2011年05月27日

Coffee Break271 偶像の危険(申命記4章15節〜19節)



 
 あなたがたは十分に気をつけなさい。主がホレブで火の中からあなたがたに話しかけられる日に、あなたがたは何の姿も見なかったからである。(15節)

 これまで、偶像と偶像礼拝について、何度か触れてきました。
 偶像礼拝の禁止は、十戒の二番目の戒めであり、これまでも、イスラエルの民は何度となく戒めと警告を受け、また、戒めを破って罰も受けています。

 神がイスラエルに命じて禁じられた偶像とは、何よりも「手で刻んだり、火で鋳造したりした像」でした。イスラエルの民自身、金の子牛を鋳造して拝み、神の怒りに触れました。

 また、すでに、イスラエル以外のところで拝まれていたバアルと呼ばれる神々でした。ミディアンの女やモアブの女と寝たイスラエルの男たちは、女に誘われて、バアルの神を拝んだのです。


 しかし、モーセはここで、さらに具体的に、何が偶像なのかを挙げています。

 堕落して、自分たちのために、どんな形の彫像をも造らないようにしなさい。男の形も女の形も。(16節)
 
 地上のどんな家畜の形も、空を飛ぶどんな鳥の形も、(17節)

 地をはうどんなものの形も、地の下の水の中にいるどんな魚の形も。(18節)

 また、天に目を上げて、日、月、星の天の万象を見るとき、魅せられてそれらを拝み、それらに仕えないようにしなさい。(19節)


 男の形や女の形、家畜、空を飛ぶ鳥、蛇や魚が、なぜいけないのでしょう。

 鳥や蛇や魚は小さなものだけれど、太陽や月や星は、見上げて礼拝するだけかもしれない。それでもいけないのでしょうか。
 
 そうなのです。モーセは、「魅せられてそれらを拝み、それらに仕えないように」と言っています。

 たとえ、太陽であっても、神ご自身とは、似ても似つかぬものなのです。太陽も月も星も、直径何億光年の宇宙であっても、すべて神の被造物であって、神ではないのです。
 どれほど圧倒される美しい空でも、壮大な山であっても、神がお造りになったものであって、神ご自身ではないのです。

 イスラエルをエジプトから導き出された神、「わたしはある」と自己紹介された神は、天地万物を創造され、全知全能のその御力で、すべてのものを存在させておられるお方です。
 蛇と牛を比べて、牛の神の方が真の神だというのではありません。すべてを存在させておられる神以上に上位の存在などないので、唯一の神なのです。ご自分は永遠の始めから、何者にも依存することなく存在しておられた、そのような神が、聖書の神なのです。

 創造者である方を、被造物と同列に、または、置き換えて拝むことなど、ナンセンスなことなのです。


☆☆☆☆
 
 今の時代、もはや、蛙や牛やきつねを、心から拝んでいる人は少ないと思われるでしょうか。
 元旦の朝、海や山に、初日の出を拝みに行く人は大勢いるでしょうが、それでは、「太陽神」の信者かと問われれば、違うと答える人がほとんどでしょう。

 嬉しいことに、バアルや金の子牛につまづく人はいないでしょう。

 けれども、それに代わる偶像が生まれていて、人々が新しい現代的偶像にひざまずき、礼拝しているのは、容易に見ることができます。


 成功、富、良い暮らし、積極思考、仕事、趣味なども、それを拝み、第一に求め、それに仕えるようになったら、偶像ではないでしょうか。しかも、このような、偶像は、クリスチャンであっても拝む可能性があるのです。肯定的で、幸せを約束するものは、一見、良いものに見えますから、要注意です。

 聖書は、時代を超えて適用できる真理の書です。モーセの警告に、私たちも静まって、耳を傾けたいものです。





posted by さとうまさこ at 04:00| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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