2011年06月12日

Coffee Break286 主はあなたの賛美、主はあなたの神であって(申命記10章21節、ヨブ記1章21節)

 


 二十代だったころ、とても美人で華やかな「詩人」の友人がいました。彼女は美しいだけでなく、アパレル関係の実業家のご主人からたくさんのお小遣いを使わせてもらっていました。
 ご主人は華やかで人気者の奥さんを愛しておられ、彼女の生活にとても寛大でした。おかげで、私もお宅にお邪魔して、ご主人とお話しすることがありました。

 生意気な私は、事業のことなどまるでわからないのに、彼にお尋ねしました。
「セーター一枚の原価は、どれくらいですか」
 会社では大勢の人を使っているその方からみると、事務員としても使い物になるかどうかわからないような女の子だったはずですが、ご主人は笑って答えてくださいました。
「ただですよ」
「え!?」
「もとは、ただ。ぜーんぶただです」
「でも・・・」
「あのね。セーターの毛糸も毛糸の元の羊も、羊の食べる草も、みんな、ただ。織機もミシンも、建物も、元は、全部ただのものです。全部、途中で人手間(ひとでま)がかかっている。その手間が値段になるだけですよ」

 私はなんだか、はぐらかされたような気がしました。しかし、当時のさまざまな記憶が薄れる中で、そのお話を妙にはっきり覚えているのは、間違いなく衝撃があったからです。
 

☆☆☆☆

 私たちはいま、とても豊かな社会に住んでいます。食べ物、着る物、住まい、交通通信手段、すべて必要なものは手に入り、クオリティの改良が問題になっている社会です。
 私たちはそのような便利で快適な生活材や、快適な暮らしは当たり前だと思うと同時に、そのために、かなりみんなが努力しているのも認めています。

 あり余るものを持ち、ものを邪魔だと思うことはあっても、ありがたいと感謝することが少ないのです。全部、自分たちの力と知恵が生み出したものだと思っています。

 それで、私は、今ごろになって、「全部ただですよ。もとはみんな、自然界にあるものです」と、言われたことを思い出すのです。彼はクリスチャンではありませんでしたし、神についてじっくり考えるようなことがあったかどうかもわかりません。
 でも、ゼロから歩み出した人が見るものを、見ていたと思います。

 
☆☆☆☆

 主はあなたの賛美、主はあなたの神であって、あなたが自分の目で見たこれらの大きい,恐ろしいことを、あなたのために行なわれた。(申命記10章21節) 

 あなたの先祖たちは七十人でエジプトに下ったが、今や、あなたの神、主は、あなたを空の星のように多くされた。(22節)

 イスラエルの民がエジプトに下った理由は、居住地だったカナンが何年も続く飢饉で、食べ物がなかったからでした。ヤコブとその一族はその時、七十人ほどでした。
 やがて、エジプトの政権が変わる中で、彼らは奴隷になって苦しむことになったのです。
 
 ゼロどころか、マイナス状態のイスラエルの民をエジプトから導き出された神、十の奇蹟や葦の海の奇蹟を顕されて、彼らを救い出されたアブラハム、イサク、ヤコブの神を、モーセは「あなたの賛美」「あなたの神」と言っているのです。

 じっさい、葦の海の底を渡りきったイスラエルの民は、神を賛美しました。モーセの姉ミリヤムは、女たちとタンバリンを叩いて、賛美を歌ったのです。(出エジプト記15章)

 
 あり余る物に囲まれている私たちも、もともとは、何ももっていなかったのです。


 私は裸で母の胎から出てきた。
 また、裸で私はかしこに帰ろう。
 主は与え、主は取られる。
 主の御名はほむべきかな。  (ヨブ記1章21節)


 富豪と呼ばれたヨブが、災難のために一瞬にして、すべてを失った時に言ったことばです。
 まさに、「主は私の賛美、主は私の神」です。






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2011年06月13日

Coffee Break287 約束の地を前に(申命記11章10節、14節)



 以前、東南アジアからの留学生のお世話をするボランティア活動をしていました。
 日本の国が資金を出している団体が、その国で優秀な学生を選抜し、現地で日本語を二年間教え、それから日本の大学に送ってくるのです。日本での滞在費や授業料はもちろん、日本側の負担です。

 私たちは、貧しい国からやってきた彼らが不便をしないよう、淋しくないよう支援するのが目的なのですが、彼らは全員明るく、真剣に学ぼうとしていて、ボランティアをしている側の私たちの方が、彼らに「喜びをもらって」いるのがわかりました。

 
 ☆☆☆☆ 

 あなたが入って行って、所有しようとしている地は、あなたが出てきたエジプトの地のようではないからである。あそこでは、野菜畑のように、自分で種を蒔き、自分の力で水をやらなければならなかった。(出エジプト記11章10節)
 
 もし、私が、きょう、あなたがたに命じる命令に、あなたがたがよく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くして仕えるなら、
 「わたしは季節に従って、あなたがたの地に雨、先の雨と後の雨を与えよう。あなたは、あなたの穀物と新しいぶどう酒を集めよう。」(11章14節)



