2011年06月13日

Coffee Break287 約束の地を前に(申命記11章10節、14節)



 以前、東南アジアからの留学生のお世話をするボランティア活動をしていました。
 日本の国が資金を出している団体が、その国で優秀な学生を選抜し、現地で日本語を二年間教え、それから日本の大学に送ってくるのです。日本での滞在費や授業料はもちろん、日本側の負担です。

 私たちは、貧しい国からやってきた彼らが不便をしないよう、淋しくないよう支援するのが目的なのですが、彼らは全員明るく、真剣に学ぼうとしていて、ボランティアをしている側の私たちの方が、彼らに「喜びをもらって」いるのがわかりました。

 
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 あなたが入って行って、所有しようとしている地は、あなたが出てきたエジプトの地のようではないからである。あそこでは、野菜畑のように、自分で種を蒔き、自分の力で水をやらなければならなかった。(出エジプト記11章10節)
 
 もし、私が、きょう、あなたがたに命じる命令に、あなたがたがよく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くして仕えるなら、
 「わたしは季節に従って、あなたがたの地に雨、先の雨と後の雨を与えよう。あなたは、あなたの穀物と新しいぶどう酒を集めよう。」(11章14節)



 出エジプトの目的地は、何度も書いたように、神の約束の地・乳と蜜の流れる地・カナンです。神との契約と、おきてと組織をもってはいても、領土をもたない国イスラエルは神の約束に希望をもって、荒野の彷徨を耐えた民でした。

 何度も、神の約束を疑い、また、神のお示しになる方向から逸れ、そのたびに神の怒りに触れたイスラエルの民は、それでも、四十年かけてヨルダン川の東側までやってきたのです。

 申命記は、いよいよカナン入りを目前にしたイスラエルの民に、モーセが最後の演説を行なう場面です。四十年目の十一月から一ヶ月ほどのできごとです。
 モーセは、神から、イスラエルの民とともにヨルダンを渡ることはできないと宣告を受けていました。イスラエルの民をエジプトからカナンまで連れて行く召命を受けて、あらゆる苦難に耐えてきたモーセにとって、それは察しても余りある悲しみであり、心痛であり、親が子どもを心配するように、自分亡き後の、イスラエルを心配しているのです。

 それにしても、新しい土地カナンに対する形容は、なんと具体的でしょう。
 まるで、幼い子どもに言い聞かせるかのような「ごほうび」として、カナンが説明されています。エジプトでは、野菜を植えて水をやって栽培をしなければいけなかった。けれども、カナンではしぜんに、新しい穀物と新しいぶどう酒が手に入ると言わないばかりです。

 その条件としては、ただ、神のことばに聞き従うこと、心を尽くし、精神を尽くして主を愛することです。そうすれば、神は麦を植えつけるときの「先の雨」と、麦の収穫前の「後の雨」を降らせて、豊かな収穫を約束してくださるのです。

 
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 先の留学生たちは、全員が信仰をもっていました。(クリスチャン、モスリム) それは、まるで、しぜんなことで、彼らにとって信仰自体を疑うなど考えられない感じで、人格のバックボーンになっているように見えました。

 彼らの明るさ、未来に対する確信は、今にして思えば、カナンに入る希望と似たものだったかもしれません。

 
 どんなに神を愛しても、信仰が強くても、飢饉になるときは飢饉になり、神を信じない人たち、また、違う神を信じている者たちにも豊作のこともあるのではないか。と、クリスチャンでない人は、上記の聖書箇所を思うかもしれません。

 その証拠に、新約聖書でイエス様はおっしゃっているではないか。

 天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる。(マタイ5章45節) 

 その通りなのです。そのような神様だからこそ、心を尽くし、精神を尽くして愛する。その時、本当の希望があるのではないでしょうか。

 このことばの前には、もっとも有名なことばのひとつがあります。

 しかし、私はあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害するもののために祈りなさい。(44章)

 因果応報、信賞必罰的な旧約聖書の世界は、神の民を養成する準備段階として必要でした。
 私たちの創造主である神とモーセとイスラエルの民の痛みの上に、イスラエルが生まれ、それがイエス様の救いの土台となったのです。
 






posted by さとうまさこ at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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