2011年05月24日

Coffee Break268 神に聞く(申命記3章、ヨシュア記6章)




 私たちはパシャンへの道を上って行った。するとパシャンの王オグとそのすべての民は、エレデイで私たちを迎えて戦うために出てきた。(申命記3章1節)

 パシャンはヘシュボンの北側に位置します。パシャンの領土も、カナンに入るため通らなければならなかったのでしょう。それが、パシャンの王ヘシュボンにもわかったのか、両者は戦闘態勢でぶつかることになります。

 イスラエルがヘシュボンを取るのは、ご計画の内にあるもので、神の御心でした。ですから、主は仰せになります。

「彼を恐れてはならない。わたしは、彼と、そのすべての民と、その地とを、あなたの手に渡している。あなたはヘシュボンに住んでいたエモリ人の王シホンにしたように、彼にしなければならない。」(申命記3章2節)

 こうして私たちの神、主は、パシャンの王オグとそのすべての民をも、私たちの手に渡されたので、私たちはこれを打ち殺して、ひとりの生存者も残さなかった。(3節)


 これらの戦いは、「ひとりの生存者も残さなかった」という徹底したものでした。町を六十、ことごとく攻め取り、その町と、そこに住む男、女、子どもを聖絶したと記されています。ただし、すべての家畜と、私たちが取った町々で掠奪したものとは私たちのものとした、のですから戦利品は民のものとしたのです。

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 さて、イスラエルは、立て続けに二人の王を滅ぼし、大勝利を得たのです。これは、イスラエル側にとっては、連戦連勝の快挙だけれども、敗戦した側は悲惨ではないかと思われるかもしれません。現代人の感覚からすれば、確かに、全滅させるのは悲惨です。新改訳聖書では「聖絶」ということばが使われていて、人を神様のために殺すとはなにごとかと、声が聞こえてきそうな箇所です。

 ただ、当時の世界では、戦争で勝利すると言うのは、このようなことだったのでしょう。ですから、勝つかぎりは徹底的に戦わなければならないと、神も命じておられるのです。

 じつは、現代でも、徹底的な戦いは行なわれているのです。一度、戦争が始まると、停戦の妥協点を互いに探っていてさえ、たいていは、徹底的な戦いになってしまいます。


 太平洋戦争開戦の時、山本五十六司令長官は、「緒戦を有利に戦って日本に分が良い間に、有利な条件で講和するなら・・・」との条件で真珠湾攻撃に同意したと、故大森実氏は、その著書「戦後秘史」で書いています。
 けれども、ひとたび、開戦すれば、そんな目算どおりにはいきませんでした。

 太平洋戦争では、真珠湾攻撃の翌年の昭和十七年には、日本本土にアメリカが小手調べの空襲を始める始末で、どんどん戦況が悪くなる中で、妥協点など探ることもできず(探っていて実際に、働いていた人たちはいたのですが)、とうとう、沖縄の決戦、本土の大空襲、広島、長崎の原爆投下で、息の根を止められるような敗戦に至ったのです。一般市民、非戦闘員が大量に殺される戦争でした。


 これは太平洋戦争だけでなく、ヨーロッパ戦線でも独ソ戦でも同じです。結局、第二次世界大戦の死者は、戦勝国、敗戦国合わせて、軍人二千五百万人、民間人三千七百万人(推定・ウィキピディアより)にものぼったのです。もちろん、都市の破壊など経済的損失は天文学的な数字です。これは、宗教戦争ではありません。これが人間の罪の性質です。


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 申命記、ヨシュア記でカナンを攻めていくとき、神が、敵を「あなたに渡す」と仰せになるのは、それが、イスラエル民族に国土を与えるという神のご計画と約束だったからです。
 大切なのは、神がお許しになり、ともにいて戦ってくださる戦いでなければ、「勝つことはできない」。人が何かと対決する時は、「神のお許しがなければ、戦ってはいけない」と知ることです。
 
 
 長い間、人間の歴史では、戦争で掠奪するのは当たり前でした。しかし、神は、自分たち「人間の欲望と判断」で、戦いを進めることを戒めておられるのです。

 エリコを攻めたとき、イスラエルの兵士アカンが、神が聖別して奉納するよう命じておられる戦利品(ヨシュア記6章18節19節)を、自分の物として隠し持ったために、大きな罰を受けています。
 
 人の血を流すほどの深刻な戦い(平時の心理的なものにも適用できるでしょうか)の時こそ、私たちは、神の前にひざまずいて、神の声を聞かなければならないと思うのです。



posted by さとうまさこ at 04:00| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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