2011年06月01日

Coffee Break276 アブラハムの末裔(申命記7章17節〜21節)

 


 神のおきてとさだめとさとしを、固く守らせるため、モーセはイスラエルの民のプライドに訴えています。
 あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。(申命記7章6節)

 また、神の無条件の大きな愛を教えています。(7節〜)


 つぎに、モーセは、彼らの弱気を警告しています。

 あなたは、あなたの神、主があなたに与えるすべての国々の民を滅ぼしつくす。彼らをあわれんではならない。また、彼らの神々に仕えてはならない。それがあなたへのわなとなるからだ。(16節)
 あなたが心のうちで、「これらの異邦の民は私よりも多い。どうして彼らを追い払うことができよう」と言うことばあれば、(17節)

 彼らを恐れてはならない。あなたの神、主がパロに、また全エジプトにされたことをよく覚えていなければならない。(18節)

 彼らの前でおののいてはならない。あなたの神、主、大いなる恐るべき神が、あなたのうちにおられるから。(19節)


☆☆☆☆


 出エジプト記の中のイスラエルの民が、勇敢だったとはいえないと思います。
 少し思い返しただけでも、彼らがむしろ臆病だったことがわかります。

 イスラエルの民を荒野に行かせよとのモーセの要求に対して、パロがかえって態度を硬化させ、イスラエル民の奴隷労働を厳しくすると、彼らは困って、モーセとアロンを恨みました。(出エジプト記5章)
 意気揚々とエジプトを出たものの、葦の海の手前で、背後に迫るエジプト軍を見たとたん、モーセにわめきました。(出エジプト記14章10節〜14節)
 何よりも、十二人の斥候のうち、十人が、目的地に入れないと報告すると、たちまちおびえて、エジプトに引き返そうとしました。(民数記13章27節〜14章4節)

 奴隷生活から解放された彼らは、すぐれた鉄の武器や、砦や城を持っているカナンの国の人々に対して、恐れを抱いていたのです。
 
 
 神は小心や臆病の結果として、不信仰、不従順に陥ることを警告しておられるのです。

 イスラエルの民がカナンの人々と戦う代わりに、婚姻や協定で妥協して彼らの間に住み、その境目もハッキリしないほど、彼らと混じってしまえば、イスラエルは彼らの神に従って生きることは不可能だからです。(シティムの事件──民数記25章参照)

 彼らが神を見失えば、神は彼らを捨てられるでしょう。
 
 神は、ハランでアブラハムを召し出され、長い時間をかけて、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫を育成し、エジプトで大きくされました。そこから、奴隷となっていたイスラエルの民をふしぎとしるしをもって連れ出されたのです。四十年かけて、やっとカナンの手前まで連れてこられた神、主にとって、そこで、彼らを捨てなければいけないような出来事があれば、それは子を失う父親の、激しい慟哭と同様の悲しみだったに違いありません。

 ☆☆☆☆
 
 ネットで、聖書の神を残酷な神と書いているのを見ました。また、新約の神と旧約の神は、同じ神とは思えないとの意見もありました。

 神が「殺せ」と命じるとは何ごとかと言うわけです。
 しかし、少し、まじめに聖書を読めば、神は、意味なく「殺せ」と命じるような方ではないこと、その必要もない方であるのが、わかるでしょう。

 聖書の神は、天地万物をお造りになり、いまもそれを総べておられるのです。宇宙万物の法則は神の意図されたように動いているのです。ですから、神にとっては、人の力を借りずとも国一つ滅ぼすことなど、簡単なことなのです。太陽でさえ消してしまうことが、お出来になるでしょう。

 ノアの洪水の話しを思い出してください。その時、神は、罪に罪を重ねる人類をぜんぶ滅ばされてもよかったのですが、正しく生きていたノアとその家族を助けようと決心され、箱舟を造って避難するよう命じられたのです。(創世記6章〜9章)
 ソドムとゴモラを滅ぼされるときは、アブラハムの嘆願によって、アブラハムの甥ロトとその家族をお助けになったのです。


 そのような全能の神が、なぜ、イスラエルの民を選んで、わざわざ険しい旅を続けさせたのでしょう。なぜ、苦しい戦いに直面させるのでしょう。

 イスラエルの民は、とくにすぐれた人たちでもありませんでした。それどころか、奴隷の民でした。富も領土も見るべき資産も教養も武力もありませんでした。もちろん、大きな民族ではありませんでした。

