2011年06月25日

Coffee Break296 食物規程(申命記14章)




 申命記14章は、食べ物についての定めに言及しています。これは、レビ記11章に対応しています。(Coffee Break163、164参照)

 以前にも書いたのですが、食物禁忌をわざわざおきてとしてしるしているのは、今の時代のように、栄養問題、グルメ志向のためではありません。国家の食料計画のためでもありません。
 食べてはいけないと決められている動物を見てみると、その第一は、神の目からごらんになって「聖くない動物」だからです。

 なぜ、聖くないのかは、私には正確にお答えすることはできません。
 
 食べてよい獣(大型動物)は、牛、羊、やぎ、鹿、かもしか、のろじか、野やぎ、くじか、おおじか、野羊。(申命記14章4節5節) 
 ひずめが割れているもので、反芻するものは、すべて食べることができる、が、そのうち、野うさぎ、らくだ、岩だぬきは、ひづめが割れているかどちらかなので、食べてはならないと、書かれています。

 同じ理由で豚も食べてはならないと決められています。ひづめは割れているが、反芻しないとの理由です。

 これらの規程は、いかにも野生動物が身近で、その上、食べる人みずから解体したことがなければわからない事実です。
 まさに、聖書は、最初、書かれた時代の人にあてて、その人たちの理解しやすいように書かれたということが分かるのです。

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 神の目からご覧になって、食べてよい動物を見てみると、繁殖力が旺盛な草食動物、とりわけ、飼育できるものであるのがわかります。
 食べてはいけないもののほとんどが、肉食動物、猛禽類で、これらは食物連鎖の頂点をなすものです。食物連鎖の頂点をなす動物は数が少ないだけではありません。それらは、草食動物や害虫の数を制限し、生態系(自然)の秩序を維持するわけです。

 日本でも、たとえば野生の鹿が増えて、間引かなければいけないと問題になったりしました。日本の場合は、森林伐採など自然破壊も関係しているのですが、本来、鹿を狩って生きていた狼などを、絶滅させてしまったことも鹿の大幅な繁殖と無関係ではないと言われています。

 
 食物になる植物のうち、収穫するものはその十分の一を必ず毎年ささげなければいけない。(申命記14章22節) 

 畑に植えるものは収穫が比較的容易に計算できたのです。収穫物の一割と言うのは、その後、たとえば、什一などと言われる献納物の基準になったのでしょう。

 これを税金だと考えれば、かなり安い気がします。日本の江戸時代の年貢は、安くて三公七民、ふつう四公六民くらいだったそうです。
 もっとも、イスラエルは牧畜と農業が抱き合わせの生産体制だったようです。麦やぶどう、オリーブ油以外に、牛や羊をささげたのです。一概に、比べることはできません。
 

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 ホッとするのは、食物規程に、ささげ物や納税の規程だけでなく、必ず、貧しい人への配慮があることです。

 三年の終わりごとに、その年の収穫の十分の一を全部持ち出し、あなたの町囲みのうちに置いておかなければならない。(28節)

 あなたのうちにあって相続地の割り当てのないレビ人や、あなたの町囲みのうちにいる在留異国人や、みなしごや、やもめは来て、食べ、満ち足りるであろう。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。(29節)

 
 じっさい、ひもじい暮らしをしている人は、この三年目をどれほど待ち望み、喜んだことでしょう。そうするのは、道徳的慈善ではない。そうすることで、主があなたの手のわざを祝福してくださると言うのが、聖書の世界です。





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2011年06月26日

Coffee Break297  負債の免除(申命記15章)



 
 七年の終わりごとに、負債の免除をしなければならない。(申命記15章1節)

 こんな法律がいま、日本で検討されたら、消費税引き上げどころではない大反対が巻き起こるでしょう。「弱い人を守る」とても良いアイディアのような気がしますが、じっさいにこのような法律ができたら、貸す人はいなくなるでしょう。銀行は貸すことができないだけでなく、銀行に預ける人もいなくなります。経済は根底から行き詰まってしまいます。

