2011年05月14日

Coffee Break258 悔い改めたヨナ(ヨナ書)




 魚の胃袋に閉じ込められて身動きがつかない、けれども死ぬわけでもない状態で、ヨナはようやく目が覚めました。自分の身の程をあらためて認識したのです。

 神と私たち人間との関係では、主権は神にあり、どのように逆らってもみても、人間は神に太刀打ちできる存在ではありません。預言者であるヨナは、もちろん、そんなことは知っていました。それでも、逆らったのは、神の義(正しさ)と自分の正義が一致しなかったからです。神がニネベの人たちを救えと言うのは、ヨナには「敵に塩を送る」行為にも思えました。

 新約聖書が与えられた私たちにとって、神の愛は、あまねく、地上のすべての民に注がれていること、すべての民は神がお造りになったこと、そして、「悪い人にも良い人にも、太陽を照らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」方である(マタイの福音書5章45節)ことを知っています。

 ところが、旧約の民は、天地をお造りになった神を、アブラハム・イサク・ヤコブの神、つまりイスラエルの民族の神、自分たちだけの神に留めておきたかったのです。
 ですから、旧約聖書が預言し続けている「救い主(キリスト)」を待ち望みながら、そのキリストが、旧(ふる)い約束の中から、さなぎが蝶になるようにまばゆく出現されたとき、その教えのあまりの大きさ、広さ、高さ、深さ、のゆえに信じることができませんでした。


 ヨナのような預言者でさえも、天地創造の神は、「自分の神」だと思いたかったのです。私たちが、自分の父親を自分の利益や保護のために動いてくれる人だと思いたいのと同じです。父親が、自分のライバルのために親切をしてやったら、きっと反撥するでしょう。


☆☆☆☆

 ヨナは、「父なる神のユニバーサルな愛と公正」を受け容れた結果、敵が助かるくらいならなら、死んだほうがましだと思いました。少なくとも、死ねば、「反抗する」という目的は達せられます。

 水に投げ込まれた瞬間、ヨナは、「やったー!」と思ったかもしれません。そして、つぎの瞬間、彼は、たちまちもがき始めるのです。


 ヨナは魚の腹の中から、彼の神、主に祈って、言った。

 「私が苦しみの中から主にお願いすると、
 主が答えてくださいました。
 私がよみの腹の中から叫ぶと、
 あなたは私の声を聞いてくださいました。
 あなたはわたしを海の真ん中の深みに
 投げ込まれました。
 潮の流れが私を囲み、
 あなたの波と大波がみな、
 私の上を越えていきました。
 私は言った。
 『私はあなたの目の前から追われました。
 しかし、もう一度、私はあなたの聖なる宮を
 仰ぎ見たいのです』と。
 水は私ののどをしめつけ、
 深淵は私を取り囲み、
 海草は私の頭にからみつきました。
 私は山々の根元まで下り、
 地のかんぬきが、
 いつまでも私の上にありました。  (ヨナ書2章1節〜6節)


 魚の腹の中で、もがき苦しみ、ヨナは神に助けを求めました。主権は神にあり、世界は神の中にあることを、あらためて認めるのでした。

 しかし、私の神、主よ。
 あなたは私のいのちを
 穴から引き上げてくださいました。
 私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、
 私は主を思い出しました。
 私の祈りはあなたに、
 あなたの聖なる宮に届きました。

 むなしい偶像に心を留める者は、
 自分への恵みを捨てます。
 しかし、私は、感謝の声を上げて、
 あなたにいけにえをささげ、
 私の誓いを果たしましょう。
 救いは主のものです。」

 主は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた。 (6節〜10節)


 ヨナは悔い改めて、ふたたび地上に戻ってきたのです。

                   つづく






★聖書は新改訳聖書を使っています。★







posted by さとうまさこ at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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