 主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。(7章7節)
 と、モーセが言っているとおりです。


 私たちは、ここでも、創世記12章のアブラハムの召命に戻らなければなりません。

 ハランからアブラハムを召し出された主は仰せになりました。

 
 あなたは、
 あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、
 わたしが示す地へ行きなさい。

 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、
 あなたを祝福し、

 あなたの名を大いなるものとしよう。
 あなたの名は祝福となる。

 あなたを祝福するものをわたしは祝福し、
 あなたをのろう者をわたしはのろう。

 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。
     (創世記12章1節2節)
 





posted by さとうまさこ at 04:00| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月02日

Coffee Break277 人はパンだけで生きるのではない(申命記8章3節、マタイの福音書4章4節)

 

 
 あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。(申命記8章2節)
 
 それで、主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。(3節)



 聖書を一度も開いたことがない人でも、「人はパンだけで生きるのではない」と言うことばを聞いたことがあるのではないでしょうか。

 この部分だけでも、とても感動的なことばです。たしかに、私たち人間は、胃袋が満たされるだけでは、満足できないのです。
 それは、今夜食べるものもないと言うような貧しい状態ではなく、今の私たちのように、食べる心配がない社会で、よりはっきり理解できる真理です。
 私たちの社会にあらゆる娯楽が用意されているのは、なぜでしょう。あらゆる好奇心に答えるものがあるのは、どうしてでしょう。
 私たちが、愛し合い、家庭を築き、家を建て、人間関係を築き、学び、資格を取り、趣味をもち、自己実現に励むのは、たんに豊かさの果実でしょうか。
 やはり、「人はパンだけで生きるのではない」からではないでしょうか。
 人が生きるためにほんとうに必要なもの、それは何でしょうか。

 
 さいわい、いま、私たちは、このことばの前後を学ぶことができます。
 
 人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる。
 
 主の口から出るすべてのものとは、神のことばです。


 ☆☆☆☆

 エジプトから出てきたイスラエルの民が、すぐに直面したのは、飢えと渇きでした。
 葦の海の底を、歩いて渡るという奇跡を経験して、わずか三日目には民は水がないことで、不満を言いました。
 水が与えられると、一ヶ月もしないうちに、シンの荒野で飢えに直面して、モーセとアロンにつぶやきました。
 神、主は、マナと言うパンを降らせて下さいました。また、うずらを飛来させ、彼らに肉を与えられたのです。(出エジプト記16章)


 主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを、試みるためである。」(出エジプト記16章4節)

 驚くべきことです。
 神は、天からパンを降らせると約束してくださったのです。同時に、そのパンの採取の仕方、ルールまで定められました。事実、神のことばどおり、マナが毎日天から降り、それは、イスラエルの民がカナンに入るその日まで、四十年間続いたのです。

 イスラエルの家は、それをマナと名づけた。それはコエンドロの種のようで、白く、その味は蜜を入れたせんべいのようであった。(16章31節) 

 ☆☆☆☆


 イエス・キリストは、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けて後、荒野に入り、四十日四十夜の断食をしました。

 空腹を覚えたイエス様の前に、試みる者(悪魔)が近づいて言いました。

「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」 (マタイの福音書4章4節)


 この有名な箇所は、もちろん、先の申命記の8章3節のことです。
 イエス様は、悪魔の誘惑を、旧約聖書のみことばを使って退けられたのです。

 イエス様は神様ですから、石をパンに変えるなど簡単におできになったのでした。しかし、ここでイエス様は、私たちに大切なことを教えておられるのです。

 悪魔はイエス様(神)でない私たち人間にも、しばしば、「石をパンに変えてみよ」とそそのかします。私たちは、その時、神の口から出る「ことば」で、答えなければならないのです。
 ゆめゆめ自分を過信して、悪魔の誘惑に乗ってはならないのです。

 イスラエルの民がともかくも、苦しい困難な荒野の四十年を乗り切ったのは、マナがあったからです。信仰の弱いイスラエルの民も、毎日神のことばに期待してマナを集めました。結果、四十年間、信仰体験を積み重ねていたのです。
 