 じっさい、日本でも、むかし「徳政令」というものがありました。鎌倉時代に元寇の襲来などのときに、身代を傾けてご奉公(合戦に参加)した御家人が貧しくなり、その領地が金貸しに取られて苦しんでいるのを、救うために出された法律です。
 これは、それなりに意味があったらしく、その後室町時代になっても出され、今度は徳政令を要求する徳政一揆までが常習になりました。

 ただ、このような法律は、一時的に効果はあっても、貸す側もより巧妙になるので、結局は、貧しい人を完全に救うことにはなりません。


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 七年の終わりごとの負債の免除については、そのやり方、目的が書かれています。

 貸主はみな、その隣人に貸したものを免除する。その隣人やその兄弟から取り立ててはならない。主が免除を布告しておられる。(2節)

 外国人からは取り立てることができるが、あなたの兄弟が、あなたに借りているものは免除しなければならない。(3節)

 そうすれば、あなたのうちには貧しい者がなくなるであろう。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えて所有させようとしておられる地で、主は、必ずあなたを祝福される。(4節)



 この布告が有効なのは、イスラエル人同士、さらにイスラエル人のなかの(同族の)兄弟ということになっています。目的は、借金が重なって貧しくなる者が出ないためです。負債の意味は今で言う借金ではなくて、種籾とか着る物、食べ物のことでしょう。支払いのために公には、金や銀が使われたかもしれませんが、今でいう「通貨」は、まだなかったのです。
 

 あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたのどの町囲みのうちででも、あなたの兄弟のひとりが、もし貧しかったなら、その貧しい兄弟に対して、あなたの心を閉じてはならない。また、手を閉じてはならない。(7節)

 「手を閉じてはならない」が、効いていますね。気持ちは(心は)あるけれど、と言うのではだめなのですね。今の時代に置き換えれば、じっさいに財布を出してお金を出して渡さないと意味がないというわけです。

 神信仰は、心の中の問題のような気がしますが、聖書においては、その始めから、神がなさることはすべて具体的で、目に見えることです。
 創世記の最初に、神が天地万物をじっさいにお造りになったのが、神の国の歴史の始りです。

 お金も、神様が仰せなので「しぶしぶ貸す」のではいけないとおっしゃるのです。
 もうじき免除の年の七年目が来て、債務が棒引きになってしまうからと、貸し渋るのはもっとも悪いことでした。
 
 あなたは心に邪念をいだき、「第七年、免除の年が近づいた」と言って、貧しい兄弟に物惜しみして、これに何も与えないようなことのないように気をつけなさい。その人があなたのことで主に訴えるなら、あなたは有罪となる。(9節)

 日本の徳政令は、政府による負債の棒引きでした。イスラエルのこの債務免除は、神の命令でした。
 借主が、貸してくれない相手を訴える相手は主(神様)ですから、民の信仰が固ければかなり機能したのでしょう。
 
 貧しい者が国のうちから絶えることはないであろうから、私はあなたに命じて言う。「国のうちにいるあなたの兄弟の悩んでいる者と貧しいものに、必ずあなたの手を開かなければならない。」(11節) 

 この負債の免除は、十戒の二つの分類の一つ、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」の実践のひとつです。このおきては、どれくらい守られていたのでしょうか。


 千五百年後、イエス様はおっしゃっています。

 「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」と言われたのを、あなたがたは聞いています。(マタイの福音書5章43節)

 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害するもののために祈りなさい。(44節)

 自分を愛してくれるものを愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも同じことをしているではありませんか。(46節)

 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからと言って、どれだけまさったことをしたのでしょう。
 異邦人(非ユダヤ教徒)でも同じことをするではありませんか。(47節)





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2011年06月27日

Coffee Break298 必ず彼に与えなさい(申命記15章10節)




