2011年07月11日

Coffee Break313 血の責任(申命記21章1節〜8節)




 あなたの神、主があなたに与えて所有させようとしておられる地で、刺し殺されて野に倒れている人が見つかり、だれが殺したのかわからないときは、(申命記21章1節)

 あなたの長老たちとさばきつかさたちは出て行って、刺し殺されたものの回りの町々への距離をはかりなさい。(2節)


 これは、ミステリー小説の書き出しではありません。申命記(モーセの遺言演説)にあるみことばです。
「刺し殺されて野に倒れている人、発見!」と聞けば、だれでも殺人事件だと思います。古代のイスラエルでも、ただちに犯人捜索が始まったのでしょう。殺人事件に対して、どの程度の専門家がいたのかはわかりませんが、当時も、殺人は放置しておけない大きな問題でした。
 犯人がすぐに見つかればよいのですが、ここでは迷宮入り事件について、述べられています。

 何度も書きますが、「殺してはならない」は、十戒の六番目の戒めです。
 殺人は、なにより、神が厭われるものなのです。殺人または過失死について、聖書が何度も記しているのを見ても(出エジプト記21章12節~14章、18章~23節、28節~31節。民数記35章12節〜34節)、それが神と隣人への最大の罪であるのがわかります。


☆☆☆☆

 あなたの長老たちとさばきつかさたちは出て行って、刺し殺された者にもっとも近い町がわかれば、その町の長老たちは、まだ、使役されず、まだくびきを負って引いたことのない群れのうちの雌の子牛を取り、(申命記21章3節)

 その町の長老たちは、その雌の子牛を、まだ耕されたことも種を蒔かれたこともない、いつも水の流れている谷へ連れて下り、その谷で雌の子牛の首を折りなさい。(4節)

 そこでレビ族の祭司たちが進み出なさい。彼らは、あなたの神、主が、ご自身に仕えさせ、また主の御名によって祝福を宣言するために選ばれた者であり、どんな争いも、どんな暴行事件も、彼らの判決によるからである。(5節)

 刺し殺された町にもっとも近い、その町の長老たちはみな、谷で首を折られた雌の子牛の上で手を洗い、(6節)

 証言して言いなさい。「私たちの手は、この血を流さず、私たちの目はそれを見なかった。」(7節)


 迷宮入りの殺人事件の責任は、とりあえず、倒れていた死体から一番近い町が負うのです。
 それで、まだくびきを負ったことのない雌の子牛を、人が踏み入って耕した事のない土地の、きれいな流れの谷に連れて行って、首を折りなさい。つまり、犠牲として殺すのです。
 雌の子牛は、貴重なものです。殺人事件のさばきを行なう祭司の前で、その貴重な子牛を犠牲にして、自分たちの潔白さを証明し、血の汚れを落とすのです。

 じっさいには、もう少し遠いほかの町に犯人がいる可能性もあるでしょうが、だれが殺したかではなく、だれが神さまに対して、事件の責任を取るかに力点があるのです。

 民数記35章の、「のがれの町」の記述に続く、次のことばは、その答えであると思います。

「あなたがたは、自分たちのいる土地を汚してはならない。血は土地を汚すからである。土地に流された血についてその土地を贖うには、その土地に血を流させた者の血による以外はない。(民数記35章33節)

 あなたがたは、自分の住む土地、すなわち、わたし自身がそのうちに宿る土地を汚してはならない。主であるわたしが、イスラエル人の真ん中に宿るからである。(34節)


 土地に流された血についてその土地を贖うには、その土地に血を流させた者の血による以外はない。のですが、これを、子牛で代えることができるのは、ある意味で、神の叡智だと思います。もし、どうしても、犯人の血が必要ということになれば、むりやり無実の人を犯人に仕立てるおそれがあります。


☆☆☆☆

 
 人権活動で冤罪事件の支援に関わっている人から、次のような意見を聞いたことがあります。
「たとえ、百人の真犯人を逃がしても、一人の冤罪者を出してはいけない」

 その時、私は、これは難しい問題で、意見の分かれるところだと思ったのです。現実には、冤罪事件と、冤罪だと申し立てている事件の境目には、グレイゾーンもあるように思えたからです。
 ですが、いまは言えます。
 もし、すべての人が神を信じ、恐れているなら、心から神の目を恐れているなら、その意見も理にかなっている。なぜなら、真犯人は、人からうまく隠れおおせても、けっして、神から逃れることはできないからです。そのままでは、彼(彼女)は、生涯、いえ、死んだ後も、永遠に平安がないからです。