 それが、主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。(3節)という意味だと、私は思います。





posted by さとうまさこ at 04:00| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月03日

Coffee Break278 心が高ぶる時(申命記8章3節〜14節)

 


 悪魔はイエス様に、「あなたが神の子なら、この石にパンになるように、命じなさい。」(マタイの福音書4章4節)と、誘惑しました。
 悪魔は、イエス様が神の子であると知った上で、このように言ったのです。
 神は霊ですから、ほんらいパンを必要とはされません。しかし、人となって世に来られたイエス様は、人間としての肉体をもっておられるのですから、空腹を覚えられるのです。

 悪魔は、神であるイエス様が命じれば石がパンになること、人間の肉体を取っておられるイエス様にとって、四十日四十夜の断食はもちろん、苦しみであったことを見越しているのです。


 イエス様が、もし、悪魔のそそのかしのとおり、石をパンに変えて召し上がったらどうなったでしょう。
 
 その時、神ご自身が、申命記でモーセに語らせられた「人はパンだけで生きるのではない。人は主の口から出るすべてのもので生きる。」(申命記8章3節)を否定することになるのです。

 この重要なことばを否定することは、申命記を含む聖書全体を貫く「神の人類救済の歴史」そのものを覆すことになるのです。

 イエス様が世に来られたことは、悪魔にとって大変な恐慌でした。
 悪魔は、「この世の神」(Uコリント4章4節)なのです。人が、エデンの園を追放されて、つまり、神の守りの中から出て、悪魔が支配する「この世」に来たときから、あらゆる手段で人を貶め、苦しめてきました。
 ところが、イエス様があがないのためにお出でになったため、悪魔の「わが世の春」が終るのです。

 少々荒っぽい言い方になりますが、悪魔はなんとしても、イエス様にパンを食べてもらって、神の権威をひっくり返したかったにちがいありません。
 

☆☆☆☆

 悪魔がイエス様に期待したのは、肉体を持つものとしての弱点・空腹だけではありません。人間は、心にも弱さをもっています。悪魔は、あるいは、イエス様にも人間が持つような「心の弱さ」があるかもしれないと思ったのでしょうか。

 「あなたが神の子なら」とは、イエス様に対して、人間的な自負心、プライドに訴えたのです。
 もちろん、イエス様はそのようなことばに、そそのかされる「高ぶり」をお持ちではありませんでしたが、悪魔は、はかない期待をしたのです。
 
 私たちは、申命記の神の命令を書かせたのは、神(イエス様)ご自身であるということを、知っています。申命記8章3節のみことばをモーセに語らせるとき、神は、すでに、人の高ぶりを警告しておられるのです。


 あなたが食べて満ち足りたとき、主が賜った良い地について、あなたの神、主をほめたたえなければならない。(申命記8章10節)

 気をつけなさい。私が、きょう、あなたに命じる主の命令と、主の定めと、主のおきてとを守らず、あなたの神、主を忘れることがないように。(11節)

 あなたが食べて満ち足り、りっぱな家を建てて住み、(12節)
 あなたの牛や羊の群れがふえ、金銀が増し、あなたの所有物がみな増し加わり、(13章)
 
 あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、そういうことがないように。(14章)
 (太字筆者)

 自信のなさや臆病が、せっかくの神の愛から人を遠ざけてしまうかもしれません。しかし、自信や自負がある高ぶりのときこそ神を忘れがちであるから、気をつけなさいと、モーセはイスラエルの民に言い聞かせているのです。




posted by さとうまさこ at 04:00| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月04日

Coffee Break279 悪魔の誘惑(マタイの福音書4章、申命記6章)




 悪魔はイエス様を三回、試みて(誘惑して)います。

 最初の試みが、「あなたが神の子なら、石をパンに変えてみよ」。
 イエス様は、申命記8章3節のみことば、「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つで生きる。」で、悪魔を退けられました。

 悪魔は、一度くらい思惑(おもわく)違いがあっても、引き下がりません。
 試みは、三回続くのです。

☆☆☆☆


 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、(マタイの福音書4章5節)
 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたを支えさせ、あなたの足が石に打ちあたることがないようにされる』と書いてありますから。」(6節)
 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」(7節)