 貧しい者が国のうちから絶えることはないであろうから、私はあなたに命じて言う。「国のうちにいるあなたの兄弟の悩んでいるものと貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない。」(申命記15章12節)

 
 もう、二十年以上前のことです。テレビで、「南米移民のその後」を特集していました。
 発展途上国からの出稼ぎ労働者を受け容れる今の日本人には、知らない人も多いと思いますが、じつは明治以後、日本は移民をアメリカ(ハワイを含む)や南米に送ってきた国なのです。

 日本は国土が狭いだけでなく、山地が多いのですから農地は限られ、昔から農家の次男以下は、家をでて商家の丁稚奉公や鍛冶屋、大工などの徒弟に入ったわけです。明治以降は、人口が急激に膨張し、移民政策が提唱、推進されたのです。
 日本人は勤勉で、正直で、アメリカやハワイの大農園などで働くと、どこでも評判が良くて成功した人も多かったと、私たちは聞かされてきました。
   
 テレビの特集は、第二次大戦後の南米移住民の「その後」を取り上げたものでした。第二次大戦後、敗戦で中国や朝鮮半島(日本の植民地となっていた場所です)にいた日本人が戻ってきて人口が膨張し、その上、貧しくて十分に食べることができないので、移民が奨励されたのです。

 テレビでは、成功した一家と失敗続きの一家。また、「夢の処女地開拓」と謳われた入植地が、石ころだらけで、どうにもならず、ついには、移民を勧めた日本政府を相手取って、訴訟を起こした人たちのことも報じられていました。

 私は、農業や国の政策のことなど、ほとんどわかりませんが、しかし、その時、日本にいては決してありえないような貧しさがあるのだと、思ったものです。

 水道も電気も通っていない人里はなれた荒野で、もしそれが「地の産物」を生み出さなかったら、餓死するしかないのです。まわりは外国人で、言葉も習慣も違う人たちのなかで、関係を築いて生きていくのは勤勉さや正直さだけでは、どうにもならないものがあったでしょう。
 ある貧しい夫婦は、入植した場所で、ゴムの樹が収穫できるくらいになると病気で全滅、それが何年も続いて、みすぼらしいほったて小屋同然の住まいを建て替えることもできないまま、老いてしまった様子が映されていました。
 
  
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 ただ、あなたは、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じるこのすべての命令を守り行なわなければならない。(申命記15章5節)

 あなたの神、主は、あなたに約束されたようにあなたを祝福されるから、あなたは多くの国々に貸すが、あなたが借りることはない。また、あなたは多くの国々を支配するが、彼らがあなたを支配することはない。(6節)


 貧しい兄弟のために、手を開いて与えれば、神はあなたを祝福されると、聖書(モーセ)は言っています。これは、たんに福祉は、回りまわって自分を豊かにするといったレベルの話ではありません。

 
 三千五百年前のイスラエルは、いわばこれからカナンに戦って入植しようという流浪の民です。神様と契約をした神聖政治国家ですが、何度も確認したように、国の中心理念と制度と組織はありますが、国土は、神が、「これから、与える」といってくださる「約束の地」にすぎません。
 そこを戦って勝ち取らなければいけなかったのですから、徒手空拳で荒地に入っていった移民と変わらないのではないでしょうか。

 神様ご自身、そのことをよくご存知でした。それゆえ、何度も何度も強調されるのです。

 必ず彼に(イスラエル人の同胞)与えなさい。また、与えるとき、心に未練をもってはならない。このことのために、あなたの神、主はあなたのすべての働きとわざを祝福してくださる。(10節) 

 私たちは現在、とても豊かな社会に住んでいるので、聖書の申命記15章で命じられているような隣人への「援助」の切実さが、案外飲み込めていないのではないでしょうか。

 





 
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2011年06月28日

Coffee Break299 奴隷の解放(申命記15章12節)

 


 もし、あなたの同胞、ヘブル人の男あるいは女が、あなたのところに売られてきて六年間あなたに仕えたなら、七年目にはあなたは彼を自由の身にしてやらなければならない。(申命記15章12節)