 今は、だれも雌の子牛の首を折らないのです。





posted by さとうまさこ at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月12日

Coffee Break314 愛の行く末(申命記21章10節~17節)




 殺人事件のつぎは、女性の問題です。女性に関するおきても、さまざまな形で聖書に取り上げられています。神様は人間を男と女とに作られたのであり(創世記1章27節)、両者の間には、まるで別人種かと見まがうような違いがあっても、一対でなければ生きていけないようにされているのです。

 あなたが敵との戦いに出て、あなたの神、主が、その敵をあなたの手に渡し、あなたがそれを捕虜として捕らえていくとき、(申命記21章10節)

 その捕虜の中に、姿の美しい女性を見、その女を恋い慕い、妻にめとろうとするなら(11節)

 その女をあなたの家に連れて行きなさい。女は髪をそり、爪を切り、(12節)

 捕虜の着物を脱ぎ、あなたの家にいて、自分の父と母のため、一ヶ月の間、泣き悲しまなければならない。その後、あなたは彼女のところに入り、彼女の夫となることができる。彼女はあなたの妻となる。(13節)


注:捕虜(ほりょ, Prisoner of war, POW)とは、武力紛争(戦争、内戦等)において敵の権力内に陥った者をさす。近代以前では、民間人を捕らえた場合でも捕虜と呼んだが、現在では捕虜待遇を与えられるための資格要件は戦時国際法[1]により「紛争当事国の軍隊の構成員及びその軍隊の一部をなす民兵隊又は義勇隊の構成員[2]」等定められている。
(ウィキぺディア・フリー百科事典より)


 小説家なら、この状況の中から、「戦場の恋」の話を書き上げるかもしれません。捕虜になっている女性と、捕虜を引いていく勝者の兵士。女性は捕虜の着物を脱ぎ、髪をそり、爪を切らなければならない──多分、汚れてみじめな様子なのでしょう。引いていく男も戦場を駆け回った後ですから、衣服は乱れ、頭にほこりをかぶっているかもしれません。それでも、恋が生まれるのが男女というものでしょう。

 でわかるように、この女性は、女性兵士ではなく、一般人です。しかし、申命記20章14節にあったように、イスラエルにかぎらず戦いに勝った側は、女や子どもや家畜を戦利品と見なしたのです。
 ここで、女性が、「自分の父と母のために一ヶ月歎き悲しまなければならない」とあるのは、老いた両親は、価値がないとして殺されたのか、あるいは、戦火の中に置き去りにされたのかもしれません。
 それでも、勝者側の男に見初められ、妻に迎え入れられたのは幸運だというべきでしょうか。

 この箇所には、まだ続きがあります。

 もしあなたが彼女を好まなくなったなら、彼女を自由の身にしなさい。決して金で売ってはならない。あなたはすでに彼女を意のままにしたのであるから、彼女を奴隷として扱ってはならない。(14節)

 結婚に至った幸運な恋も、「死が二人を別つまで」まっとうされてこそ「ハッピィ・エンディング」です。二人の間が冷えた時、それも、男が女を好まなくなった時、女を放す自由が男にある? このあたりも、今の感覚では理解できません。
 古代は、場所を問わず、民族を問わず、勝者と敗者の落差がハッキリしている社会です。また、男と女の立場の差も歴然としていました。


☆☆☆☆


 ある人がふたりの妻を持ち、ひとりは愛され、ひとりは嫌われており、愛されているものも、きらわれている者も、その人に男の子を産み、長子はきらわれている妻の子である場合、(21章15節)

 その人が自分の息子たちに財産を譲る日に、長子である、そのきらわれている者の子をさしおいて、愛されている者の子を長子として扱うことはできない。(16節)

 きらわれている妻の子を長子として認め、自分の全財産の中から、二倍の分け前を彼に与えなければならない。彼は、その人の力の初めであるから、長子の権利は、彼のものである。(17節)



 同じ一族とはいえ、自分の生んだ息子をかわいいと思うのが人情です。より愛されている女は、夫に自分の息子を特別扱いさせようとするのです。それゆえ、モーセは、好悪の感情ではなく、長幼の順序を守るように戒めているのです。