 悪魔はなかなか悧巧です。
 創世記3章1節で、さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った──と書かれています。(もっとも、これは、「蛇が悪魔である」という意味ではなく、悪魔が人を誘惑するために、その時点では蛇の姿をしていたのでしょう。)
 イエス様がみことばを使われたのを見た悪魔は、さっそく、自分もみことばを使うのです。
 イエス様を、聖なる都(エルサレム)に連れて行き、神殿のてっぺんに立たせて、

 あなたが神の子なら──、
『神は御使いたちに命じて、その手にあなたを支えさせ、あなたの足が石に打ちあたることがないようにされる』


 これは、詩篇91篇12節です。詩篇91篇全体は、神の守りの中にいるものは、どのようなときも神が守ってくださるという意味の賛美の歌です。(91篇全部を文末に出しておきます)。
 仮に高いところから落ちることがあっても、天使が手でその足を支え、石の地面に衝突するのを避けてくださると、悪魔はイエス様をそそのかすのです。
 
 彼らは、その手で、あなたを支え、
 あなたの足が
 石に打ち当たることのないようにする。(12節)


 イエス様は、ふたたび、申命記の言葉で、答えられます。
 『あなたの神である主を試みてはならない』
 
 申命記6章16節、「あなたがたがマサ(メリバ)で試みたように、あなたがたの主を試みてはならない。」です。

 ☆☆☆☆


 二度の誘惑に失敗した悪魔は、イエス様を非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々と、その栄華を見せて言います。

 「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
 イエスは言われた。「引き下がれ。サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」(マタイ4章8節〜10節)
 

 みことばではかなわないと思った悪魔は、とうとう、その本性を現しました。
 こともあろうに、イエス様に、「自分にひれ伏すならこの世の栄華は、すべて差し上げましょう」ともちかけるのです。
 ここでも、イエス様は、申命記6章13節のことばで反撃します。

「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ」


 悪魔はなんとか「神の人類救済のご計画」の挫折を狙って、キリストを試みたのですが、みことばで切り返されて、見事に失敗してしまいました。
 モーセが、繰り返し、私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさいと念を押すのは、理由のあることなのです。


 悪魔は、いまも、毎日毎時毎分、私たちを誘惑しています。
 あなたが、神の子なら・・・。あなたは、能力があるのだから・・・。あなたなら・・・。
 それから、言うのです。
 私にひれ伏し、拝むなら、世の富や権力や宝のすべてを、ことごとく差し上げましょう。

 「うん。それも悪くないかも」と思う人もいるでしょうか。
 でも、悪魔が約束を守るかどうか、試してからでは、手遅れです。



   ※※※※

  詩篇91

  いと高き方の隠れ場に住む者は、
  全能者の影に宿る。
  私は主に申し上げよう。
  「わが避け所、わがとりで、
  私の信頼するわが神と。
  主は狩人のわなから、
  恐ろしい疫病から、
  あなたを救い出されるからである。 


  主はご自分の羽で、あなたをおおわれる。
  あなたは、その翼の下に身を避ける。
  主の真実は、大楯であり、とりでである。
  あなたは夜の恐怖も恐れず、
  昼に飛び来る矢も恐れない。
  また、暗やみに歩き回る疫病も、
  真昼に荒らす滅びをも。


  千人があなたのかたわらに、
  万人が、あなたの右手に倒れても、
  それはあなたには、近づかない。
  あなたはただ、それを目にし、
  悪者への報いを見るだけである。
  それはあなたが私の避け所である主を、
  いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。 

 
  わざわいは、あなたにふりかからず、
  えやみも、あなたの天幕に近づかない。
  まことの主は、
  あなたのために、御使いたちに命じて、
  すべての道で、あなたを守るようにされる。
  彼らは、その手で、あなたをささえ、
  あなたの足が
  石に打ち当たることがないようにする。
  あなたは、獅子とコブラを踏みつけ、
  若獅子と蛇とを踏みにじろう。


  彼がわたしを愛しているから、
  わたしは彼を助け出そう。
  彼がわたしの名を知っているから、
  わたしは彼を高く上げよう。
  彼が、わたしを呼び求めれば、
  わたしは、彼に答えよう。
  わたしは苦しみのときに彼とともにいて、
  彼を救い彼に誉れを与えよう。
  わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、
  わたしの救いを彼に見せよう。    
           (詩篇91、1節〜16節)(下線筆者)








