうのです。礼儀正しく使者を送り、領土を通らせてください。万一、食物や水が必要な時は、金を払います。

 もちろん、シホンはイスラエルを通らせようとはしません。それは、すでに、主・神が意図しておられるとおりにシホンの心が動いて、シホンがイスラエルに抵抗したのです。
 それは今日見るとおり、彼をあなたの手に渡すために、あなたの神、主が、彼を強気にし、彼の心をかたくなにされたからであった。(30章)とあるとおりです。
 

 軍を整えて出てきたシホンに、イスラエルは勝利しました。神が、「わたしはシホンとその地とをあなたの手に渡し始めた。占領し始めよ。その地を所有せよ。」(申命記2章31節)と仰せになったことだからです。

 シホンとの戦いは、まだカナンでの戦いの緒戦でした。
 すでに民が知っている戦いを、モーセが改めて説明したのは、以後のカナンでの戦いにも、神の主権が第一であることを、遺言したかったからでしょう。




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2011年05月24日

Coffee Break268 神に聞く(申命記3章、ヨシュア記6章)




 私たちはパシャンへの道を上って行った。するとパシャンの王オグとそのすべての民は、エレデイで私たちを迎えて戦うために出てきた。(申命記3章1節)

 パシャンはヘシュボンの北側に位置します。パシャンの領土も、カナンに入るため通らなければならなかったのでしょう。それが、パシャンの王ヘシュボンにもわかったのか、両者は戦闘態勢でぶつかることになります。

 イスラエルがヘシュボンを取るのは、ご計画の内にあるもので、神の御心でした。ですから、主は仰せになります。

「彼を恐れてはならない。わたしは、彼と、そのすべての民と、その地とを、あなたの手に渡している。あなたはヘシュボンに住んでいたエモリ人の王シホンにしたように、彼にしなければならない。」(申命記3章2節)

 こうして私たちの神、主は、パシャンの王オグとそのすべての民をも、私たちの手に渡されたので、私たちはこれを打ち殺して、ひとりの生存者も残さなかった。(3節)


 これらの戦いは、「ひとりの生存者も残さなかった」という徹底したものでした。町を六十、ことごとく攻め取り、その町と、そこに住む男、女、子どもを聖絶したと記されています。ただし、すべての家畜と、私たちが取った町々で掠奪したものとは私たちのものとした、のですから戦利品は民のものとしたのです。

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 さて、イスラエルは、立て続けに二人の王を滅ぼし、大勝利を得たのです。これは、イスラエル側にとっては、連戦連勝の快挙だけれども、敗戦した側は悲惨ではないかと思われるかもしれません。現代人の感覚からすれば、確かに、全滅させるのは悲惨です。新改訳聖書では「聖絶」ということばが使われていて、人を神様のために殺すとはなにごとかと、声が聞こえてきそうな箇所です。

 ただ、当時の世界では、戦争で勝利すると言うのは、このようなことだったのでしょう。ですから、勝つかぎりは徹底的に戦わなければならないと、神も命じておられるのです。

 じつは、現代でも、徹底的な戦いは行なわれているのです。一度、戦争が始まると、停戦の妥協点を互いに探っていてさえ、たいていは、徹底的な戦いになってしまいます。


 太平洋戦争開戦の時、山本五十六司令長官は、「緒戦を有利に戦って日本に分が良い間に、有利な条件で講和するなら・・・」との条件で真珠湾攻撃に同意したと、故大森実氏は、その著書「戦後秘史」で書いています。
 けれども、ひとたび、開戦すれば、そんな目算どおりにはいきませんでした。

 太平洋戦争では、真珠湾攻撃の翌年の昭和十七年には、日本本土にアメリカが小手調べの空襲を始める始末で、どんどん戦況が悪くなる中で、妥協点など探ることもできず(探っていて実際に、働いていた人たちはいたのですが)、とうとう、沖縄の決戦、本土の大空襲、広島、長崎の原爆投下で、息の根を止められるような敗戦に至ったのです。一般市民、非戦闘員が大量に殺される戦争でした。