 複数の妻の例は、聖書のいたるところに見ることができます。アブラハムの妻サラと奴隷女ハガル、ヤコブの二人の妻レアとラケルと彼女たちの奴隷女。サムエルの母ハンナは、エルカナと言う男の妻ですが、エルカナにはもう一人の妻ベニンナがいました。
 ダビデには、名前がわかっているだけでも八人の妻──ミカル、アビガイル、アヒノアム、マアカ、ハギト、アビタル、エグラ、パト・シェバ──がいます。ソロモンの妻と妾は千人と伝えられています。

 もとより、神の御心は最初にアダムとエバを造られたように、一夫一婦制です。しかし、すでに、一夫多妻が当たり前の社会で、おきてを厳しくしても守るのは困難です。
 ここにあるようなおきては、神が人間社会に精一杯譲歩しておられる箇所です。
 同様なおきては、すでに、出エジプト記21章10節にあります。

☆☆☆☆

 人間の歴史を通じて、一夫多妻は事実上容認されてきました。その結果、家族の複雑さから騒動が起こるのを防ぐために、あらゆる国や時代に、さまざまなルールが取り決められていたようです。
 日本の平安時代の上流階級では、母親の血筋を重んじました。母が天皇の皇女、上級貴族など高貴の出身であれば、その子は高貴な地位を受け継ぐのです。大名家でも、正妻(第一夫人)の子どもから、父親の地位や家督を受け継ぐような「家法」がありました。

 また、戦前は、嫡出子(正妻の子)、庶子(妾の子)、私生児(父親の認知のない子)と、子どもの立場を戸籍で区別しました。これは、正妻の社会的立場と地位を守る意味があったかもしれません。しかし、生まれてくる子どもが庶子や私生児の場合、本人の責任でもないことのために大変なハンディになったのです。

 本来、愛し合うように作られている男と女の関係も、やはり、罪にゆがめられ、悲しみや苦労の原因にもなってきたようです。





posted by さとうまさこ at 00:03| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月13日

Coffee Break315 親に逆らう子(申命記21章18節~21節) 




 かたくなで、逆らう子がおり、父のいうことも、母の言うことも聞かず、父母に懲らしめられても、父母に従わないときは、(申命記21章18節)

 その父と母は、彼を捕らえ、町の門にいる町の長老たちのところへその子を連れて行き、(19節)

 町の長老たちに、「私たちのこの息子は、かたくなで、逆らいます。私たちの言うことを聞きません。放蕩で、大酒のみです」と言いなさい。(20節)

 町の人はみな、彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。あなたがたのうちから悪を取り除きなさい。イスラエルがみな、聞いて恐れるために。(21節)


 殺人犯は──とくに悪質な殺人犯は、死刑にすべきだと言う人は、今でも、案外多いでしょう。「目には目、歯には歯」は、時代を超えて、人の共感を呼ぶのです。
 けれども、いまどきは、親に逆らったからって、なぜ殺されなければいけないのか、と思う人も多いのではないでしょうか。

 親子だもの、喧嘩くらいするよ。子どもがちょっと身勝手だからといって、石打になるの。子どもを他人に訴え出て殺すなんて、そんな親はありなの。神様がそんな命令を出していいんですか。

 これは、私の知人がじっさいに言ったことばです。


☆☆☆☆
 
 親を大切にしようと言う倫理は、古今東西どのような社会にもあったのではないでしょうか。
 江戸時代の日本では、朱子学が幕府公認の学問でした。武士社会の秩序を守るのに、「親に孝、君に忠」の理念は、非常に尊重されたのです。武家の考え方は庶民にも及んで、上のものへの尊敬と従順、親への孝養が、社会を支える倫理でした。

 けれども、聖書の「父と母を敬え」は、たんなる社会秩序維持の倫理以上のものです。
 十戒は、全部、神のご命令なのです。神の目からご覧になって厭わしいことをしないよう、望ましいことをするよう戒められているのです。

 「父と母を敬え」が対人に関する戒めの、最初にあるのに注意したいと思います。
 神が私たちにくださった一番大きなもの、それは、私たちひとりひとりのいのちです。楽園を追放されて神の守りの外に生きる私たちは、苦しいことや悲しいこともありますが、同時に、それでも、生きていればこそ、喜びがあり、笑いがあり、楽しみがあります。
  
 私たちが生きているのは、神様がいのちをくださったからです。私たちは神様が創造してくださったいのちを、父と母を介していただいているのです。
 親が子どもをつくり、慈しんで育てるのは、本能のように見えますが、そのような本能自体、神様が親にお与えになったものなのです。