      聖書は新改訳聖書を使わせていただいています。












 

posted by さとうまさこ at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月05日

Coffee Break280 神への従順(申命記、マタイ4章)

 

 申命記には、息苦しいまでの切迫感があります。モーセの「遺言」だからでしょうか。
 律法の書(モーセ五書)の五番目に置かれたこの書物は、内容も、五番目にふさわしく、出エジプトからカナンまでの物語のしめくくりです。

 いよいよ、カナン入りが目前に迫っています。じつは、カナンに入らなければ、神のアブラハムに対する約束は果たされないのです。
 もちろん、カナンに入って、イスラエルが国を建てただけでも、まだ約束は完了しません。神、主はアブラハムに仰せになったのです。

 地上のすべての民族は
 あなたによって祝福される。(創世記12章3節)


 イスラエルはカナンに入ってからこそ、本当の使命が始まるのです。それは、神のイスラエルへの祝福が、全人類に及ぶ役割を担うことです。


 第四十年の第十一月の一日にモーセは、主がイスラエル人のために彼に命じられたことを、ことごとく彼らに告げた。(申命記1章3節)

 モーセの演説は、このように始まるのです。
 モーセは神の救いの計画を、今日、完結した聖書を持っている私たちほど知っていたかどうかは、私にはわかりません。けれども、神、主の愛の強さ深さ、その深遠なご計画については、イスラエルの民とは比較にならぬほど、わかっていたのでしょう。

 イスラエルの民は、エジプトを出て以来、神の大きな愛と比類なき力を見ながら、つぶやき続け、神を試み、不従順でした。息づまるような演説は、モーセが自分の死んだあと、民がカナンを征服できるのか、危惧している証拠とも言えます。

 
 モーセが振り返っているように、イスラエルは何度も過ちを犯しました。それらは、突き詰めれば、神への不従順でした。モーセは、この過ちを繰り返さないよう、何度も警告しています。

 あなたがマサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。(6章16節)

 気をつけなさい。私が、きょう、あなたに命じる主の命令と、主の定めと、主のおきてとを守らず、あなたの神、主を忘れることがないように。(8章11節)

 あなたが万一、あなたの神、主を忘れ、ほかの神々に従い、これらに仕え、これらを拝むようになることがあれば、きょう、私はあなたがたに警告する。あなたがたはかならず滅びる。(19節)

 主があなたがたの前で滅ぼされる国々のように、あなたがたも滅びる。あなたがたがあなたがたの神、主の御声に聞き従わないからである。(20節)



 ☆☆☆☆

 モーセの警告から、イスラエルの民にとってもっとも必要なのは、神への従順だと言うことが見えてきます。

 いえ、イスラエルの民だけが、不従順だったと決め付けるのは酷かもしれません。聖書や歴史に、「もし」はないのですが、ほかの民族が選ばれていても同じようなものだったでしょう。人はだれしも、神に不従順なのです。しるしやふしぎを目で見てさえ、数日で、その神の力に信頼できなくなるのです。毎日のパン──マナが与えられると、「マナにあきあきした」と不満を言うのです。マナはあるけれど、肉までは(神様でも)出せまい。こんな荒野で、水が出るわけがないと、モーセに詰め寄るのです。


 人は、神より悪魔に従いやすいのです。悪魔のささやきは甘く、悪魔の見せるものはこの世の愉しみ、栄華だからです。
 人と神との間を裂くことが、悪魔の悦びです。エデンの園でエバをそそのかして、神と人との間に「罪」という隔てを作って以来、悪魔は、人をふたたび御許に連れ帰ろうとしておられる神と人との間に割り込んで、邪魔をしているのです。

 
 荒野でイエス様を誘惑した悪魔は、さすがに人間の弱点をよく知っていました。人となられた神、イエス様にも、同じ弱点を期待したようです。
 もちろん、子なる神と呼ばれるイエス様は、「ただの人」ではありませんでした。
 みことばで悪魔を撃退し、父なる神への従順を貫かれたのです。





posted by さとうまさこ at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月06日

Coffee Break281 心の包皮を切り捨てる(申命記10章16節)