 これは太平洋戦争だけでなく、ヨーロッパ戦線でも独ソ戦でも同じです。結局、第二次世界大戦の死者は、戦勝国、敗戦国合わせて、軍人二千五百万人、民間人三千七百万人(推定・ウィキピディアより)にものぼったのです。もちろん、都市の破壊など経済的損失は天文学的な数字です。これは、宗教戦争ではありません。これが人間の罪の性質です。


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 申命記、ヨシュア記でカナンを攻めていくとき、神が、敵を「あなたに渡す」と仰せになるのは、それが、イスラエル民族に国土を与えるという神のご計画と約束だったからです。
 大切なのは、神がお許しになり、ともにいて戦ってくださる戦いでなければ、「勝つことはできない」。人が何かと対決する時は、「神のお許しがなければ、戦ってはいけない」と知ることです。
 
 
 長い間、人間の歴史では、戦争で掠奪するのは当たり前でした。しかし、神は、自分たち「人間の欲望と判断」で、戦いを進めることを戒めておられるのです。

 エリコを攻めたとき、イスラエルの兵士アカンが、神が聖別して奉納するよう命じておられる戦利品(ヨシュア記6章18節19節)を、自分の物として隠し持ったために、大きな罰を受けています。
 
 人の血を流すほどの深刻な戦い(平時の心理的なものにも適用できるでしょうか)の時こそ、私たちは、神の前にひざまずいて、神の声を聞かなければならないと思うのです。



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2011年05月25日

Coffee Break269 モーセの無念(申命記3章21章〜26章)




 ヨルダン川の東岸の地を手に入れたイスラエルは、ルベン人とガド人、マナセの半部族にその地を与えることに決めます。
 ただし、彼らのうち、相応の戦闘要員は、ほかのイスラエルの部族がカナンの相続地全部を手に入れるまで、ともに戦うことを誓います。

 カナン入りのリーダーはヨシュアです。それは、主がみずからお決めになり、すでに、叙任式もすんでいます。(民数記27章18章〜23章)
 モーセは、申命記3章21節で、かつてヨシュアを任命した時に彼を励ましたことばを明らかにします。

 わたしは、そのとき、ヨシュアに命じて言った。「あなたは、あなたがたの神、主が、これらふたりの王になさったすべてのことをその目で見た。主はあなたがたがこれから渡って行くすべての国々にも、同じようにされる。(申命記3章21節)
 彼らを恐れてはならない。あなたがたのために戦われるのはあなたがたの神、主であるからだ。」(22節)
 


 ヨシュアは四十年間、モーセのそば近くにいて、偉大な預言者、民のリーダー、モーセをつぶさに見てきたでしょう。それでも、あくまで、ヨシュアはモーセの従者に過ぎませんでした。
 モーセの心に、イスラエルの将来について、一抹の心配があったとしてもふしぎではありません。 
 「私は神を信頼する。神がヨシュアにも同じようにともにいてくださる」と、モーセはまるで自分に言い聞かせているかのようです。
 できるなら、自分が同行して見守ってやりたい。せめて、かの地に渡るまで生きていたい、とモーセが願ったとしても当然です。

 モーセは、主に懇願します。
「神、主よ。あなたの偉大さと、あなたの力強い御手とを、あなたはこのしもべに示し始められました。あなたのわざ、あなたの力あるわざのようなことができる神が、天、あるいは地にあるでしょうか。(24節)
 どうか、私に、渡って行って、ヨルダンの向こうにある良い地、あの良い山地、およびレバノンを見させてください。」(25節)
 
 しかし主は、あなたがたのために私を怒り、私の願いを聞き入れてくださらなかった。そして主は私に言われた。「もう十分だ。このことについては、もう二度とわたしに言ってはならない。」(26節)


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 モーセとアロンが、カナンに入れないと神さまから宣告されたのは、「メリバの水」事件(民数記20章6節〜13節)のためでした。
 民が水を求めて、主と争ったとき、モーセは民のわがままさに思わず自制心を失い、神が岩に命じよと仰せになったところを、岩を杖で打ってしまったのです。それでも、水は出たのですが、神の指示どおりにしなかったことで、咎められたのです。