 出エジプトの目的地は、何度も書いたように、神の約束の地・乳と蜜の流れる地・カナンです。神との契約と、おきてと組織をもってはいても、領土をもたない国イスラエルは神の約束に希望をもって、荒野の彷徨を耐えた民でした。

 何度も、神の約束を疑い、また、神のお示しになる方向から逸れ、そのたびに神の怒りに触れたイスラエルの民は、それでも、四十年かけてヨルダン川の東側までやってきたのです。

 申命記は、いよいよカナン入りを目前にしたイスラエルの民に、モーセが最後の演説を行なう場面です。四十年目の十一月から一ヶ月ほどのできごとです。
 モーセは、神から、イスラエルの民とともにヨルダンを渡ることはできないと宣告を受けていました。イスラエルの民をエジプトからカナンまで連れて行く召命を受けて、あらゆる苦難に耐えてきたモーセにとって、それは察しても余りある悲しみであり、心痛であり、親が子どもを心配するように、自分亡き後の、イスラエルを心配しているのです。

 それにしても、新しい土地カナンに対する形容は、なんと具体的でしょう。
 まるで、幼い子どもに言い聞かせるかのような「ごほうび」として、カナンが説明されています。エジプトでは、野菜を植えて水をやって栽培をしなければいけなかった。けれども、カナンではしぜんに、新しい穀物と新しいぶどう酒が手に入ると言わないばかりです。

 その条件としては、ただ、神のことばに聞き従うこと、心を尽くし、精神を尽くして主を愛することです。そうすれば、神は麦を植えつけるときの「先の雨」と、麦の収穫前の「後の雨」を降らせて、豊かな収穫を約束してくださるのです。

 
 ☆☆☆☆


 先の留学生たちは、全員が信仰をもっていました。(クリスチャン、モスリム) それは、まるで、しぜんなことで、彼らにとって信仰自体を疑うなど考えられない感じで、人格のバックボーンになっているように見えました。

 彼らの明るさ、未来に対する確信は、今にして思えば、カナンに入る希望と似たものだったかもしれません。

 
 どんなに神を愛しても、信仰が強くても、飢饉になるときは飢饉になり、神を信じない人たち、また、違う神を信じている者たちにも豊作のこともあるのではないか。と、クリスチャンでない人は、上記の聖書箇所を思うかもしれません。

 その証拠に、新約聖書でイエス様はおっしゃっているではないか。

 天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる。(マタイ5章45節) 

 その通りなのです。そのような神様だからこそ、心を尽くし、精神を尽くして愛する。その時、本当の希望があるのではないでしょうか。

 このことばの前には、もっとも有名なことばのひとつがあります。

 しかし、私はあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害するもののために祈りなさい。(44章)

 因果応報、信賞必罰的な旧約聖書の世界は、神の民を養成する準備段階として必要でした。
 私たちの創造主である神とモーセとイスラエルの民の痛みの上に、イスラエルが生まれ、それがイエス様の救いの土台となったのです。
 






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2011年06月17日

Coffee Break288 癒し主(マタイ8章)









      熱癒えて 顔にまばゆい 梅雨の空






    思いがけず風邪を引いてしまいました。
    少しのことでも、半死半生の気分になるのがわかりました。
    イエス様がペテロのしゅうとめに手を置いて、熱病を癒された場面がうかび、
    イエス様が私にも手を置いてくださる姿と溶け合っていました。
    
   



    それから、イエスは、ペテロの家に来られて、
    ペテロの姑が熱病で床に着いているのをご覧になった。

    イエスが手にさわられると、熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。
                   (マタイ8章14節15節)













     訪問してくださってありがとうございます。これからもよろしくお願いします。






   

  
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2011年06月18日

Coffee Break289 約束の地に入ったなら(申命記12章)

 


 申命記12章に入ると、カナンにおけるイスラエルの民の、具体的な礼拝祭祀や社会生活の規則が指示されてきます。


 あなたがたが所有する異邦の民が、その神々に仕える場所は、高い山の上であっても、丘の上であっても、また、青々と茂ったどの木の下であっても、それをことごとく破壊しなければならない。(申命記12章2節)

 彼らの祭壇をこわし、石の柱を打ち砕き、アシェラ像などを火で焼き、彼らの神々の彫像を粉砕して、それらの名をその場所から消し去りなさい。(3節)
 
 あなたが、入って行って、所有しようとしている国々を、あなたの神、主が、あなたの前から絶ち滅ぼし、あなたがそれらを所有して、その地に住むようになったら、(12章29節)

 よく気をつけ、彼らがあなたの前から根絶やしにされて後に、彼らにならって、わなにかけられないようにしなさい。彼らの神々を求めて、「これらの異邦の民は、どのように神々に仕えたのだろう。私もそうしてみよう」と言わないようにしなさい。(30節)


 
 日本は多神教の国で、偶像あふれる国だと見るクリスチャンは多いのです。
 じっさい、一般的に、おびだだしい神社仏閣、仏像、七福神や仁王様、お地蔵様やお稲荷さん、動植物の形を祀ったものがあふれています。