 


 モーセは、イスラエルの民の不従順だった過去を、繰り返し思い出させて、言うのです。

  あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。もううなじのこわい民であってはならない。(16節)

 包皮を切り取るとは、割礼のことです。割礼は、男の性器の包皮を切り取るものです。
 一般的な解説では、衛生上の利点があったとか、中東やアフリカにはもともとそのような習慣があったと書かれています。


 しかし、聖書では、割礼は、イスラエル民族の始祖アブラハムに、神が契約のしるしとして、お命じになったものです。

 わたしは全能の神である。
 あなたはわたしの前を歩み、全きものであれ。(創世記17章1節)
 
 わたしは、わたしの契約を、
 わたしとあなたとの間に立てる。
 わたしはあなたをおびただしくふやそう。(2節)


 この契約とは、カナンを与えるという神のお約束に対し、アブラハムとその子孫たちが、神の前に完全なものであることです。

 アブラハムの子孫はイサクもヤコブもヤコブの十二人の息子たちも、エジプトで増え広がった者も、モーセもアロンもヨシュアもカレブも、モーセに反乱を起こした不従順の者たちでさえ、男子はすべて割礼を受けていました。

 肉体に割礼を受けている彼らは,常に、神との契約を思い出さなければいけなかったのですが、民は神に背き続けたのです。
 そこで、モーセは、「心の包皮を切り捨てなさい」(10章16節)と命じたのです。 

☆☆☆☆

 割礼は、福音がユダヤの世界を越えて広がる時に、使徒や信者の間で大論争になりました。
 割礼を受けていない異邦人が福音を信じる時に、割礼を受けるべきだというユダヤ人信者がいたのです。
 「使徒の働き」にそのいきさつが書かれています。

 しかし、パリサイ派の者で信者になった人々が立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである」と言った。(使徒の働き15章5節)

 激しい論争があって後、ペテロが立ち上がって言った。「兄弟たち。ご存知のとおり、神は初めのころ、あなたがたの間で、事をお決めになり、異邦人が私の口から福音の言葉を聞いて信じるようにされたのです。(使徒の働き15章7節)

 そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与
えて、彼らのためにあかしをし、(8節)

 私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。(9節)

 それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの父祖たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。(10節)

 私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」(11節)



 キリスト教は、イエス様の十字架によるあがないで、全人類を救うものです。
 ユダヤ教の中にあった、厳格な幕屋制度、祭祀制度を取り払いました。犠牲の羊をささげる必要もなく、祭司に神様に取り次いでもらう必要もありません。厳格でこまごました律法を守るかわりに、だれでもイエス様を信じる信仰だけで、救っていただけるようになったのです。

 この論争はまもなく決着がつきました。

 福音を信じるものは、肉体に割礼を受けなくても、信じる信仰だけで救われるのです。

 ただ、神に従うというたとえとして、「心の包皮を切り取りなさい」は、今でも生きていることばではないでしょうか。




posted by さとうまさこ at 04:00| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月07日

Coffee Break282 契約の三つのしるし(創世記9章12節、17章、申命記10章12節〜22節)

 

 昨日も書いたように、割礼は、アブラハムと神との契約(アブラハム契約)のしるしでした。

 しかし、出エジプトのあと、神はシナイ山で、新たな契約をイスラエルの民と結ばれました。それがシナイ契約でした。そのしるしは、十戒の石の板でした。


 一方、私たちが見てきたように、アブラハム契約より以前にも、神は人と契約をしておられます。 箱舟から出てきたノアと彼の息子たちに対して、契約を立てられたのでした。その時のしるしは、虹でした。(Coffee Break25,26)
  
「わたしはあなたがたと契約を立てる。すべての肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」(創世記9章11節)

 さらに神は仰せられた。「わたしとあなたがた、およびあなたがたといっしょにいるすべての生き物との間に、わたしが代々永遠にわたって結ぶ契約のしるしは、これである。(12節)

 わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。(13章)