 かたくなで、逆らう子がおり、父の言うことも、母の言うことも聞かず、父母に懲らしめられても、父母に従わないときは・・・と、モーセが言う子どもは、親に逆らっているのではなく、いのちを下さった神に逆らっているのです。
 そのような子どもが石打にあうのは、神の民イスラエルがみな恐れるためなのです。

 
 私たちにはたくさんの不可解があります。けれども、自分が生きていること、自分のいのちはどこから来たのだろうかという疑問ほど、大きな不可解はないでしょう。
 あなたのお父さんとお母さんが別の人と結婚していたら、あなたは存在しなかったはずなのです。まさに、父親と母親の背後に神様が働いておられたのです。

 そのことに気づく時、「父と母を敬え」は、実感として迫ってくるのではないでしょうか。





posted by さとうまさこ at 00:27| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月14日

Coffee Break316 実生活における諸問題(1)(申命記22章)




 申命記22章は、とくに、当時のイスラエル人の実際の生活に根ざした具体的なおきてです。社会状況、文化状況がまるで違う現代社会で暮らす私たちには、あまり意味をなさない面も多いのです。 聖書は最初、書かれた時代状況の中で、そこに生きていた人たちに当てて書かれたと言うことを、思い起こす必要があります。(参照、このブログのリンク・佐々木先生のサイト・聖書を読むぞー、聖書の読み方Y、D、正しい理解の助け、3、文化背景を考えて読む)

 箇条書きに出してみましょう。

@牛や羊が迷っているのを見つけたら、持ち主のところに返してやらなければならない。彼のろばや着物、なくしたものについても同様にしなければならない。(申命記22章1節〜3節)

今の日本で、牛や羊が迷っていることはまずないけれど、意味はわかりますね。

Aろばや牛が倒れて、持ち主が助け起こすのに難儀していたら、いっしょに助け起こしてやらなければならない。(4節)

たとえば、車が故障して立ち往生していたら、何かお手伝いするのでしょうか。でも、今では、ケイタイで修理店を呼び出して、必要ならレッカー車が来て、素人が手伝うことはあまりなさそうです。

B女は男の衣装を身につけてはならない。男は女の着物を着てはならない。(5節)

これが、なんらの性的倒錯の禁止を意味しているのだとしても、今の時代は、このようなことは個人の趣味の問題だと、考えられてしまうのではないでしょうか。

C木の上に鳥の巣を見つけ、ひなか卵を母鳥が抱いている場合、母鳥とひなの両方をいっしょにとってはならない。必ず母鳥を去らせて、子をとらなければならない。(6節7節)

このような行動は、現代ではバツですね。野鳥を獲ったりしてはいけません!

D新しい家を立てるときは、屋上に手すりをつけなさい。万一そこからだれかが落ちても、あなたの家は血の罪を負うことがないために。(8節)

井戸を掘ったら、ふたをして置くようにというのもありますね。今では、危ない場所に手すりや柵をつけるのは常識ですが、三千五百年前に、事故に対するこのような責任感覚があるのを、私は進んでいると思ったのですが。(出エジプト記21章33節34節参照)

Eぶどう畑に二種類の種を蒔いてはならない。(9節)

F牛とろばを組にして耕してはならない。(10節)

たとえて言えば、体格や体力や脚力が違う同士の二人三脚みたいなものでしょうか。

G羊毛と亜麻糸を混ぜて織った着物を着てはならない。(11節)

これも今の時代には、意味がないのかもしれません。綿と化繊の混紡、羊毛と綿の混紡などいろいろあるようです。
 
H身にまとう着物の四隅に、ふさを作らなければならない。(12節)

これは律法を表していて、ふさを見ることで、律法を心に刻む意味があったそうです。
しかし、初めは良い目的のあることでも、形式化して行きます。
イエス様は、律法学者やパリサイ人のことを皮肉っておっしゃっています。

「彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札の幅を広くしたり、衣の房を長くしたりするのもそうです。(マタイの福音書23章5節)
また、宴会の上座や会堂の上席が大好きで、(6節)
広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです。(7節)


I妻をめとったあと、初夜に処女のしるしがなかったと訴える場合。(13節14節)

「処女のしるし」といった言葉自体、あまり聞かなくなりました。

J処女のしるしがなかったと、訴えられた娘の親の対応。(15節~21節)

現在、結婚式のあとに初夜を持つカップルは、どれくらいいるのでしょう。同棲が先で、その次が妊娠で、いわゆる「できちゃった」婚も珍しくなくなりました。もし男女が初夜のあと、別れ話が出ても、今では二人だけの問題、せいぜい弁護士と三人の問題かもしれません。