 けれども、これらは、旧約聖書にある「偶像の神々」のダイナミックな存在感とは、かなりかけ離れていないでしょうか。
 
 モーセの時代、偶像は、天地創造の神の大きな力と熱愛を知っているイスラエルの民が、それでも、しばしば偶像の神々に誘惑されてしまうほどの魅力があったのです。


☆☆☆☆

 あなたの神、主に対して、このようにしてはならない。彼らは、主が憎むあらゆる忌みきらうべきことを、その神々に行い、自分たちの息子、娘を自分たちの神々のために火で焼くことさえしたのである。(31節)

 バアル、アシュタロテ、モレク、アシェラ(これらの神々についてはまた機会を設けて説明します)と呼ばれて、何度も聖書に登場してくる神々は、いずれも豊穣神だったと言われています。

 豊穣を願うのは、何も悪いことではないと言えそうです。人間は食べなければ生きて行けません。とくに昔のように余剰生産物が少ない時代は、「お腹いっぱい」「安定して」食べられることが何よりの願いだったでしょう。

 問題は、豊穣や豊漁を願う祭りで、民は、神、主が憎むあらゆる忌みきらうべきことを、「彼らの神々」の前で行ったのです。
 たとえば、硫黄によって滅ばされたソドムとゴモラでは、同性愛やあらゆる不法が満ちていました。バアルを拝むカナンの国では、自分たちの息子、娘を自分たちの神々のために火で焼くことさえしたのです。
 神殿男娼、神殿娼婦の存在もありました。豊穣の祭りの興奮と次の豊穣を願って、乱交が行なわれることもありました。


 食欲と性欲が握手をしたら、それだけで十分享楽的です。しかも、それが神々の公認行事とお墨付きがあれば、もともと罪人(つみびと)で、安楽に流れやすい人間が引き込まれるのは当然です。

 現代では、子どもをささげて焼き殺す祭は、さすがにありえないでしょうが、前にも書いたように(リンク・さとうまさこ短編集クリスマストピックス)人身御供そのものは、日本でも行なわれていたことなのです。


 大変厳しいことばが続く申命記ですが、この12章でも、モーセはその目的を述べています。

 気をつけて、私が命じるこれらのことばに聞き従いなさい。それは、あなたの神、主が良いと見、正しいと見られることをあなたが行い、あなたも後の子孫も永久にしあわせになるためである。(28節)



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2011年06月19日

Coffee Break290 偶像と姦淫(申命記12章、出エジプト記、レビ記)




 申命記12章13章14章は、カナンにおけるイスラエルの民の祭祀儀礼や礼拝の規則が指示されてきます。

 そのいきなりの書き出しは、次のとおりです。
 昨日の引用は、そのつづきにくるものです。

 これはあなたの父祖の神、主が、あなたに与えて所有させようとしておられる地で、あなたがたが生きるかぎり、守り行なわなければならないおきてと定めである。(申命記12章1節)


 あなたがたが所有する異邦の民が、その神々に仕える場所は、高い山の上であっても、丘の上であっても、また、青々と茂ったどの木の下であっても、それをことごとく破壊しなければならない。(12章2節)

 彼らの祭壇をこわし、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を火で焼き、彼らの神々の彫像を粉砕して、それらの名をその場所から消し去りなさい。(3節)


 偶像礼拝の禁止は十戒の二番目の戒めです。石や金属、木などを材料に、手で刻んだ像を拝んではならないと、その付則にも書いてあります。(出エジプト記20章5節、23節、24節、22章20節)、
 また、十戒の細則を記したレビ記でも、何度も偶像礼拝への警告や禁止が取り上げられています。(レビ記26章1節、14節〜41節)

 また、モレクに子どもをささげることへの禁止は、レビ記18章の性的禁忌の中に、「偶像へ子どもをささげて火の中を通すことは、あなたの神の御名を汚すことである」と、書き込まれています。

☆☆☆☆


 あなたの子どもをひとりでも、火の中を通らせてモレクにささげてはいけない(21節)
 この前の20節は、あなたの隣人の妻と寝て交わり、彼女によって自分を汚してはならない(20節)です。
 後の、22節はあなたは女と寝るように、男と寝てはならない。これは忌みきらうべきことであるとなっています。

 このような性的禁忌の箇所に、わざわざ子どもを偶像にささげることへの禁止が書き込まれているのはなぜでしょう。
 これは、現代、私たちがヒューマニズムの立場から口にする「子どもの生命の尊重」などとは、違う理由によるものなのだと、私は思います。
 何よりも、これは神様への冒涜なのです。

 偶像礼拝は、とくにシナイ契約──神と人との結婚にもたとえられる──を結んでくださった、イスラエルの民にとっていわば夫である神を裏切って、ほかの神々と姦淫を犯すことだったので、わざわざレビ記18章に入っているのでしょう。


☆☆☆☆

 呪術を行なう女は生かしておいてはならない。(出エジプト記22章18節)