 虹が契約のしるしだとは、なんとファンタジックな物語でしょう。じっさいには、ノアとノアの家族以外の生き物は全部滅ぼされて、いわば、地上がリセットされたのです。大変シリアスな話で、厳粛な気持ちにさせられることです。にもかかわらず、子ども向きの絵本にもなるような温かさとファンタジーが感じられるのは、ノア以後、神様は大洪水(のようなリセット)で人類を滅ぼされるようなことはしないと約束してくださり、美しい虹を契約のしるしに立ててくださったからです。

 また、この物語を読む人たち、現在地上に生きている人類は、すべて、ノアの末裔だからでしょう。
 
 
 ☆☆☆☆

 ファンタジックなノア契約のしるし・虹とくらべて、アブラハム契約は、にわかに現実的です。割礼は、ひとりひとりの肉体への刻印ですから、ファンタジーの入る余地はありません。
 
 神から割礼を命じられたアブラハムは、自分自身を含め、アブラハムの家の男子すべて、使用人も金で買取られた外国人にも割礼を受けさせました。これは、大変な痛みをともなう施術だったそうですから、まさに、ひとりひとり、アブラハムと神との契約を、「肝に銘じる」思いだったでしょう。


☆☆☆☆

 イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることはなにか。それはただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、(申命記10章12節)
 あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令とおきてとを守ることである。(13節)

 あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。もううなじのこわい者であってはならない。(16節)

 主はあなたの賛美、主はあなたの神であって、あなたが自分の目で見たこれらの大きい、恐ろしいことを、あなたのために行なわれた。(21節)
 あなたの先祖たちは七十人でエジプトへ下ったが、今や、あなたの神、主は、あなたを空の星のように多くされた。(22節)



 モーセはここで、民に、創世記のヤコブ一家のエジプト移住(創世記46章)にまでさかのぼって思い出させています。
 同時に、神はアブラハムに約束されたように、イスラエルの民を「空の星のように」増やしてくださったと、アブラハム契約を持ち出しています。

 10章16節「心に割礼を施すように」は、アブラハム契約とシナイ契約を固くジョイントする1節なのです。




posted by さとうまさこ at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月08日

Coffee Break283 挑戦







           挑戦
  


  一輪車 日ごとに上達する 子らに 両手と背中とられ 踏ん張る


  一輪車 ひと 当てにする力抜け 滑り出した子 天女のように


  ただひとり 壁を伝って 黙々と 一輪車乗る 愛らしい唇(びる)


  一輪車 手と手をつなぎ 笑いあい サッカーボールの間を駆ける


  わざとにも 段差を落ちる 一輪車 難度を試す 笑顔に陽射し





    子ども時代のなかったおとなはいません。
   「なーんにも挑戦したことなんか、なかった」という人はいません。


    昨日できなかったことが、今日はできる子を見ていると、
    神様をほめたたえずにはいられません。













posted by さとうまさこ at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月10日

Coffee Break284 「わいろを取らず」(申命記10章17節〜20節)

 


 私たちは不公平に対して、とても敏感に反応します。親は子どもを公平に扱っているつもりでも、たいてい、子どもは不公平に扱われたと記憶しています。学校の先生も同じです。会社(仕事場)になると実績が物を言うように見えますが、やはり、「不公平に扱われた」と思う者がいるのです。

 罪に満ちた私たちの社会は、たとえを使えば、「椅子取りゲームの社会」です。機転と俊敏さで勝負が決まるゲームの椅子取りは「恨みっこなし」。たとえ、負けても笑って済ませます。
 しかし、じっさいの社会での「椅子取り」は、さまざまな要素が絡んできて、結果的には、機会均等に勝負ができないのです。

 あの人は最初から、銀のスプーンをくわえて生まれてきたと言われるような人がいます。まさに、愛されるために生まれたとしか言いようがない「好ましい」容貌や性格、才能、知能を持っている人もいます。
 みなしご同然のところに置かれ、公平な競走にさえ参加できない人もいます。
 平均寿命が短かった時代には、結婚してもやもめになる人は今よりずっと多かったのです。
 西洋の童話や昔話を思い出してください。いわゆる「継母(ままはは)物語」が多いのは、意地悪な継母が多かったからではなく、幼い子どもを残して死ぬ母親や父親が多かったと言うことなのです。
 また、私たちの身近にも、やむを得ず、日本に働きに来て、不公平に耐えながら暮している人がいます。歴史的に見ると、他の国と地続きの中東では、このような境遇の人は珍しくなかったのでしょう。