 モーセにとって、それは悔やんでも悔やみきれないことだったのでしょう。

 申命記4章では、またしても、そのことを持ち出します。

 主はあなたがたのことで私を怒り、私はヨルダンを渡れず、またあなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる良い地に入ることができないと誓われた。(4章21節)

 私は、この地で死ななければならない。私はヨルダンを渡ることができない。しかし、あなたがたは渡って、あの良い地を所有しようとしている。(22節)


 神は、モーセがミディアンの野で、羊飼いとしてのんびり暮していたところを、とつぜん召し出され、出エジプトのリーダーに任命されたのです。

 それからのモーセの人生は、主の預言者としての大任と、身勝手な民との間で、心労と苦難の連続だったのです。
 
 しかし、ここでも、神は人間の欲求や計画と、神のご計画や御心が異なることを決然と示されるのです。
 
「もう十分だ。そのことについては、二度とわたしに言ってはならない。」
 



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2011年05月26日

Coffee Break270 モーセの気迫(申命記4章)

 


 今、イスラエルよ。あなたがたが行なうように私の教えるおきてと定めとを聞きなさい。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたの父祖の神、主が、あなたがたに与えようとしておられる地を所有することができる。(申命記4章1節)

 私があなたがたに命じることばに、付け加えてはならない。また、減らしてはならない。私があなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令を、守らなければならない。(2節)



 モーセは、カナンに入れないことを無念に思ったことでしょう。それ以上に、同胞イスラエルの民が、約束の地で強い信仰に立って、国を立てていけるか、心配だったにちがいありません。

 イスラエルの民は、出エジプト以来の四十年の間、いく度となく神に背き、とうとう出エジプトの時20歳以上だった世代は、カナンを見ることなく死に絶えたのです。

 ですから、4章でもっとも強調されているのは、神、主への絶対的な従順です。
 ホレブで十戒を下さったイスラエルの神は、「比類なき神」だと、改めて民に認識させることなのです。
 

 さあ、あなたより前の過ぎ去った時代に尋ねてみるがよい。神が地上に人を造られた日からこのかた、天のこの果てからかの果てまでに、これほど偉大なことが起こったであろうか。このようなことが聞かれたであろうか。(32節)

 あなたのように、火の中から語られる神の声を聞いて、なお生きていた民があっただろうか。(33節)

 あるいは、あなたがたの神、主が、エジプトにおいてあなたの目の前で、あなたがたのためになさったように、試みと、しるしと、不思議と、戦いと、力強い御手と、伸べられた腕と、怖ろしい力をもって、一つの国民の中から取って、あえてご自身のものとされた神があったであろうか。(34節)

 あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であって、ほかに神はいないことを、あなたが知るためであった。(35節)
 


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 イスラエルの神が比類なき神なのは、超自然的なその力、ふしぎな顕現の仕方などのためだけではありません。
 そのような力ある神が、そのような力を顕されて、イスラエルの父祖への約束を果たすため、奴隷であったイスラエルの民をエジプトから連れ出してくださったからです。

 その上で、イスラエルの民だけを特別な群れとして、シナイ契約をむすんでくださったのです。
ですから、当然、イスラエルの民はほかの神を拝んでもならないのです。ほかの神とは偶像の神、カナンのほかの民が拝んでいる神々のことです。

 あなたがたは十分に気をつけなさい。主がホレブで火の中からあなたがたに話しかけられる日に、あなたがたは何の姿も見なかったからである。(15節)
 
 堕落して、自分たちのために、どんな形の彫像をも造らないようにしなさい。男の形も女の形も。(16節)

 地上のどんな家畜の形も、空を飛ぶどんな鳥の形も、(17節)

 地をはうどんなものの形も、地の下の水の中にいるどんな魚の形も。(18節)

 また、天に目を上げて、日、月、星の天の万象を見るとき、魅せられてそれらを拝み、それらに仕えないようにしなさい。(19節)

 きょう、あなたは、上は天、下は地において、主だけが神であり、ほかに神がないことを知り、心に留めなさい。(39節)