 十戒の細則の中に、このことばがあるのも、同じ理由です。
 呪術は、霊との交わりなしには行えません。それは当然、天地を創造された神、アブラハム・イサク・ヤコブの神、イスラエルをエジプトから連れ出された神、主ではありえません。
 このような、ほかの霊との交わりは、姦淫となるのです。

 同様に、占いや霊媒、口寄せなども、聖書では禁止されているのです。





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2011年06月20日

Coffee Break291 あなたがたのうちに預言者または夢見るものが現れ(申命記13章1節〜3節)

 

 
 ふつうのお宅でのクリスマス・コンサートとの触れ込みでした。
 主宰者の奥様は、以前二三度友人Aさんを介してお会いしていました。プロはいないけれど、みな正式な音楽過程で学んだ方々のお集まり。でも、聴くだけ、食べるだけもOKということで、私と友人がいたわけです。
 リースやツリーで飾り付けられた部屋には、白いグランドピアノもあり、なかなかの雰囲気です。ただし、「クリスマス」はパーティの冠ネームで、かつてミッションスクールで学んだ方もいるものの、じっさいのクリスチャンは、私ひとりでした。

 すてきな器に盛られた軽い昼食の後、演奏会が始まりました。
 ピアノの連弾、クリスマスソングの独唱などの間に、楽しいおしゃべりとお茶が出ます。ホステス役の奥様は五十歳くらいで、気品のある女性。8人ほどのお客様への気遣いも、料理の出し方も、話題の運び方もお上手で、なかなか楽しい会でした。


 誰かがピアノを演奏していたとき、とつぜんチャイムが鳴って、ひとりの男性が上がりこんできました。七十歳くらいの、目つきの鋭いその男性を「先生こちらへ」と、Aさんと私の友人でもあるDさんが招きました。「K先生よ」と奥様に紹介します。
 どことなく大切なお客のようなのですが、それにしては、全員にきちんと紹介してくれません。彼がお茶を飲んでいる間にも、べつの人がショパンを弾き始めました。

 演奏の間、みんな静かに聴いていました。演奏は悪くないのかもしれないけれど、グランドピアノに力いっぱい指を叩きつけるのですから、部屋の大きさに対して音が大きすぎると感じました。

 ショパンの演奏が終って、一同ホッとして座が和みました。
 その時、男性が口を開きました。
「あなたの生涯で、もっともすばらしい演奏だったね。そうでしょう」
 一瞬、演奏した当人を含めて、ちょっと戸惑ったような笑顔が交わされました。
 私は、それまで、彼は誰かの音楽の先生だろうかと思っていたのですが、あらためて、音楽とは何の関係もない人だとわかりました。

 ようやく、Dさんが言いました。
「K先生。スピリチュアル※※※※のK先生よ」


 ☆☆☆☆


 「スピリチュアル」以外を、あえて伏字にしたのは、正式な心理カウンセリング、まじめな精神医学療法と紛らわしい名前であったからです。

 K氏が、一種の霊能を売り物にしているのは、すぐに明らかになりました。彼をそこへ招いたDさんが、そのように紹介したからです。
 そういえば、以前、彼女が、個人的な悩みの相談で「ある人」を知り、初めて「霊の世界」があると感動したと話してくれたことがありました。とくに、その「先生」が、「霊」をまるで、猛獣使いが猛獣を動かすように動かすと言ったのが、記憶に残っていました。


 クリスマス・コンサートの会場がにわかに、オカルトじみた魔術会場に変わったかのようでした。
 K氏が、みんなに、霊を使うデモンストレーションをするから、輪になって手をつなぐよう言うのです。テーブルを囲んですわっていた私たちは、テーブルの下で手をつなぎました。
 ホステス役の女性は、慎重に従っていましたが、明らかに、醒めた顔でした。
 私は、あえて、手をつなぎませんでした。私を除いた人たちが、彼とともに丸く手をつないだのです。
「目を閉じて。霊を送りますよ」
 K氏が言い、みんな目を閉じました。彼は数をカウントし始めました。それからちょっと呪文とも掛け声ともいえない声を上げました。
 Dさんが、たちまち、「あ、今、来た!」と言いました。私は彼が薄目を開けて、私を見たのを見ました。何のことはない、私を盗み見しているのです。

 
 K氏は、「肩が痛い人?」「頭痛もちの人?」「腰痛の人・・・・?」と、個別に手を上げさせて、霊を送ります。
「どう、治ったでしょう。大丈夫、これで治るから」

 私は馬鹿らしくなりましたが、彼にはたしかに、一種の熱気があるのです。
 それで、日頃は、神様の話や霊の世界など、ばかにしている理知的なAさんまでが、最後には、「じつは、娘のことで・・・」と、初対面のK氏に打ち明け話を始めます。
 彼は、「ケイタイメールに載せて毎日、あなたの娘の心に癒しの霊を送りましょう。一ヶ月で一万円です」と言いました。
 そして、なんと、私の友人は、その「商品」を買い、その場で財布から一万円を出して払ったのです。