K夫のある女と寝ている男が見つかった場合。婚約中の処女と寝た場合(22節)
男女とも石打の刑。

十戒の七番めの戒め「姦淫してはならない」で、述べたように、相手の女性に夫や婚約者がいる場合だけ、男にとって姦淫になりました。自分の妻や婚約者に対して、姦淫ではなかったのです。

L婚約中の女がほかの男と、町の中で寝た場合。(23節24節)
ほかの男に強引にレイプされたとしても、それが町の中なら和姦(合意)だったと見られました。大声で助けを呼べば、誰かに聞こえたはずだと言うのです。婚約者がいる場合は男も女も死刑。

M婚約中の女が野で強姦された場合。(25節〜27節)
野原では、大声を出しても聞こえませんから、レイプされたと判断され、女は無罪、男は死刑。

N婚約していない処女を捕らえていっしょに寝た場合。(28節29節)
男は女性の父親に銀五十シュケル払い、この女性と結婚しなければならない。さらに、この男はこの女性をはずかしめたのだから、一生彼女を離縁できないと書かれています。

O父の妻を娶ってはならない。(30節)
これは、父親に複数の妻がいた場合のことです。もちろん、同時に二人ではなくて、彼の母は死んでいて、後妻に来た女のことかもしれません。さらに、娶るというのですから、父親は死んで、父の妻はやもめの場合でしょう。





posted by さとうまさこ at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月15日

Coffee Break317 実生活における諸問題(2)(申命記23章)




 申命記23章は、イスラエルの民の日常的な祭儀との関わりについて、多くの字数を費やしています。

@こうがんのつぶれた者、陰茎を切り取られた者は、主の集会に加わってはならない。(申命記23章1節)

 主の集会とは、申命記16章に書かれている「主の例祭」(Coffee Break303)および、会衆が一同に集まる礼拝のことです。これに出ることができないのは、イスラエル人の資格を外されているのと同じ、村八分にあっているのと同じ深刻な状況です。
 こうがんのつぶれた者、陰茎が切り取られた者とは、去勢された人のことです。その大きな理由は宦官を作るためでした。異教の習慣ですが、そのような者がイスラエルに入ってくることもあったのでしょう。
 また、レビ記22章24節には陰茎を切り取られた動物、こうがんのつぶれた動物をささげ物にしてはならないとあります。雄の多くを去勢するのは、牧畜民の間でふつうのことでしたが、去勢後の動物をささげてはいけないと戒めているのです。

A不倫の子は主の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、主の集会に加わることはできない。(2節)

 姦淫の場合は、見つかれば石打だったのです。不倫の子とは姦淫ではなく、レビ記18章の、「性に関する禁忌」(Coffee Break169参照)を犯した結果、生まれた子どもでしょう。

Bアモン人とモアブ人は主の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、主の集会に加わることはできない。(3節)

 アモン人とモアブ人が、イスラエルがカナンに入るため上ってきたときに、霊能者バラムを雇ってイスラエルを呪わせたことを咎められているのです。
 また、両者とも、そのルーツがアブラハムの甥ロトなのですが、ロトとその娘の間に生まれた子どもがモアブ人とアモン人であると言うことで、卑しめられているのです。

 しかし、聖書のこのような「戒め」は原則的なものです。モアブ人とイスラエル人の結婚も禁止されています。ところが、モアブの女ルツがイスラエル人のボアズと結婚し、オベデという息子を生みました。オベデの息子がエッサイ、エッサイの末息子がダビデでした。モアブの女ルツは、ダビデ王の曾祖母になったのです。そのような話を、わざわざ一つの書物「ルツ記」として、記録しているのも聖書の神の大きさです。

Cエドム人を忌みきらってはならない。あなたの親類だからである。エジプト人を忌みきらってはならない。あなたはその国で在留異国人であったからである。(7節)

 エドムは、ヤコブ(イスラエル)の双子の兄エサウの建てた国です。本来エサウが受け継ぐべきアブラハムの家の祝福をヤコブが強引に奪い取ってしまいました。けれども、エサウはヤコブを許したのです。イスラエルは、この過去を忘れていないのでしょう。
 エジプトは、カナンの飢饉に際して、ヤコブ一族七十人ほどで、移住したイスラエル民族が六十万人にも増えた場所です。エジプトがイスラエルに対して果たした役割を忘れてはいけないということです。