 モーセは、出エジプトのリーダーという大きな使命を生きる中で、自分とイスラエルを選んでくださった神の偉大さに触れ、圧倒され、その神の大きな愛を、民に伝えないではいられなかったにちがいありません。4章全体からは、神のしもべモーセの気迫が、燃え上がってくるようです。

 ここには、召命を受けた日に、おそるおそる神の前でひざまずくだけだったモーセ。神の召しにためらいを見せていた、無口なモーセの面影はありません。





2011-05-2
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2011年05月27日

Coffee Break271 偶像の危険(申命記4章15節〜19節)



 
 あなたがたは十分に気をつけなさい。主がホレブで火の中からあなたがたに話しかけられる日に、あなたがたは何の姿も見なかったからである。(15節)

 これまで、偶像と偶像礼拝について、何度か触れてきました。
 偶像礼拝の禁止は、十戒の二番目の戒めであり、これまでも、イスラエルの民は何度となく戒めと警告を受け、また、戒めを破って罰も受けています。

 神がイスラエルに命じて禁じられた偶像とは、何よりも「手で刻んだり、火で鋳造したりした像」でした。イスラエルの民自身、金の子牛を鋳造して拝み、神の怒りに触れました。

 また、すでに、イスラエル以外のところで拝まれていたバアルと呼ばれる神々でした。ミディアンの女やモアブの女と寝たイスラエルの男たちは、女に誘われて、バアルの神を拝んだのです。


 しかし、モーセはここで、さらに具体的に、何が偶像なのかを挙げています。

 堕落して、自分たちのために、どんな形の彫像をも造らないようにしなさい。男の形も女の形も。(16節)
 
 地上のどんな家畜の形も、空を飛ぶどんな鳥の形も、(17節)

 地をはうどんなものの形も、地の下の水の中にいるどんな魚の形も。(18節)

 また、天に目を上げて、日、月、星の天の万象を見るとき、魅せられてそれらを拝み、それらに仕えないようにしなさい。(19節)


 男の形や女の形、家畜、空を飛ぶ鳥、蛇や魚が、なぜいけないのでしょう。

 鳥や蛇や魚は小さなものだけれど、太陽や月や星は、見上げて礼拝するだけかもしれない。それでもいけないのでしょうか。
 
 そうなのです。モーセは、「魅せられてそれらを拝み、それらに仕えないように」と言っています。

 たとえ、太陽であっても、神ご自身とは、似ても似つかぬものなのです。太陽も月も星も、直径何億光年の宇宙であっても、すべて神の被造物であって、神ではないのです。
 どれほど圧倒される美しい空でも、壮大な山であっても、神がお造りになったものであって、神ご自身ではないのです。

 イスラエルをエジプトから導き出された神、「わたしはある」と自己紹介された神は、天地万物を創造され、全知全能のその御力で、すべてのものを存在させておられるお方です。
 蛇と牛を比べて、牛の神の方が真の神だというのではありません。すべてを存在させておられる神以上に上位の存在などないので、唯一の神なのです。ご自分は永遠の始めから、何者にも依存することなく存在しておられた、そのような神が、聖書の神なのです。

 創造者である方を、被造物と同列に、または、置き換えて拝むことなど、ナンセンスなことなのです。


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 今の時代、もはや、蛙や牛やきつねを、心から拝んでいる人は少ないと思われるでしょうか。
 元旦の朝、海や山に、初日の出を拝みに行く人は大勢いるでしょうが、それでは、「太陽神」の信者かと問われれば、違うと答える人がほとんどでしょう。

 嬉しいことに、バアルや金の子牛につまづく人はいないでしょう。

 けれども、それに代わる偶像が生まれていて、人々が新しい現代的偶像にひざまずき、礼拝しているのは、容易に見ることができます。


 成功、富、良い暮らし、積極思考、仕事、趣味なども、それを拝み、第一に求め、それに仕えるようになったら、偶像ではないでしょうか。しかも、このような、偶像は、クリスチャンであっても拝む可能性があるのです。肯定的で、幸せを約束するものは、一見、良いものに見えますから、要注意です。