 K氏は、ほかにも、何かを書き込んだ紙切れや、木の棒や、子どもの握りこぶしくらいの黒い石などを売ろうとしました。石は一個五万円。それを病気の患部に当てれば、どんな病気でも快癒するとのことでしたが、さすがに、主婦の胸算用で出すには五万円は高かったのか、話がうますぎて信じられなかったのか、だれも買いませんでした。

 コンサートが再開し、ピアノを弾く人、フルートを吹く人と、主客が代わって、しばらく、拍手などして、聴いていたK氏は、やおら立ち上がると、そそくさと帰っていきました。


☆☆☆☆

 あなたがたのうちに預言者または夢見る者が現れ、あなたになにかのしるしや不思議を示し、
 あなたに告げたその不思議としるしが実現して、

「さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう」と言っても、
 その預言者、夢見る者のことばに従ってはならない。あなたがたの神、主は、あなたがたが心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうに、あなたがたの神、主を愛するかどうかを知るために、あなたがたを試みておられるからである。    (申命記13章1節〜3節)



 申命記は、今から三千五百年も昔のイスラエルの民に、モーセが語ったことばです。

 しかし、聖書は、時代を超え、場所を越えて、私たち人間に与えられた書物だといわれています。
 そのとおりです。
 二十一世紀の、あろうことか、イエス・キリストの降誕を理由に集まったパーティに、やはり「しるしと不思議を行なう人」がやってくるのです。


 読者の方は、わずか3年前に私が見た光景を、ばかばかしすぎると思われるでしょうか。
 この文明国、先端技術の日本、合理主義の国で、K氏のような人は、一部の日陰者だと思われるでしょうか。

 いいえ、彼は、(ほんとかどうか、私は知りませんが)りっぱな「本部」があるそうですし、弟子もクライアントもたくさんいるそうです。

 第一、彼より有名で、稼ぐ「占い師」「霊能者」が、ごろごろしているのを、私たちは毎日テレビやネットで見ています。

 その数は、三千五百年前の中東より多いかもしれません。

 聖書は、生きています。

 もちろん、「初めに天と地を創造した」神も、生きておられます。




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2011年06月21日

Coffee Break292 預言者または夢見る者があらわれ(申命記13章1節〜3節)




 あなたがたのうちに預言者または夢見る者が現れ、あなたになにかのしるしや不思議を示し、あなたに告げたその不思議としるしが実現して、「さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう」と言っても、(申命記13章1節2節)

 私たちは、いま、自分は歴史上かつてなかったほど、「合理主義の世界」に住んでいると思っています。何しろ、生まれる前に赤ん坊の性がわかるのです。遺伝子も、胎内にいるうちからわかるのです。誰が、子どもの父親かで揉めるなどと言う数十年前にはあった三文ドラマは、もう書けません。赤ん坊の母親がどちらの女かで、揉めるなんてこともありえません。

 空も飛べますし、月へも行けます。明日の天気が、予報どおりになるかどうかはとにかく、天気予報の根拠は、衛星で空を眺めているのですから正確です。

 デジカメのおかげで、私のような写真下手なものもフィルム代を気にしないで、パチパチ写真が取れます。私には原理はわからないのですが、パソコンは怖ろしくたくさんの情報を小さなものに保存してくれます。

 レストランに行くと、メニューにカロリーが表示してあり、病院で血液検査をしてもらうと自分の血液の成分が、整然と数字で出てきます。レントゲンを撮ると、生きたままで自分の骨格が見えます。

 結婚を斡旋しているクラブでは、今やデータはコンピュータに入るのでしょう。ただ、それを解読する側の知力や感性の問題があるのですから、おびただしいデータは結局、パソコンに処理してもらうのでしょうか。
 ほんとうに、パソコンがすべてを解決するのだったら、昔の王様みたいに、「良きにはからえ」と言って、チェスなんか楽しんでいられるのです。知らぬ間に、宝石いっぱいのすてきなお妃様がそばにいて、かわいい王子様やお姫様が、花瓶をひっくり返したりしています。


 昨日のブログで紹介した友人のAさんが、ケイタイで娘への癒しの霊を送ってもらう取引をしたとき、一瞬、内心、みんなあっけにとられたのです。いくらなんでも、霊が電話通信に便乗するの?!

 霊というのは見えないもので、私たちが知っている見える世界を飛び越えるから、超能力とか霊能なのではないのと、だれでも思うのではないでしょうか。

 それとも、いまは、占い師もノートパソコンを打ちながら、相談に乗るのでしょうか。
「生年月日は? 大きな病気は? アレルギーは? どこか痛いところがありますか」
 これでは、お医者様と変わりませんね。


☆☆☆☆

 ヤコブの愛息ヨセフが奴隷に売られたエジプトで出世をしたきっかけは、パロ(王様)の夢を解いて差し上げたことでした。(創世記41章)
 このとき、パロは、夢の内容をつぶさにお抱えの呪法師や呪術師や学者に訊ねたのに、だれもわからなかったのです。

