2011年05月15日

Coffee Break259  ニネベで(ヨナ書)


 

 再びヨナに次のような主のことばがあった。(ヨナ書3章1節)
「立ってあの大きな町ニネベに行き、わたしがあなたに告げることばを伝えよ。」(2節)
 

 命拾いして地上に戻ったヨナに、神様はふたたび、敵国アッシリアの首都へ行くよう仰せになりました。いくら強情な愛国者ヨナでも、もう神様に逆らえません。ニネベへ出かけたのです。

 ニネベは、行きめぐるのに三日かかるほどの非常に大きな町だった(3節)とあります。周囲五キロ四方くらいの城壁に囲まれた町でした、
 ヨナは、ニネベへ入り、神様のご命令どおり、一日目から歩けるだけ町を歩いて、叫びました。

「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされるぞ」

 ヨナにしてみれば、神様への義務を果たすだけの気持ちだったかもしれません。さあ、神様。ちゃんとご命令どおり動いていますよ! おっしゃるとおりにしましたからね。

 偶像礼拝を行い、堕落した生活をしているニネベの民だ。どうせ、聞く耳なんかもたないですよ。というより、聞く耳を持ってくれないほうが良いというのが、ヨナの気持ちでした。できることなら、四十日後にニネベが滅びるのを見たいものだ!

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 なんということでしょう。
 ニネベの人たちは、ヨナのことばを聞いたのです。

 そこで、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで荒布を着た。(5節)
 このことがニネベの王の耳に入ると、彼は王座から立って、王服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中にすわった。(6節)

 王と大臣との命令によって、次のような布告がニネベに出された。「人も、獣も、牛も、羊もみな、何も味わってはならない。草をはんだり、水を飲んだりしてはならない。」(7節)
 人も、家畜も、荒布を身にまとい、ひたすら神にお願いし、おのおの悪の道と、暴虐の行いから立ち返れ。(8節)
 もしかすると、神が思い直してあわれみ、その燃える怒りをおさめ、私たちは滅びないですむかもしれない。(9節)

 神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。(9節)


 ニネベが悔い改め、結局、神はニネベをお救いになったのです。

 おさまらないのはヨナでした。

 神様、あなたはイスラエルの神さまではないのですか。イスラエルの民・われらの「父なる神」ではないのですか。どうして、敵国へのわざわいを思いなおされるのですか。

 
「ああ、主よ。わたしがまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めタルシシュへ逃れようとしたのです。私は、あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていたからです。」(4章2節)

 ここで、ヨナが、あなた(神)が情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されると、言っているのは、ニネベを救った神への「非難のことば」としては、矛盾するように思われるでしょうか。

 これは、出エジプト記34章6節にあることばです。

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 十戒は、最初、出エジプト記31章18節で、モーセに授けられました。ところが、モーセが十戒の石の板をいただいてシナイ山を下山してくると、民は金の子牛を鋳造してこれを拝みお祭り騒ぎをしていました。これを見たモーセは、怒りのあまり十戒の石の板を、山のふもとの投げつけて砕いてしまいました(出エジプト記32章19節)

 しかし、この怒りは、偶像礼拝に対するものでしたから、神の御心にかなうことでした。神はもう一度、石の板を授けてくださることにされたのです。二度目にシナイ山に入ったモーセに顕現された主、神は、みずから宣言されたのです。
「主、主はあわれみ深く、情け深い神、怒るにおそく、恵みとまことに富み、」 


 十戒は、神のイスラエルの民との契約(シナイ契約)を意味します。
 つまり、この時点では、天地万物を創造された神は、イスラエルの民と契約を結ばれたイスラエルの神だったのです。

 ヨナが、神を非難するのに、このときの神ご自身のことばをもち出したのは、神様に、「神様、あなたは十戒を下さったイスラエルの神様でしょう?」と申し上げて、自分の正しさを主張しているのです。

 ちょうど、私たちの父親が、私たちのライバルに良くしてあげると、怒りを覚えるのが正当だと思うように、ヨナは、タルシシュに逃げたときからの、自分の怒りを正当化しようとしているのです。

 ヨナがこのような反応を見せるのは、無理からぬことかもしれません。
 
 旧約聖書は、シナイ契約の下での、神と人との関係に焦点が当てられています。けれども、そこには、アブラハムの子孫であるひとつの民族から、やがて、すべての人類を祝福に入れる(創世記12章3節)といわれた神のご計画がすでに、始まっているのです。新約聖書に、「十字架のあがない」として現れる神のユニバーサルな愛は、ヨナにはまだ、理解できないことでした。






posted by さとうまさこ at 04:00| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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