Dあなたは敵に対して出陣しているときには、すべての汚れたことから身を守らなければならない。(9節)

 ここでは、人間の生理現象による汚れへの対処が書かれています。一つは、男子の夢精。もう一つは、排泄についてです。戦場の陣営こそは、神に共にいていただかなければならない場所です。その神の目からご覧になって不潔なことや不浄なことを、避けようとしています。
排泄の場所を決めるだけでなく、小さなくわをもって穴を掘り、そこへ排泄した後は、上に土を被せるように指示しています。

E主人のもとからあなたのところに逃げてきた奴隷を、その主人に引き渡してはならない。(15節)

 逃亡奴隷をかくまってやりなさいと言うのです。聖書の神は、弱者に暖かい神です。

Fイスラエルの女子は神殿娼婦になってはならない。イスラエルの男子は神殿男娼になってはならない。(17節)

 バアルやモレクなど異教の神殿には、神殿娼婦、神殿男娼がいたとのことです。そのような仕事に着くことを禁止しているのです。
 娼婦(遊女)自体は、イスラエルにもいて、ヤコブの息子ユダが遊女を装った嫁のタマルに誘惑されて寝た話が創世記に出ています。

Gどんな誓願のためでも、遊女のもうけや犬のかせぎをあなたの神、主の家にもって行ってはならない。(18節)
 神様に何か請願がある場合、請願のためにささげるものは、清いものであるべきだと言っています。「犬」とは神殿男娼の蔑称でした。売春でのかせぎをささげてはならないとの戒めです。

H金銭の利息であれ、食物の利息であれ、すべて利息をつけて貸すことのできるものの利息を、あなたの同胞から取ってはならない。(19節)   

Iあなたの神、主に誓願をするとき、それを遅れずに果たさなければならない。あなたの神、主は、必ずあなたにそれを求め、あなたの罪とされるからである。(21節)

 子どものいなかったサムエルの母ハンナが、シロの主の家で立てた誓願は、大変感動的なものでした。彼女は、「もし男の子を授けてくださったなら、その子の一生を主におささげします」と誓い、事実、息子サムエルが授かると誓いを果たして幼いサムエルを祭司のもとに送り、神殿で仕えさせました。
 サムエルはイスラエルの歴史の中でも、特筆すべき偉大な預言者となり、イスラエル初代の王サウルと、二代目の王ダビデを、神の言葉を受けて油をそそいだのでした。
   
J隣人のぶどう畑に入ったとき、あなたは思う存分、満ち足りるまでぶどうを食べてもよいが、あなたのかごに入れてはならない。(24節)

 畑に生っている物で腹を満たすのは、他人の畑のものでも許されるというのは、ありがたいおきてですね。今のように、いたるところにコンビニや自販機がない時代ですから、喉が渇いたときにぶどうを思い切り食べることができるのは助かります。
 同様の趣旨で、25節には、他人の麦畑でも、その穂を摘んで食べてよいというおきてが出ています。
 新約聖書には、イエス様が麦畑を歩いておられた時、弟子たちが麦を摘んで食べ始め、それを、パリサイ人が見咎めたエピソードが出ています。これはもちろん、パリサイ人は、イエス様の弟子が、他人の麦畑の麦を摘んだことではなく、安息日に「摘んだ」ことを咎めたのです。(マルコの福音書2章23節~25節)





posted by さとうまさこ at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月16日

Coffee Break318 女性の立場(申命記24章1節~5節)


 

 人が妻をめとり夫となり、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなり、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ、

 彼女が家を出、行って、ほかの人の妻となり、

 次の夫が彼女をきらい、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせて場合、あるいはまた、彼女を妻としてめとったあとの夫が死んだ場合、

 彼女を出した最初の夫は、その女を再び自分の妻としてめとることはできない。彼女は汚されているからである。これは主の前に忌みきらうべきことである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に、罪をもたらしてはならない。(申命記24章1節~4節)



 この時代の女性に関するおきての中で、気がつくことがあります。

 すべて男性側から見た関係だということです。離婚は男性側から離婚状を出すことで成立します。妻の「恥ずべきこと」が理由ですが、それが何なのかは明確ではありません。夫の「恥ずべきこと」を妻が嫌がって離婚できるのかどうか・・・。その場合でも、最終的には夫の意思で離婚が成立したことでしょう。
 平凡な言葉ですが、古代イスラエルは、「現代の」私たちから見れば、「男社会」です。