 聖書時代の王様は、みんなこのような学者や占い師を抱えていたようですが、王様の側もだんだん対応が変わっていったようです。

 
 バビロンの王ネブカデネザルは、自分の見た夢の内容を明かさず、お抱えの呪法師、呪文師、呪術者などに、その夢を解き明かすように命じ、もし、解き明かしできないなら、手足を切り落とすと脅します。

「王よ。しもべたちにその夢をお話ください。そうすれが、解き明かしてごらんにいれます。」(ダニエル書2章7節)
王は答えて言った。「私にははっきりわかっている。あなたがたは私の言うことにまちがいはないのを見て取って、時を稼ごうとしているのだ。」(8節)


 この物語は、バビロンで捕囚となっていたイスラエル人のダニエルが、神によって、夢の秘密の啓示を受け、それで高い位につくきっかけになったいきさつをのべています。


 ヨセフやダニエルのような人は、なぜ、夢のときあかしができたのか、考えて見る必要があります。
 彼らは、深い信仰を持ち神がいつも彼らとともにいてくださったのです。その結果、王様お抱え霊能者たちでさえ解けなかった夢を、神様の導きで解くことができたのです。

 たしかに、聖書は、霊の世界は存在し、預言者も夢見る人もいるのをあかししています。
 それゆえ、聖書は警告するのです。


 その預言者、夢見る者のことばに従ってはならない。あなたがたの神、主は、あなたがたが心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうに、あなたがたの神、主を愛するかどうかを知るために、あなたがたを試みておられるからである。(申命記13章3節)

 悪魔もまた、預言者や夢見るものを「製造」するからです。
 心を尽くし、精神を尽くし、まことの神にひざまずき、祈りましょう。
 そうして、預言をいただくことなど、並みの人間には、めったやたらにできることではない、と知るものとなりましょう。
 聖書には、たくさん預言者がでてきます。
 しかし、2千年間という期間を考えれば、ほんのわずかであるのを思い起こしましょう。





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2011年06月22日

Coffee Break293 占いの霊(使徒の働き16章16節〜19節)




 新約聖書「使徒の働き16章」に、占いをする女についてのつぎのような記事があります。
 「使徒の働き」については、クリスチャンなら一応のことは知っているのですが、聖書は初めてという方のために、すこしだけ説明します。

 この事件が起こったのは、パウロが伝道旅行でシリヤのアンテオケを出発し、伝道のためにマケドニアのピリピと言う町に滞在していた時のことです。
 ここで、書き手になっている「私」は、「ルカの福音書」を書いたルカのことです。「使徒の働き」は、「ルカの福音書」の続編だと位置づけられています。


 私たちが祈り場に行く途中、占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させているものであった。(使徒の働き16章16節)

 彼女はパウロと私たちのあとについて来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあながたたに宣べ伝えている人たちです」と叫び続けた。(17節)

 幾日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り返ってその霊に、「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け」と言った。すると即座に、霊は出て行った。(18節)

 彼女の主人たちは、もうける望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕らえ、役人たちに訴えるため広場へ引き立てていった。(19節)



 解説するまでもありませんが、この占い師の女は奴隷でした。霊感が豊かで霊能が発揮できたのでしょう。
 彼女の予知能力に人気が出て、この女の主人は女を奴隷労働などに使うより占いをさせた方がよほど儲かったのです。
 この主人にとって、都合の良い彼女の霊力は、けれども、彼女自身ではありませんから、自分でコントロールできません。そこで、彼女は霊が命じるまま、パウロたちが「いと高き神のしもべたちで、救いの道をあながたたに宣べ伝えている人たちです」と叫び続けたのです。

 そうして、何日も付きまとうので、困り果てたパウロが振り返って、その霊に、「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け」と言ったわけです。

 霊が出て行ってしまったので、女は霊力を失い、女の主人はいわば金づるを失って、パウロたちを訴えたと言う話です。


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 この話は、キリスト教と占いの関係を考える上で、大きな意味があると思います。

 クリスチャンのなかには、占いというと悪魔でも見るように毛嫌いして追い払う人がいるのです。とくに、信仰があまりよくわからないときは、いわゆるお守りなども、もっていてはいけない「しるし」として、いの一番に捨てられます。
 占い師などを、こわいもののように見たりもします。
 
 けれども、パウロは、道端の占い女など、「意にも介していません」。真(まこと)の神を礼拝している(霊的まじわりをしている)パウロにとって、勝敗は始めからはっきりしているからです。
 パウロが、「イエスの名によって、出ていけ」と占いの霊を追い出したのは、彼の伝道につきまとってうるさいからです。
 女はむしろ、パウロのことを、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあながたたに宣べ伝えていると、良いことを広めているのですが。

☆☆☆☆

 
 この占い女は、小さな霊に操られていたのですが、それでも、ホンモノの占い女です。少なくとも彼女は「霊能者」だったのです。

 しかし、いま、日本中に花盛りの占いの世界、マスコミや道端に、このような「ホンモノの霊能者」は、どれほどいるのでしょう。

 パソコンで堂々と占いの種類や占い師の名を広告し、占って欲しい人間にデータとお金を送らせ、それで、霊を使って占えるとしたら、お笑いではないでしょうか。
 ケイタイで霊を送ると言った「霊能者」から、高学歴の女性が「商品」を買い、石ころが万病に効くなどと売りつける商売が成り立っているとしたら・・・。