☆☆☆☆


 現代の日本社会では、多くの不公平は人間的な努力で是正されているように見えます。弱い人たちを救う施策や福祉も、充実しているように見えます。
 けれども、たとえば、聖書の次のようなことばは、いまも生きているのではないでしょうか。

 
 あなたがたの神、主は、神の神、主の主、偉大で、力あり、恐ろしい神、かたよって愛することなく、わいろを取らず、(申命記10章17節)
 
 みなしごや、やもめのためにさばきを行い、在留異国人を愛してこれに食物と着物を与えられる。(18節)

 
 わいろは、権力のある人に贈り物をして、利益を図ってもらうことです。いまの日本では、わいろは廃(すた)れたと思いたいのですが、どうでしょう。歴史的に見れば、わいろは洋の東西を問わず、何千年も当たり前の習慣だったのです。
 すばらしい贈り物をもらって気を悪くする人はいませんから、効果的に贈り物ができる人は、えこひいきの恩恵にあずかれるわけです。すると、贈り物ができない人たちは、それだけで、競争からさえ外されてしまいます。

 三千五百年も昔の社会の人を対象に、自分たちの神、神の神、主の主、偉大で力のある神が、「わいろを取らない」神であると説明したモーセに敬服します。じっさいには、モーセは預言者ですから、これはモーセの考え出したことではなく、神ご自身が仰せになったことです。


 あなたの神、主を恐れ、主に仕え、主にすがり、御名によって誓わなければならない。(20節)

 現代人は、つい、自分の利益だけを願う「ご利益信仰」に走ります。でも、聖書の神は、「公平を旨」としておられるのです。




posted by さとうまさこ at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月11日

Coffee Break285 わいろの世界では(ルカの福音書18章2節〜8節)

 


 神はわいろを取ったりなさいません。(申命記10章17節)
 けれども、私たちは、ふだんは人間と付き合っていますから、わいろを使うような人と出会うかもしれません。
 
 上司や先生にわいろを使って、引き立ててもらう人を見るのもあまり気持ちのいいものではありません。
 いくらクリスチャンでも、「うまく泳ぐ」人に苛立つことはあるでしょう。

 もっと苦しいのは、クリスチャンであるにもかかわらず、なんとなく上司の気に入られるように振舞ったり、引き立ててもらうと嬉しかったりすることです。これは、もちろん、ほかの方々のことではなくて、たぶんに、自分について話しているのです。目に見えるようなわいろは使わないつもりですが、笑顔がわいろになっているかもしれないのですから、自分は真っ白だとはとても言えません。


☆☆☆☆

 
 さらに、実質的に損害を受ける危機状況に陥ることがあります。その例が、新約聖書に記されているのです。
 イエス様が話されたたとえ話です。

「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。(ルカの福音書18章2節)

 その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、「私の相手をさばいて、私を守ってください」と言っていた。(3節)

 彼は、しばらく取り合わないでいたが、後には心ひそかに、『私は神を恐れず人を人とも思わないが、(4節)
 どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない』と言った。(5節)



 この裁判官は、やもめに損害を与えた相手から、わいろをもらっていたのでしょう。裁判官に裁判をしてもらえなくて、やもめは悔しくてたまりません。
 けれども、やもめは「不正」にくじけませんでした。
 朝に、夕に、やって来ては、裁判官に頼むので、神を恐れず人を人とも思わない男ですが、面倒くさくなったのでしょう。うるさいから、裁判をしてやるか、と言ったのです。

 主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。(6節)
 まして、神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。」(7節)


 あなたがたに言いますが、神はすみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。(8節)

 
 神を恐れず人を人とも思わないような裁判官でも、日参して不正を訴えると重い腰を上げてくれる。まして、神が熱心に祈り求めるものの願いを、聞いてくださらないはずはないというのです。
 つまり、この世が罪に満ちていて、わいろを使う人がいても、私たち神を信じるものは心配する必要がないのです。
 
 もっとも、イエス様は付け加えておられます。

しかし、人の子(イエス・キリスト)が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」(8節)

 結局は、私たちの信仰が問題なのです。

 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(申命記6章5節)




 
posted by さとうまさこ at 04:00| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。