2011年05月23日

Coffee Break267 生きて働かれる神(申命記)



 私たちは、「聖書の神」に対して、いろいろな箇所で違和感を持つことがないでしょうか。
 聖書は、神が主役の書物なので、神のことばや意思、心、感情、すがた(見える姿ではありませんが)などが、その冒頭から一貫して聖書を貫いて、いわば「物語」が展開しているわけです。

 ところが、聖書の神の姿と自分が先入観として持っている神様というものが、重なり合わない箇所がしばしば出てくるのです。
 少なくとも、私の場合はそうでした。そもそも神について、深く考えたことなどなかったわけです。ただ、宗教的な雰囲気の家庭に育ちましたから、混沌とした世界の彼方に、何か、汚れたこの世を、整理し清めてくれるような「存在」があり、それが、神仏と言われるもののような気がしていました。
 
 そのような神仏は、どこか厳かな、深遠な場所に静かに座しておられ、人間の喜びにも、悲しみにも、愚かさにも、戦いにも、距離を置いておられて、立ち上がって直接、関わってくるようなことはないのです。
 
 それだけに、聖書を読み始めて、「はじめに、神が天と地を創造した」と言われて、まずびっくりしてしまいます。

 神様が、ご自分の造った人間を気に掛けられ、救いの計画のためにひとりの人を選び、その子孫をまた、壮大な計画で、ある場所から別の場所に移される。そのような、「生きた行動力のある」神の姿に、圧倒されるのです。
 ひとつの民族を生かすために、別の民を滅ぼすこともある、そのような厳しさにも驚くのです。


☆☆☆☆

 イスラエルは、遠い縁戚であるエドム(エサウの子孫)とモアブ(ロトの子孫)の国を、迂回して北上したあと、今度はヘシュボンの王エモリ人シホンと対決することになります。

 バモテからモアブの野にある谷に行き、荒地を見おろすピスガの頂に着いた。(民数記21章20節)
 イスラエルはエモリ人の王シホンに使者たちを送って言った。(21節)

「あなたの国を通らせてください。私たちは畑にもぶどう畑にも曲がって入ることをせず、井戸の水も飲みません。あなたの領土を通過するまで、私たちは王の道を通ります。(22節)


 しかし、シホンはイスラエルが自分の領土を通ることを許さなかった。シホンはその民をみな集めて、イスラエルを迎え撃つために荒野に出てきた。そして、ヤハツに来て、イスラエルと戦った。(23節)

 これは、民数記に書かれているシホンとの戦いのいきさつです。

 同じ出来事を、モーセは、申命記で次のように説明しています。

 モアブとアモン人の領土を迂回したとき、主・神がモーセにシホンと戦えと命じられたのです。

 立ち上がれ。出発せよ。アルノン川を渡れ。見よ。わたしはヘシュボンの王エモリ人シホンとその国とを、あなたの手に渡す。占領し始めよ。彼と戦いを交えよ。(申命記2章24節)

 きょうから、わたしは全天下の国々の民に、あなたのことでおびえと恐れを臨ませる。彼らは、あなたのうわさを聞いて震え、あなたのことでわななこう。」(25節)


 この後、モーセは民数記21章21節22節で書かれている申し入れを、シホンに行なうのです。礼儀正しく使者を送り、領土を通らせてください。万一、食物や水が必要な時は、金を払います。

 もちろん、シホンはイスラエルを通らせようとはしません。それは、すでに、主・神が意図しておられるとおりにシホンの心が動いて、シホンがイスラエルに抵抗したのです。
 それは今日見るとおり、彼をあなたの手に渡すために、あなたの神、主が、彼を強気にし、彼の心をかたくなにされたからであった。(30章)とあるとおりです。
 

 軍を整えて出てきたシホンに、イスラエルは勝利しました。神が、「わたしはシホンとその地とをあなたの手に渡し始めた。占領し始めよ。その地を所有せよ。」(申命記2章31節)と仰せになったことだからです。

 シホンとの戦いは、まだカナンでの戦いの緒戦でした。
 すでに民が知っている戦いを、モーセが改めて説明したのは、以後のカナンでの戦いにも、神の主権が第一であることを、遺言したかったからでしょう。




posted by さとうまさこ at 04:00| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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