 たとえば、処女で婚約者のいない女と寝た場合、男は彼女の父に銀50シュケルを払い、結婚しなければならない(22章28節29節)などは、むしろか弱い女性を守るおきてにも見えます。
 しかし、今の時代の女性なら、「私にも選ぶ権利がある。あんな人はいや」と、結婚を拒否するかもしれません。
  

☆☆☆☆

 男女問題が、男性の立場からしか述べられていないのは、女性に限らず、男性読者も気がつくと思います。そして、聖書は、男中心の思想であると、ひところのフェミニストのように指弾しそうになるのです。

 たしかに、かつてのフェミニズム運動は意味があったのです。
 というのも、女性が受身的立場であるのは、社会が男性中心の生産体制だったことが大きかったからです。

 古代の「男中心社会」の大きな要因は、男の腕力と体力がなければ生産活動ができなかったことです。農作業ひとつでも、いまのように便利な機械や重機はありません。家を建てるのも天幕を張るのも、井戸を掘るのも、家畜を追うのも腕力仕事です。しかも、しばしば敵と武器を振りかざして戦わなければなりません。
 男が経済力を担い、女はそのカサの下で暮らすことになるのです。経済力のない女は、どうしても弱い立場です。二番目三番目の妻は嫌だと思っても、ひとりで暮せなければ結婚することになります。

 もちろん、女性が男の腕力と経済力に守られて、楽に暮せていたのではありません。

 女性は、女性で、女でもできる仕事はどんな肉体労働でも従事したのです。
 イサクの妻になったリベカが、花嫁探しに来たアブラハムのしもべと会ったのは、井戸に水を汲みに来たときです(水汲みは重労働でした)。
 ヤコブが最愛の妻ラケルと出あったとき、ラケルは羊の群れを率いていました。
 モーセの妻チッポラはミディアン人の祭司の娘ですが、モーセが初めて彼女と会ったとき、やはり、羊の世話をしていたのです。家にしもべがいるような彼女たちでさえ、「楽々お嬢様」ではないのです。

 農作業もできるかぎりのことは、女性の分担でした。刈りいれ、脱穀、粉挽きやパン作り。織物は、ほとんどの社会で女の仕事でした。その上、女性には妊娠、出産、子育て(これは今よりはるかに、家族全体で担われていました)がありました。
 それでも、女が一族の上に立つのは、例外を除いては、難しい時代でした。

 フェミニストたちが要求した職場での男女機会均等などは、今のような機械文明、高度なIP社会で、重要な仕事の多くが、腕力の劣る女性にもできるようになったことが大きいのです。


☆☆☆☆
 
 神の御心は、最初にアダムとエバをおつくりになったときの様子でわかるように、もともと一夫一婦制が原則でした。
 ただ、すでに一夫多妻制が当たり前となって広く認められ、社会の構造も一夫多妻制の上に出来上がっていました。そこで、神は、モーセの時代の混乱した社会の中に、一夫一婦制を厳しく押し付けるのはよろしくないと判断されたのでしょう。神が私たちの現実に、「譲歩された」というのは、そのような意味です。(Coffee Break314)

 ほかに、もっと重要で、もっとしっかりと守らなければならない原則が、いくつも言い渡されている中のことですから、なおさらだったのです。

☆☆☆☆

 さいわい、神様の教えの多くが理解され、守られるような社会になるにつれて、一夫一婦の原則も徐々に理解されるようになっていきました。
 イエス様の時代には、ユダヤ人の中では一夫一婦制が一般的になっていたようです。

 現代のように、個人の人権が尊ばれ、男女同権が当然とされる時代の感覚で、数千年前の異文化の中での取り組みを、頭ごなしに批判するのは賢明ではないのです。





posted by さとうまさこ at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月17日

Coffee Break319 実生活における諸問題(3)(申命記24章)




 ふたたび、実生活における諸問題に戻りましょう。

@人が新妻をめとったときは、その者をいくさに出してはならない。これに何の義務も負わせてはならない。彼は一年の間、自分の家のために自由の身となって、めとった妻を喜ばせなければならない。(5節)

 これは、申命記20章7節の兵役免除と同じです。新婚一年は、現在のイスラエルでも兵役免除だとか。至極当然でしょうか。思いやりのある政策でしょうか。

Aひき臼、あるいは、その上石を質に取ってはならない。いのちそのものを質に取ることになるからである。(6節)