 聖書は、時代を超えて適用できる真理の書です。モーセの警告に、私たちも静まって、耳を傾けたいものです。





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2011年05月28日

Coffee Break272 もう一度十戒(申命記5章)


 
 
 さて、モーセはイスラエル人をみな呼び寄せて彼らに言った。
 聞きなさい。イスラエルよ。きょう、私があなたがたの耳に語るおきてと定めとを。これを学び、守り行ないなさい。(申命記5章1節)

 私たちの神、主はホレブで私たちと契約を結ばれた。(2節)


 申命記とは、重ねて命令する(書)と言う意味です。
 この書は、1章から33章まで、モーセの演説になっていると前にも書きましたが、とくに、5章から26節までは、十戒とそれにともなう細則(おきて)が繰り返されているのです。

 内容的には、出エジプト記20章で示されたと同じ戒めですが、もう一度、書き出しておきましょう。

 前置き、 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。

 第一の戒め、あなたは、私のほかに、ほかの神々があってはならない。
 
 第二の戒め、あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。
 
 第三の戒め、あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。
 
 第四の戒め、安息日を守って、これを聖なる日とせよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。
 
 第五の戒め、あなたの父と母を敬え。
 
 第六の戒め、殺してはならない。
 
 第七の戒め、姦淫してはならない。
 
 第八の戒め、盗んではならない。
 
 第九の戒め、あなたの隣人に対し、偽証してはならない。
 
 第十の戒め、あなたの隣人のものを欲してはならない。
                         (申命記5章6節〜21節)
 


 
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 ヨルダンの東岸でカナン入りを待っているイスラエルの民は、シナイ山(ホレブ)では、二十歳以下か、生まれていなかったかのどちらかだったのです。神が、シナイ山で、火と煙との中を下りてこられ、モーセに十戒を下さったのを、見ていない世代なのです。
 
 ただ、イスラエルの民はすでに幕屋を持ち、祭儀も祭司制度も確立しているのですから、十戒を知らないわけではなかったでしょう。同じものを、もう一度、述べられるのには意味があります。
 

 主が、この契約を結ばれたのは、私たちの先祖たちとではなく、きょう、ここに生きている私たちひとりひとりと、結ばれたのである。(3節)


 モーセは、これらの戒めやおきてが、繰り返しとしてではなく、ここに生きる私たちひとりひとりと(あらためて)結ばれたのである、と言うのです。

 このことは、いま、聖書を読む私たちに、とても大きな意味を投げかけることばではないでしょうか。
 聖書は、三千五百前から二千年前にかけて書かれたものです。そのような聖書のことばを、いま、私たちは自分に与えられたものとして読むことができる、その理由がわかるのです。
 神が、聖書を、いま、ここに生きる私たちひとりひとりに与えてくださったと、すでに、宣言してくださっていると言うのは、私の読み込みすぎでしょうか。
 





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2011年05月29日

Coffee Break273 十戒を要約すると(申命記6章、レビ記19章、マルコ 12章29節〜31節)




 十戒は、神からイスラエルの民への「十の戒め」ですが、それも、覚えるのが大変という方もいます。始めは、だれでもそうですね。

 でも、心配は要りません。
 「十の戒め」は、まず、二つに分類できるのです。

 イエス様は、ある律法学者が「すべての命令の中でどれが一番大切ですか」と尋ねたとき、次のように、お答えになっています。

(マタイの福音書12章29節〜31節)
「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。
 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』


 次にこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』 この二つより大事な命令はありません。」


 最初に挙げられた、神を愛しなさいは、第一の戒めから第四の戒めまでを指しています。
 「次に」と挙げられた、「隣人を自身のように愛せよ」は、第五の戒めから、第十の戒めを指しています。


 要約すれば、十戒は、神への愛と、隣人への愛の二つなのです。

 これらは、じつは、旧約聖書の「律法の書」(モーセ五書)に出ていることを、イエス様が引用されているのです。

☆☆☆☆

 神を愛することについては、申命記6章に次のように書かれています。

 聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。(4節)