 私たちは、ひょっとして、平成の社会と江戸時代を、行き来しているのかもしれません。






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2011年06月23日

Coffee Break294 御声に聞き従い(申命記13章4節)



 
 あなたがたのうちに預言者または夢見る者が現れ、あなたに何かのしるしや不思議を示し、(申命記13章1節)
「さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう」と言っても、(2節)
 その預言者、夢見る者のことばに従ってはならない。あなたがたの神、主は、あなたがたが心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうに、あなたがたの神、主を愛するかどうかを知るために、あなたがたを試みておられるからである。(3節)

 あなたがたの神、主に従って歩み、主を恐れなければならない。主の命令を守り、御声に聞き従い、主に仕え、主にすがらなければならない。(4節)


 パウロの例が模範ですが、どんな種類の占い師がいても、私たちクリスチャンは恐れません。
 ばかばかしいとは思っても、わざわざ彼らと対決することもあまりありません。個人的に、占いやまじないの霊にはまっていてしまって困っている人がいたら、相談に乗ってくださる教会や牧師、信徒もいるでしょうが、先方が付きまとってこなければ、たいてい、放っておくでしょう。

☆☆☆☆


 私たち、イエス・キリストを信じる者には、ゆるぎない信仰があります。
 天地すべてをお造りになり、いまも、未来永劫、それを統べておられ、全知全能で、私たちの罪を贖うために、ご自身(そのひとり子という表現もあります)を十字架につけて血を流すことさえされた愛の神様です。そのような方が、いつも私とともにいてくださるのです。まっとうな「占いの霊」なら、向こうからこちらを避けるはずです。
 
  
 ただ、「心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうに、あなたがたの神、主を愛する」真実なクリスチャンでいつづけるのは、容易なことではありません。御声に聞き従うためには、むしろ聖書をまじめに読む、知的な学びも要求されるのです。

 そうしないと、霊のワナがあります。私たち自身が小さな霊に身売りしたり、神様を自分勝手に、小さなものにしてしまうのです。


 このブログのリンク、佐々木先生のサイトに、興味深い記事がありました。

 先生の祈り会で、「神様の御声を聞いた」と、信徒たちが打ち明けたというのです。
 もし、そうなら、モーセみたいとは言わないまでも、少しうらやましいと思うクリスチャンたちもいるでしょうか。

 少し引用させていただきましょう。


「そうです。いまでも神様のみ声を聞く人たちがいます。幻を見せてもらう人も、意味のある夢を見せてもらう人もいるかもしれません。一方、そのような神様のお働きは、今はありえないと教える牧師や教師もいます。でも、聖書の教えを調べる限り、無いと断定することはできません。神様には何でもできるからです。ただし、何でもなさる神ではありません。する必要があると神様が判断なさったときには、してくださるのであって、する必要も、意味もないことをする神ではありません。

 神様は、現在でもみ声をかけてくださることができます。だれもそれを妨げることはできません。夢も見させ、幻も映し出してくださることができます。でも、そのようなことをする必要は、もう、ほとんどなくなったのです。聖書があるからです。

                   (おかしなペンテコステ信仰6月16日付、花咲いた雑談より)
 

 引用はこれだけですが、ぜひ、全文を読まれるようおすすめします。





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2011年06月24日

Coffee Break295 申命記と新約の時代(申命記13章5節、使徒の働き16章17節18節)




 その預言者、あるいは、夢見るものは殺されなければならない。その者は、あなたがたをエジプトの国から連れ出し、奴隷の家から贖い出された、あなたがたの神、主に、あなたがたを反逆させようとそそのかし、あなたの神、主があなたに歩めと命じた道から、あなたを迷い出させようとするからである。あなたがたのうちからこの悪を除き去りなさい。(申命記13章5節)

 これは、三日間続けて、ブログに掲載した申命記13章1節から4節に続くみことばです。

 モーセは、自分勝手な預言や不思議を行なうことを厳しく戒めています。5節では、さらに、そのような者は殺されなければならないと、命じているのです。
 同じことは、9節、10節、14節、15節にも繰り返されます。

 この厳しさが申命記の世界です。
 形あるものへの偶像礼拝、うらないやまじない、予言や呪術を忌み嫌うのは、旧約聖書で一貫しています。
 神に対するさまざまな背きの罪でも、これはもっとも大きな重い罪でした。十戒の二番目の戒めなのです。イスラエルの民がカナンまでの道のりを四十年もかかったのも、この戒めに背いたことが大きかったでしょう。
 
 カナンに入ってからも、外国に攻められ、捕囚に捕らわれるような国の衰亡を招いたのも直接は、偶像礼拝が原因であったと言われています。


 このような記述が聖書に繰り返されているため、現在、私たちクリスチャンも、「偶像礼拝への禁止」や「おそれ」を、真(まこと)の神さまのことを正しく知る前に、覚えてしまう始末です。

