2011年06月30日

Coffee Break301 贖いの血(申命記15章23節、レビ記17章)

 


 ただし、その血を食べてはならない。それを地面に水のように注ぎ出さなければならない。(申命記15章23節)

 私たちのいのちは、いったいどこにあるのでしょう。臓器移植が問題になりはじめたころ、脳死か心臓死かと言うことが問題になっていました。
 私には常識的なことしかわかりませんが、脳が死んでも心臓が動いていれば、全身の臓器が生きているため、移植用の臓器を心臓が動いているうちに取り出すためでした。これは、また、脳死になるほどの事故や卒中の発作があると、ほどなく心臓も止まった時代とは違い、医学的処置で長く心臓だけを動かすことができるようになったことがあるでしょう。
 
 聖書を読むと、いのちは、「血の中」にあると書いています。

 イスラエルの家の者、また彼らの間の在留異国人のだれであっても、どんな血でも食べるなら、わたしはその血を食べる者から、わたしの顔をそむけ,その者を民の間から絶つ。(申命記17章10節)

 なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。(11節)


 イスラエルの民は、動物を自分のいのちの贖いのために、いけにえとして祭壇にささげたのです。これらは、煙になるまで焼き尽くす全焼のいけにえ以外は、ささげた人と祭司で食べることができました。
 また、ささげ物にしない動物も食べてもよかったのです。
 ただ、もともと動物のいのちも神様が与えてくださったものですから、そのいのちを自分のものとして食べてはいけないと、命じておられるのです。
 
 じっさい、輸血がないころは、多量の失血はすぐに死につながったのですから、血にいのちがあるというのは、じつにそのとおりだったのでしょう。

 キリスト教ではないけれども、「聖書の話しをします」と家庭訪問をしている団体が、輸血を拒否して話題になったころがありましたが、このあたりが根拠のようです。

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 イエス様は、「最後の晩餐」と呼ばれている過ぎ越しの食事の席で、パンとぶどう酒を弟子たちに与えて、言われました。

 取って食べなさい。これはわたしのからだです。(新約聖書マタイの福音書26章26節)
 
 また、杯を取り、感謝をささげて後、こう言ってかれらにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。(27節)
 これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。(28節)
 

 今の私たちには、イエス様が私たちの罪のためにささげ物になってくださったことは、周知の事実です。つまり、贖いのささげ物が羊や雄牛であった時代の肉、犠牲の動物の血を注ぎだして祭壇に振りかけ、神様に身代わりのいのちをお返しした血と同じ意味のものを、イエス様は、弟子たちに与えてくださったのです。
 イエス様のナゾのようなことばと、パンとぶどう酒。それが、十字架の贖いであると、食事の時の弟子たちはわかっていたでしょうか。

 さいわい、私たちはいま、その犠牲を思い起こし、聖餐式をもち、パンとぶどう酒(じっさいにはぶどう液が多い)をいただいています。

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 私にとっては、クリスチャンになりたてのころの聖餐と、今では、明らかに心構えに変化があります。
 イエス様の贖いによって、自分が救われたのだとの思いが深くなってくるにつれ、聖餐式は、身の引き締まる厳粛さを増していきます。

 なぜなら、イエス様の血は、一人の人の死を意味しているのではありません。イエス様は死を打ち破って復活してくださったのです。
 私たち新約の民は、血で神様に償いをするのではなく、血で永遠に生きるものとしていただいたのです。




posted by さとうまさこ at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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