 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(5節)



 隣人を愛することについては、次のように出ています。

 あなたの隣人をしいたげてはならない。かすめてはならない。日雇い人の賃金を朝まで、あなたのもとにとどめていてはならない。(レビ記19章13節)

 あなたは耳の聞こえない者を侮ってはならない。目の見えない者の前につまずくものを置いてはならない。あなたの神を恐れなさい。わたしは主である。(14節)

 不正な裁判をしてはならない。弱いものにおもねり、強いものにへつらってはならない。あなたの隣人を正しくさばかなければならない。(15節)

 人々の間を歩き回って、人を中傷してはならない。あなたの隣人の血を流そうとしてはならない。わたしは主である。(16節)

 心の中であなたの身内の者を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。そうすれば、彼のために罪を負うことはない。(17節)

 復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。

あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。(18節)



 大切なのは、隣人への愛も、「人道的戒め」ではないということです。隣人を愛することは、人道的に正しいとか正しくないとかではなく、神が望んでおられることなのです。ですから、隣人を愛しているかどうかも、神が見ておられ、神がさばきを行われることなのです。神を愛し、神を畏れる者として、神が求めておられることを行うのは当然の義務なのです。(下線、太字は筆者)

 その意味では、十戒全部が、神の前に正しいかどうかが、問題となる戒めなのです。

 人はどんなに正しくあろうとしても、自分の力ではできません。
 欺くものですし、欺かれるものなのです。



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2011年05月30日

Coffee Break274 律法の義(申命記6章5節〜25節)




 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(申命記6章5節)

 わたしがきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。(6節)
 
 これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。(7節)
 これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。(8節)
 これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。(9節)


 モーセは、イスラエルの民に十戒を告げてから、それを常に心に刻み、念頭に上らせていなければならないと繰り返し述べています。

 十戒とそれにともなうおきてやさとしは、受験勉強の年表や動詞の活用のように機械的に「暗記すればよい」ものではないのです。ことばを心に刻み、子どもたちによく教え、四六時中唱え、さらに手に結びつけ、額に結びつけ、家の門にも書きしるしなさいと言うのです。


 あなたの神、主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地にあなたを導きいれ、あなたが建てなかった、大きくて、すばらしい町々、(6章10節)
 あなたが満たさなかった、すべての良い物が満ちた家々、あなたが掘らなかった堀り井戸、あなたが植えなかったぶどう畑とオリーブ畑、これらをあなたに与え、あなたが食べて、満ち足りる時、(11節)
 あなたは気をつけて、あなたをエジプトの地、奴隷の家から、連れ出された主を忘れないようにしなさい。(12節)

 あなたの神、主を恐れなければならない。主に仕えなければならない。御名によって誓わなければならない。(13節)


 もちろん、いかなる時もほかの神々を拝むこと(14節)、神を試みること(16節)を禁じています。
 また、生活のあらゆる面で、「主が正しい、また良いと見られることをしなさい」(18節)と命じているのです。

 ☆☆☆☆


 十戒の教えを、心に刻むことは、子どもにとっては大変厳しい学びだったのでしょう。

 モーセは、「あなたの息子が、この主が命じられたさとしとおきてと定めとは、どういうことか」と問うなら、主がイスラエルをエジプトから導き出された歴史を、きちんと説明しなさいと言っています。

 「私たちはエジプトで奴隷であったが、主が力強い御手をもって、私たちをエジプトから連れ出された。(21節)
 主は私たちの目の前で、エジプトに対し、パロとその全家族に対して大きくてむごいしるしと不思議とを行い、(22節)
 私たちをそこから連れ出された。それは私たちの先祖たちに誓われた地に、私たちを入らせて、その地を私たちに与えるためであった。(23節)

 主は、私たちがこのすべてのおきてを行ない、私たちの神、主を恐れるように命じられた。それは、今日のように、いつまでも私たちがしあわせであり、生き残るためである。(24節)


 しかし、次のモーセのことばは、注意が必要です。

 私たちの神、主が命じられたように、御前でこのすべての命令を守り行なうことは、私たちの義となるのである。(25章)