 私の友人が、クリスチャンになりたてのころ、嬉しくて、弟さんの娘の結婚式で神主さんの御祓いを自分だけやめてもらったそうです。しかし、その結果、弟さん一家とは以後、絶交状態になったと聞きました。私は、彼女が「イエス様」「十字架」「救い」などのことばを口にするものの、聖書もあまり読んでいないのを知っていました。
 その仲間の祈り会に出てみると、(勝手に名前を挙げられ)祈られる対象になっている人たちは、内面的な問題で祈られているのではありません。受験祈願に息子と神社に行ったとか、般若心経を上げている人とか、いわば○×で白黒をつけられるようなレベルで判定されているのがわかり、複雑な気分になりました。


☆☆☆☆


 パウロは、占い師の女が、彼ら一行に付きまとうのに困り果てて、彼女に取り付いている占いの霊に言いました。

「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け」(使徒の働き16章18節)
 すると、占いの霊はこの奴隷女から出て行ったのです。

 申命記から千五百年の歳月が経っていて、しかも、それはイスラエルの外(ピリピはマケドニアの一都市)での話ですが、それにしても、パウロが女を殺す必要など感じていないのはなぜでしょう。


 少なくても、二つの理由が考えられます。その第一は、旧約聖書の時代の律法は、あくまでも、奇跡的出来事をとおしてエジプトの奴隷状態から救い出された、イスラエルという神の民、あるいは神聖政治国家の中での定めや戒めであったとことです。イスラエルからは遠く離れた外国の都市ピリピに住んでいた、異邦人の女奴隷に当てはめることはできませんでした。

 もうひとつは、申命記の世界ではイスラエルの民にとって危険極まりなかった、偶像を作り出し不思議を行なわせる悪霊が、イエス・キリストの御名によって追い出されるようになっていたためです。

 今回はこの第二の理由を考証して見ましょう。

 ☆☆☆☆

 旧約聖書の時代、じつは神様とお会いできるのは祭司だけでした。それも大祭司と呼ばれる人が、至聖所で年一回お会いできるのです。祭司は世襲制でしたから、素質の問題があったのかもしれません。必要な時には、神様は、預言者を選び遣わされました。モーセはもちろんのこと、サウルやダビデに油をそそいだサムエル、後のイザヤ、エレミヤ、エゼキエルなど、預言者こそ歴史の節目で、大きな意味のある神のことばを受けたのです。

 大部分の庶民は、祭祀制度の下、神に犠牲をささげて祭司に神様との仲立ちをしてもらうのです。

 イエス様が、十字架ですべての人間の罪の贖いを済ませてくださったことは、神と人類との関係を根底から変えました。

 犠牲をささげる必要がなくなりました。
 聖所と至聖所の間を仕切る垂れ幕が落とされました。
 イエス様ご自身が大祭司になられたので、私たちは、祈りの最後に、「イエス様のお名前で
祈りします」と唱えれば、旧約時代の民のようなささげ物や複雑な手続きなしに、神様と直接お話できるようになったのです。


 イエス様は、知らない者には敗北のようにしか見えない十字架で、悪魔に対する最終的な勝利をお取りになった上、(参照:創世記3:15) 甦ってすべての権威を持つ方になってくださいました。そのために、悪魔の手下に過ぎない悪霊たちは、キリストの権威に従わずにはおれなくなったのです。

 キリストの権威は、キリストがまだ生きておられたときから圧倒的で、有無を言わせず悪霊たちを従わせました。弟子たちはその権威を与えられて、同じように悪霊たちを追い出しました。
甦りの後のキリストは、「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威があたえられています」と宣言して、その権威がさらに大きく無限になったことを教えてくださいました。


☆☆☆☆

 悪霊が人に不思議を行なわせ、ちょっとしたしるしで神から離れさせるのは、旧約時代は容易なことでした。そのような悪霊に憑かれてしまった者から、悪霊を引き離すのは不可能だったので、殺すしかなかったのでしょう。
 
 しかし、使徒の時代、パウロが、いっさいの権威を与えられたイエス様の名で命じれば、たちまち、占いの霊は出て行ったのです。
 占いの霊が、わざわざ叫びながらパウロについて行ったのは、なぜでしょう。たぶん、大きな大きなまことの神イエス様が、怖ろしかったのだと思います。
 「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです」(使途の働き16章17節)
 と、お世辞を言いながら付きまとうところは、ちょっと「あわれ」でもありますね。

 私が、クリスチャンは占いなど恐れないと書いたのは、その意味です。
 私たちはもちろん、「使徒」ではありません。パウロやペテロとは比べ物にならない小さな器です。
 それで、良いのです。それでよい。信じるだけで救っていただけると、神ご自身が約束して下さったのです。

 「イエス様のお名前で祈ります」
 このことばは、何も神秘的な呪文ではありません。天地すべてに、公然と通用するすばらしい権威です。




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