 聖書に「奴隷」がでてきて驚く人がいますが、聖書は、罪によって「楽園を追放された」人間の世界に、神様がどのように働いておられるか、神様がどのように人類を救おうとされているかを書いた書物ですから、人間の世界の、およそ「罪」と呼ばれるものすべてがあるわけです。

 申命記のこの記述は、すべて、カナンに入って国を建てて暮し始めた後に守るべきこととしているのですが、それにしても、荒野の四十年の間に、すでに、イスラエル人の間にも、貧しい兄弟、ほかのイスラエル人に身売りして奴隷になるものなどがいたのでしょう。

 そのような貧富の差が出るのを止めることは、人間の力ではできないことだったのですね。

 昨日のブログで取り上げた日本人の移民労働者の間でも、成功者と落伍者があり、それは、入植した土地の良し悪し、天候、家族構成、本人の健康状態などによって変わり、一概に失敗者イコール怠け者である、などと決められないのです。

 イスラエルの民をエジプトから連れ出された主、神はそのことをよくご存知なので、負債と同様、負債のために奴隷になった者も、定められた七年ごとの年に解放するよう(モーセを通じて)、求めておられるのでしょう。

 ヘブル人とは、厳密には細かい人種的説明があるようですが、聖書の中では、イスラエル人の別称だと考えても差し支えないと私は思います。


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 ところで、聖書のなかでは、創世記にすでに、たびたび「奴隷」が出てきます。

 アブラハムがエジプトのパロから奴隷や家畜をもらっています。(創世記12章20節)
 その奴隷の一人が、アブラハムの妻サラの女奴隷であったのですが、サラが子どもが生めないときに、アブラハムに差し出されています。(創世記16章2節)

 また、アブラハムの孫ヤコブの二人の妻、レアとラケルが熾烈な夫の愛の獲得競争の中で、それぞれ父親から与えられていた女奴隷をヤコブに与える記事もあります。(創世記30章)
 兄弟たちの反感を買ったヤコブの十一番目の息子ヨセフは、兄弟たちの計略でエジプトに奴隷として売られています。(創世記39章1節)

 エジプトに移住したイスラエル一族(ヤコブと十二人の息子たち)は、エジプトの政権の交代で、四百年後には、奴隷に落ちていたのです。(出エジプト記1章)
 
 古代社会では、戦争で負けたり、経済的に負債があって奴隷になるのは当たり前だったようです。さらに、人買い、誘拐などもあったでしょう。


 ネットで、日本には奴隷などいなかったという意見がありましたが、これはもちろん、まちがいです。

 律令制度の時代に、公民の下に奴婢が定められています。

 江戸時代以降でも、士農工商の身分の下に、非人、えたなどという階級が定められ、住む地域、職業、結婚、すべてに、大幅な制限がありました。
 その差別は、明治になっても戸籍に「新平民」と記され、就職、結婚なども思うに任せず、戦後になっても、被差別部落民として差別を受け、苦しんだ人は多かったのです。
 彼らには独立した生計と自由があったのだから、奴隷とは異なると思われるかもしれませんが、差別され、生き方がひどく制限されると言う意味では、奴隷状態にあったと言えます。
 島崎藤村の小説「破戒」は、そうした階級(被差別部落)に生まれた青年の悲劇の物語です。
 
 
 お金のための人身売買も、つい最近まで、公然と行なわれてきました。
 遊郭など、公的売春があった頃、(1957年4月、売春防止法が施行されるまで、日本にも政府公認の売春宿があったのです)。娼婦になるのは、たいてい親の借金の肩代わりに売られた少女たちでした。
 女工哀史で有名な「製糸工場の女工」なども、親の借金を背負って買われてきた少女たちが多く、一日十四時間というような重労働を強いられ、外出もままならない生活を何年も続けたのです。


