2011年06月18日

Coffee Break289 約束の地に入ったなら(申命記12章)

 


 申命記12章に入ると、カナンにおけるイスラエルの民の、具体的な礼拝祭祀や社会生活の規則が指示されてきます。


 あなたがたが所有する異邦の民が、その神々に仕える場所は、高い山の上であっても、丘の上であっても、また、青々と茂ったどの木の下であっても、それをことごとく破壊しなければならない。(申命記12章2節)

 彼らの祭壇をこわし、石の柱を打ち砕き、アシェラ像などを火で焼き、彼らの神々の彫像を粉砕して、それらの名をその場所から消し去りなさい。(3節)
 
 あなたが、入って行って、所有しようとしている国々を、あなたの神、主が、あなたの前から絶ち滅ぼし、あなたがそれらを所有して、その地に住むようになったら、(12章29節)

 よく気をつけ、彼らがあなたの前から根絶やしにされて後に、彼らにならって、わなにかけられないようにしなさい。彼らの神々を求めて、「これらの異邦の民は、どのように神々に仕えたのだろう。私もそうしてみよう」と言わないようにしなさい。(30節)


 
 日本は多神教の国で、偶像あふれる国だと見るクリスチャンは多いのです。
 じっさい、一般的に、おびだだしい神社仏閣、仏像、七福神や仁王様、お地蔵様やお稲荷さん、動植物の形を祀ったものがあふれています。

 けれども、これらは、旧約聖書にある「偶像の神々」のダイナミックな存在感とは、かなりかけ離れていないでしょうか。
 
 モーセの時代、偶像は、天地創造の神の大きな力と熱愛を知っているイスラエルの民が、それでも、しばしば偶像の神々に誘惑されてしまうほどの魅力があったのです。


☆☆☆☆

 あなたの神、主に対して、このようにしてはならない。彼らは、主が憎むあらゆる忌みきらうべきことを、その神々に行い、自分たちの息子、娘を自分たちの神々のために火で焼くことさえしたのである。(31節)

 バアル、アシュタロテ、モレク、アシェラ(これらの神々についてはまた機会を設けて説明します)と呼ばれて、何度も聖書に登場してくる神々は、いずれも豊穣神だったと言われています。

 豊穣を願うのは、何も悪いことではないと言えそうです。人間は食べなければ生きて行けません。とくに昔のように余剰生産物が少ない時代は、「お腹いっぱい」「安定して」食べられることが何よりの願いだったでしょう。

 問題は、豊穣や豊漁を願う祭りで、民は、神、主が憎むあらゆる忌みきらうべきことを、「彼らの神々」の前で行ったのです。
 たとえば、硫黄によって滅ばされたソドムとゴモラでは、同性愛やあらゆる不法が満ちていました。バアルを拝むカナンの国では、自分たちの息子、娘を自分たちの神々のために火で焼くことさえしたのです。
 神殿男娼、神殿娼婦の存在もありました。豊穣の祭りの興奮と次の豊穣を願って、乱交が行なわれることもありました。


 食欲と性欲が握手をしたら、それだけで十分享楽的です。しかも、それが神々の公認行事とお墨付きがあれば、もともと罪人(つみびと)で、安楽に流れやすい人間が引き込まれるのは当然です。

 現代では、子どもをささげて焼き殺す祭は、さすがにありえないでしょうが、前にも書いたように(リンク・さとうまさこ短編集クリスマストピックス)人身御供そのものは、日本でも行なわれていたことなのです。


 大変厳しいことばが続く申命記ですが、この12章でも、モーセはその目的を述べています。

 気をつけて、私が命じるこれらのことばに聞き従いなさい。それは、あなたの神、主が良いと見、正しいと見られることをあなたが行い、あなたも後の子孫も永久にしあわせになるためである。(28節)



posted by さとうまさこ at 04:00| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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