2011年06月29日

Coffee Break300 初子をささげる(申命記15章19節〜21節)

 


 あなたの牛の群れや羊の群れに生まれた雄の初子はみな、あなたの神、主にささげなければならない。牛の初子を使って働いてはならない。羊の初子の毛を刈り取ってはならない。(申命記15章19節)

 
 ささげ物についても、出エジプト記から何度も言及があります。
 レビ記のささげ物規程の箇所、また、イエス様の贖いを考えるところで、何度かささげ物について書きました。(Coffee Break156、159、178参照)
 罪ある人間が神に近づくためには、私たちは自分のいのちを差し出して罪を贖わなければいけないところだったのです。最初、アベルが羊の初子をささげたとき、それが、神様の側からの命令であるとは、聖書のどこにも書かれていません。
 しかし、神様から霊的存在として、神様の愛の対象として造られている人間には、そのようなものを感じ取る本能があったのでしょう。
 ささげ物をするという慣わしは、いわゆる偶像礼拝の宗教でさえ、あったのです。

 
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 牛や羊の雄の初子(最初の仔)は、主のものだと以前にも書かれています。牛と羊だけでなく、人間の男子の初子も神のものなのです。ただ、人間の子どもはほかのもので贖うようにと命じられています。神は人のいのちを差し出すのをお喜びにならなかったのです。

 アブラハムにイサクを献げよとお命じになったのは、異例のことなのです。(創世記22章1節〜18節) もとより、全知全能の神様ですから、アブラハムがイサクを薪の上に載せる従順をご存知で、その瞬間に、止めるために主の使いを遣わされるのも予定の出来事だったでしょう。

 このエピソードは、神への絶対的な従順こそが、神様との関係で第一のものであるとのメッセージです。
 アブラハムの信仰を試すために、彼のただひとりの息子、百歳になってやっと得たイサクをささげさせるとは、神様も、なんと酷なと思われるでしょうか。しかし、大切でないものを差し出すなら、だれでも、簡単にできるのです。
 アブラハムは、神の人類救済の歴史の中で、選びの民の始祖として指名を受けた、歴史上もっとも特筆すべき人なのですから、試験が厳しかったのは当然だったのです。

 じっさい、主の使いにイサクの喉を切るのを止められた瞬間、アブラハムは何のことかわからず呆然とし、それから、全身の力が抜けてその場にしゃがみこんだのではないでしょうか。彼が、われに返り、主の御心を呑み込んで主に祈ったのは、少しあとだった、そんな気がします。


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 もし、それに欠陥があれば、足がなえたり、盲目であったり、何でもひどい欠陥があれば、あなたの神、主にそれをいけにえとしてささげてはならない。(21節)

 欠陥のある動物をささげることへの禁止も、すでに書かれています。
 動物だけでなく、初穂でも、小麦粉でも、オリーブオイルでも、最上のものをささげるように命じられているのです。

 これは、当たり前のことです。神にささげるものは、自分の身代わりなのです。役に立たず売っても高く売れないものを、供えるのは神への冒涜です。


 私の子供のころ、いただき物があれば、まず仏壇や神棚に供えました。もし、ひと箱の桃やみかんやりんごなら、一番形の良いものを供えたものです。
 ごはんを炊いたら、炊き立ての釜から最初のひと掬いを小さな高杯のような器に入れてささげたのです。お茶を差し上げる時は、もちろん、一番茶で、人間より先です。

 偶像の神と言われる仏壇や神棚にでも、これだけの敬意を払ったのです。いえ、その一所懸命に良いものをささげる姿勢と心は、すでに、まことの神様をどこかに見ているところがあったようにも思えます。
 なんとかして、自分の罪を贖わなければならない、神仏に赦していただかなくてはならない。そういう気持ちがあったように思います。

 私は、毎月、月命日にお経を上げにこられる檀家寺のお坊さんが言われたことばが、いまも耳に残っています。
 母が、こまごました悩みを相談していた時です。

 ひとしきり話を聞き終わったお坊さんは、おっしゃたのです。
「人間は生まれながら罪があるんですな。罪があると、キリストさんも言うてはりますな」







posted by さとうまさこ at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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