 三千五百年も昔に、七年ごとに解放する年を設けて、負債や奴隷状態から人を解放させたのは、大変な出来事です。神でなければ出せない命令と言えるでしょう。

 モーセは念を押します。

 あなたは、エジプトの地で奴隷であったあなたを、あなたの神、主が贖い出されたことを覚えていなさい。それゆえ、私は、きょう、この戒めをあなたに命じる。(申命記15章15節)




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2011年06月29日

Coffee Break300 初子をささげる(申命記15章19節〜21節)

 


 あなたの牛の群れや羊の群れに生まれた雄の初子はみな、あなたの神、主にささげなければならない。牛の初子を使って働いてはならない。羊の初子の毛を刈り取ってはならない。(申命記15章19節)

 
 ささげ物についても、出エジプト記から何度も言及があります。
 レビ記のささげ物規程の箇所、また、イエス様の贖いを考えるところで、何度かささげ物について書きました。(Coffee Break156、159、178参照)
 罪ある人間が神に近づくためには、私たちは自分のいのちを差し出して罪を贖わなければいけないところだったのです。最初、アベルが羊の初子をささげたとき、それが、神様の側からの命令であるとは、聖書のどこにも書かれていません。
 しかし、神様から霊的存在として、神様の愛の対象として造られている人間には、そのようなものを感じ取る本能があったのでしょう。
 ささげ物をするという慣わしは、いわゆる偶像礼拝の宗教でさえ、あったのです。

 
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 牛や羊の雄の初子(最初の仔)は、主のものだと以前にも書かれています。牛と羊だけでなく、人間の男子の初子も神のものなのです。ただ、人間の子どもはほかのもので贖うようにと命じられています。神は人のいのちを差し出すのをお喜びにならなかったのです。

 アブラハムにイサクを献げよとお命じになったのは、異例のことなのです。(創世記22章1節〜18節) もとより、全知全能の神様ですから、アブラハムがイサクを薪の上に載せる従順をご存知で、その瞬間に、止めるために主の使いを遣わされるのも予定の出来事だったでしょう。

 このエピソードは、神への絶対的な従順こそが、神様との関係で第一のものであるとのメッセージです。
 アブラハムの信仰を試すために、彼のただひとりの息子、百歳になってやっと得たイサクをささげさせるとは、神様も、なんと酷なと思われるでしょうか。しかし、大切でないものを差し出すなら、だれでも、簡単にできるのです。
 アブラハムは、神の人類救済の歴史の中で、選びの民の始祖として指名を受けた、歴史上もっとも特筆すべき人なのですから、試験が厳しかったのは当然だったのです。

 じっさい、主の使いにイサクの喉を切るのを止められた瞬間、アブラハムは何のことかわからず呆然とし、それから、全身の力が抜けてその場にしゃがみこんだのではないでしょうか。彼が、われに返り、主の御心を呑み込んで主に祈ったのは、少しあとだった、そんな気がします。


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 もし、それに欠陥があれば、足がなえたり、盲目であったり、何でもひどい欠陥があれば、あなたの神、主にそれをいけにえとしてささげてはならない。(21節)

 欠陥のある動物をささげることへの禁止も、すでに書かれています。
 動物だけでなく、初穂でも、小麦粉でも、オリーブオイルでも、最上のものをささげるように命じられているのです。

 これは、当たり前のことです。神にささげるものは、自分の身代わりなのです。役に立たず売っても高く売れないものを、供えるのは神への冒涜です。


 私の子供のころ、いただき物があれば、まず仏壇や神棚に供えました。もし、ひと箱の桃やみかんやりんごなら、一番形の良いものを供えたものです。
 ごはんを炊いたら、炊き立ての釜から最初のひと掬いを小さな高杯のような器に入れてささげたのです。お茶を差し上げる時は、もちろん、一番茶で、人間より先です。

 偶像の神と言われる仏壇や神棚にでも、これだけの敬意を払ったのです。いえ、その一所懸命に良いものをささげる姿勢と心は、すでに、まことの神様をどこかに見ているところがあったようにも思えます。
 なんとかして、自分の罪を贖わなければならない、神仏に赦していただかなくてはならない。そういう気持ちがあったように思います。