 ここには、明らかに「行いが、義とされる」と書かれています。信じる信仰だけで義とされたアブラハムの信仰とは、違った信仰が入ってきているのです。





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2011年05月31日

Coffee Break275 主の命令と私たちの義(申命記7章1節〜11節) 




 私たちの神、主が命じられたように、御前でこのすべての命令を守り行なうことは、私たちの義となるのである。(25章)

 申命記を通じて、モーセが、イスラエルの民に重ね重ね喚起させているのは、「神に従いなさい。自分たちの父祖の神、アブラハム・イサク・ヤコブの神、自分たちをエジプトの奴隷の家から救い出してくださった神を覚えて、その契約の律法を心に刻み、守り行ないなさい」ということです。

 その理由は、御前でこれらの命令を守り行なうことは、「私たちの義となる」からでした。

 それだけに、モーセは、神の命令を行なうのを妨げるものを徹底的に排除するよう命じています。


 あなたが、入って行って、所有しようとしている地に、あなたの神、主が、あなたを導き入れられるとき、主は、多くの異邦の民、すなわちヘテ人、ギルガシ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、およびエブス人の、これらあなたよりも数多く、また強い七つの異邦の民をあなたの前から追い払われる。(申命記7章1節)

 あなたの神、主は、彼らをあなたに渡し、あなたがこれを打つとき、あなたは彼らを聖絶しなければならない。彼らと何の契約も結んではならない。容赦してはならない。(2節)

 また、彼らと互いに縁を結んではならない。あなたの娘を彼の息子に与えてはならない。彼の娘をあなたの息子にめとってはならない。(3節)

 彼はあなたの息子を私から引き離すであろう。彼らがほかの神々に仕えるなら、主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、主はあなたをたちどころに根絶やしにしてしまわれる。(4節)


 戦いのとき異邦の民である敵を容赦してはならない。異邦の民と契約をしてはならない。異邦の民と縁を結んではならない。その理由は、そのような妥協や盟約や縁が、神からイスラエルを離れさせ、結果として、神の怒りがイスラエルを根絶やしにしてしまわれるからと説明されています。


 ☆☆☆☆


 むしろ、彼らに対して、このようにしなければならない。彼らの祭壇を打ちこわし、石の柱を打ち砕き、彼らのアシュラ像を切り倒し、彼らの彫像を火で焼かなければならない。(5節)

 この激しく厳しい命令は、聖書を読む人が一度は戸惑う箇所ではないでしょうか。とくに、何でも、なあなあ・まあまあのところで妥協して済ませてしまいたい私たち日本人には、きついところかもしれません。

 多神教の日本人の多くは、いくら敵のものだといって、仮にも「神様」。それを切り倒したり、焼いたりするなんて「もったいない」と言うかもしれません。


 これほど、厳しいことばをくどくどと重ねているのは、じつは、イスラエルの民もなかなかモーセの命じることを、理解していなかったからではないかと、私は思います。

 
 モーセは、イスラエルの民のプライドに訴えます。
 また、神の理屈抜きのイスラエルへの愛を訴えます。 
 
 あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。(6節)

 主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから・・・。(7節)


 それから、主がどれほど崇高で比類なき方かを、子どもをさとすように教えます。

 あなたは知っているのだ。あなたの神、主だけが神であり、誠実な神である。主を愛し、主の命令を守る者には恵みの契約を千代まで守られるが、(9節)
 主を憎むものには、これに報いて、主はたちどころに彼らを滅ばされる。主を憎むものには猶予はされない。たちどころに報いられる。(10節)


 そして、またも、モーセは、繰り返すのです。

 私が、きょう、あなたに命じる命令──おきてとさだめ──を守り行なわなければならない。(11節)

 シナイ契約では、契約の履行、おきてとさだめとさとし(律法)を守ることで、神の前に義とされたのですから、モーセが精魂を傾けて民にその遵守を訴えたのは当然です。

 けれども、イスラエルの民は、結局、律法を守って神の前に義となることはできなかったのです。






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