2011年06月24日

Coffee Break295 申命記と新約の時代(申命記13章5節、使徒の働き16章17節18節)




 その預言者、あるいは、夢見るものは殺されなければならない。その者は、あなたがたをエジプトの国から連れ出し、奴隷の家から贖い出された、あなたがたの神、主に、あなたがたを反逆させようとそそのかし、あなたの神、主があなたに歩めと命じた道から、あなたを迷い出させようとするからである。あなたがたのうちからこの悪を除き去りなさい。(申命記13章5節)

 これは、三日間続けて、ブログに掲載した申命記13章1節から4節に続くみことばです。

 モーセは、自分勝手な預言や不思議を行なうことを厳しく戒めています。5節では、さらに、そのような者は殺されなければならないと、命じているのです。
 同じことは、9節、10節、14節、15節にも繰り返されます。

 この厳しさが申命記の世界です。
 形あるものへの偶像礼拝、うらないやまじない、予言や呪術を忌み嫌うのは、旧約聖書で一貫しています。
 神に対するさまざまな背きの罪でも、これはもっとも大きな重い罪でした。十戒の二番目の戒めなのです。イスラエルの民がカナンまでの道のりを四十年もかかったのも、この戒めに背いたことが大きかったでしょう。
 
 カナンに入ってからも、外国に攻められ、捕囚に捕らわれるような国の衰亡を招いたのも直接は、偶像礼拝が原因であったと言われています。


 このような記述が聖書に繰り返されているため、現在、私たちクリスチャンも、「偶像礼拝への禁止」や「おそれ」を、真(まこと)の神さまのことを正しく知る前に、覚えてしまう始末です。

 私の友人が、クリスチャンになりたてのころ、嬉しくて、弟さんの娘の結婚式で神主さんの御祓いを自分だけやめてもらったそうです。しかし、その結果、弟さん一家とは以後、絶交状態になったと聞きました。私は、彼女が「イエス様」「十字架」「救い」などのことばを口にするものの、聖書もあまり読んでいないのを知っていました。
 その仲間の祈り会に出てみると、(勝手に名前を挙げられ)祈られる対象になっている人たちは、内面的な問題で祈られているのではありません。受験祈願に息子と神社に行ったとか、般若心経を上げている人とか、いわば○×で白黒をつけられるようなレベルで判定されているのがわかり、複雑な気分になりました。


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 パウロは、占い師の女が、彼ら一行に付きまとうのに困り果てて、彼女に取り付いている占いの霊に言いました。

「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け」(使徒の働き16章18節)
 すると、占いの霊はこの奴隷女から出て行ったのです。

 申命記から千五百年の歳月が経っていて、しかも、それはイスラエルの外(ピリピはマケドニアの一都市)での話ですが、それにしても、パウロが女を殺す必要など感じていないのはなぜでしょう。


 少なくても、二つの理由が考えられます。その第一は、旧約聖書の時代の律法は、あくまでも、奇跡的出来事をとおしてエジプトの奴隷状態から救い出された、イスラエルという神の民、あるいは神聖政治国家の中での定めや戒めであったとことです。イスラエルからは遠く離れた外国の都市ピリピに住んでいた、異邦人の女奴隷に当てはめることはできませんでした。

 もうひとつは、申命記の世界ではイスラエルの民にとって危険極まりなかった、偶像を作り出し不思議を行なわせる悪霊が、イエス・キリストの御名によって追い出されるようになっていたためです。

 今回はこの第二の理由を考証して見ましょう。

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 旧約聖書の時代、じつは神様とお会いできるのは祭司だけでした。それも大祭司と呼ばれる人が、至聖所で年一回お会いできるのです。祭司は世襲制でしたから、素質の問題があったのかもしれません。必要な時には、神様は、預言者を選び遣わされました。モーセはもちろんのこと、サウルやダビデに油をそそいだサムエル、後のイザヤ、エレミヤ、エゼキエルなど、預言者こそ歴史の節目で、大きな意味のある神のことばを受けたのです。

 大部分の庶民は、祭祀制度の下、神に犠牲をささげて祭司に神様との仲立ちをしてもらうのです。

 イエス様が、十字架ですべての人間の罪の贖いを済ませてくださったことは、神と人類との関係を根底から変えました。

 犠牲をささげる必要がなくなりました。
 聖所と至聖所の間を仕切る垂れ幕が落とされました。
 イエス様ご自身が大祭司になられたので、私たちは、祈りの最後に、「イエス様のお名前で
祈りします」と唱えれば、旧約時代の民のようなささげ物や複雑な手続きなしに、神様と直接お話できるようになったのです。


 イエス様は、知らない者には敗北のようにしか見えない十字架で、悪魔に対する最終的な勝利をお取りになった上、(参照:創世記3:15) 甦ってすべての権威を持つ方になってくださいました。そのために、悪魔の手下に過ぎない悪霊たちは、キリストの権威に従わずにはおれなくなったのです。

 キリストの権威は、キリストがまだ生きておられたときから圧倒的で、有無を言わせず悪霊たちを従わせました。弟子たちはその権威を与えられて、同じように悪霊たちを追い出しました。
甦りの後のキリストは、「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威があたえられています」と宣言して、その権威がさらに大きく無限になったことを教えてくださいました。


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 悪霊が人に不思議を行なわせ、ちょっとしたしるしで神から離れさせるのは、旧約時代は容易なことでした。そのような悪霊に憑かれてしまった者から、悪霊を引き離すのは不可能だったので、殺すしかなかったのでしょう。
 
 しかし、使徒の時代、パウロが、いっさいの権威を与えられたイエス様の名で命じれば、たちまち、占いの霊は出て行ったのです。
 占いの霊が、わざわざ叫びながらパウロについて行ったのは、なぜでしょう。たぶん、大きな大きなまことの神イエス様が、怖ろしかったのだと思います。
 「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです」(使途の働き16章17節)
 と、お世辞を言いながら付きまとうところは、ちょっと「あわれ」でもありますね。

 私が、クリスチャンは占いなど恐れないと書いたのは、その意味です。
 私たちはもちろん、「使徒」ではありません。パウロやペテロとは比べ物にならない小さな器です。
 それで、良いのです。それでよい。信じるだけで救っていただけると、神ご自身が約束して下さったのです。

 「イエス様のお名前で祈ります」
 このことばは、何も神秘的な呪文ではありません。天地すべてに、公然と通用するすばらしい権威です。




posted by さとうまさこ at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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