 私は、毎月、月命日にお経を上げにこられる檀家寺のお坊さんが言われたことばが、いまも耳に残っています。
 母が、こまごました悩みを相談していた時です。

 ひとしきり話を聞き終わったお坊さんは、おっしゃたのです。
「人間は生まれながら罪があるんですな。罪があると、キリストさんも言うてはりますな」







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2011年06月30日

Coffee Break301 贖いの血(申命記15章23節、レビ記17章)

 


 ただし、その血を食べてはならない。それを地面に水のように注ぎ出さなければならない。(申命記15章23節)

 私たちのいのちは、いったいどこにあるのでしょう。臓器移植が問題になりはじめたころ、脳死か心臓死かと言うことが問題になっていました。
 私には常識的なことしかわかりませんが、脳が死んでも心臓が動いていれば、全身の臓器が生きているため、移植用の臓器を心臓が動いているうちに取り出すためでした。これは、また、脳死になるほどの事故や卒中の発作があると、ほどなく心臓も止まった時代とは違い、医学的処置で長く心臓だけを動かすことができるようになったことがあるでしょう。
 
 聖書を読むと、いのちは、「血の中」にあると書いています。

 イスラエルの家の者、また彼らの間の在留異国人のだれであっても、どんな血でも食べるなら、わたしはその血を食べる者から、わたしの顔をそむけ,その者を民の間から絶つ。(申命記17章10節)

 なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。(11節)


 イスラエルの民は、動物を自分のいのちの贖いのために、いけにえとして祭壇にささげたのです。これらは、煙になるまで焼き尽くす全焼のいけにえ以外は、ささげた人と祭司で食べることができました。
 また、ささげ物にしない動物も食べてもよかったのです。
 ただ、もともと動物のいのちも神様が与えてくださったものですから、そのいのちを自分のものとして食べてはいけないと、命じておられるのです。
 
 じっさい、輸血がないころは、多量の失血はすぐに死につながったのですから、血にいのちがあるというのは、じつにそのとおりだったのでしょう。

 キリスト教ではないけれども、「聖書の話しをします」と家庭訪問をしている団体が、輸血を拒否して話題になったころがありましたが、このあたりが根拠のようです。

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 イエス様は、「最後の晩餐」と呼ばれている過ぎ越しの食事の席で、パンとぶどう酒を弟子たちに与えて、言われました。

 取って食べなさい。これはわたしのからだです。(新約聖書マタイの福音書26章26節)
 
 また、杯を取り、感謝をささげて後、こう言ってかれらにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。(27節)
 これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。(28節)
 

 今の私たちには、イエス様が私たちの罪のためにささげ物になってくださったことは、周知の事実です。つまり、贖いのささげ物が羊や雄牛であった時代の肉、犠牲の動物の血を注ぎだして祭壇に振りかけ、神様に身代わりのいのちをお返しした血と同じ意味のものを、イエス様は、弟子たちに与えてくださったのです。
 イエス様のナゾのようなことばと、パンとぶどう酒。それが、十字架の贖いであると、食事の時の弟子たちはわかっていたでしょうか。

 さいわい、私たちはいま、その犠牲を思い起こし、聖餐式をもち、パンとぶどう酒(じっさいにはぶどう液が多い)をいただいています。

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 私にとっては、クリスチャンになりたてのころの聖餐と、今では、明らかに心構えに変化があります。
 イエス様の贖いによって、自分が救われたのだとの思いが深くなってくるにつれ、聖餐式は、身の引き締まる厳粛さを増していきます。

 なぜなら、イエス様の血は、一人の人の死を意味しているのではありません。イエス様は死を打ち破って復活してくださったのです。
 私たち新約の民は、血で神様に償いをするのではなく、血で永遠に生きるものとしていただいたのです。




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