 子ども時代、ご近所の古い家に、石の碾き臼がありました。石の臼にふたのような上石がはまるようになっていて、木の取っ手がついていてぐるぐる回すと、米がつぶれて粉になるのです。原理は、食卓で使う「ゴマすり器」みたいなものです。上石がなければ、ただの石のかたまりですから、役に立ちません。そのような大切なものを「質」(お金やものを貸す担保)にしてはいけないと戒めているのです。

Bあなたの同族イスラエル人のうちのひとりをさらって行き、これを奴隷として扱い、あるいは売り飛ばす者が見つかったなら、その人さらいは死ななければならない。あなたがたのうちからこの悪を除き去りなさい。(7節)

 誘拐は死罪であると、十戒の細則にも記されています。(出エジプト記21章16節)
 ただし、この時代は同族のイスラエル人を誘拐することを禁じています。人種を超えると、誘拐などはありふれたことだったのでしょうか。戦争で負けた側は、そっくり集団で捕囚に連れ去られたりしたのです。
 現代ではもちろん、どのような国の人であっても、敵国人であっても「誘拐」や「拉致」はあってはならないことです。十戒で戒めをくださった神様の救いは、イエス様の十字架以後、すでに全人類が対象になっているのです。

Cツアラアトの患部には気をつけて、すべてレビ人の祭司が教えるとおりに良く守り行なわなければならない。(8節)

 ツアラアトについては、レビ記(12章、13章、14章)にも、多くのページが割かれています。当時も、さまざまな病気があったはずですが、とりわけ皮膚に現れるツアラアトが恐れられたのです。これは、一時「ライ病」と誤訳され、ライの方を苦しめました。しかし、聖書をきちんと読むと、ツアラアトは、皮膚だけではなく、衣類やかばんなどの持ち物、家の中、家具や敷物、すべてに現れる異変です。当時は、この「カビのようなもの」と「皮膚病」全般をいっしょにし、その原因にも神罰のような意味づけをしたため、隔離される病気となりました。
 つぎの9節では、あなたがたがエジプトから出てきたとき、その道中で、あなたの神、主がミリヤムにされたことを思い出しなさい。(民数記12章参照)とあります。
 いずれにしても、一過性の皮膚病かツアラアトかは、祭司が見て判断しました。家の中や衣服や敷物などについても同じで、判断と処置は祭司がしたのです。祭司の治療で清くなった(治った)人はたくさんいましたが、治らない症例があり、恐れられたのでしょう。

 イエス様は、新約当時も、社会から蔑視され、置き去りにされていたツアラアトの者に触れて癒されました。


D隣人になにかを貸すときに、担保を取るため、その家に入ってはならない。(10節)

 このような規則の意味は、豊かな社会では想像がつかないですね。何かを貸して欲しいと頼んで、日用品なら貸してくれない人のほうが少ないでしょう。米を何合か借りたら、入ってきて、余分にあった石鹸をもって行くなんて話は考えられません。でも、極度に貧しい社会では、貸し借りに厳しい人がいたのでしょう。


Eもしその人が貧しい人である場合は、その担保を取ったままで寝てはならない。(12節)
 日没のころには、その担保を必ず返さなければならない。彼は自分の着物を着て寝るなら、あなたを祝福するであろう。また、それはあなたの神、主の前に、あなたの義となる。(13節)
 
F貧しく困窮している雇い人は、あなたの同胞でも、あなたの地で、あなたの町囲みのうちにいる在留異国人でも、しいたげてはならない。(14節)
 彼は貧しく、それに期待をかけているから、彼の賃金は、その日のうちに、日没前に支払わなければならない。彼があなたのことを主に訴え、あなたがとがめを受けることがないように。(15節)


G父親が子どものために殺されてはならない。子どもが父親のために殺されてはならない。人が殺されるのは、自分の罪のためでなければならない。(16節)
 これは、今では当然ですね。当時は、このような戒めも必要だったのでしょう。これはいわゆる連座の刑罰だけでなく、過剰報復を防止するためだったかもしれません。

H在留異国人や、みなしごの権利を侵してはならない。やもめの着物を質に取ってはならない。(17節)

 今とは違って、男性を中心とした家族に属していて初めて生活ができた時代、やもめ暮らしは、厳しいものでした。親のいないみなしごはもっと大変だったでしょう。そのような弱者を虐げたり、着物を取り上げたりするなんて、日本語で言う「血も涙もない」行為。神様が戒めておられるのは当然です。

I思い起こしなさい。あなたがエジプトで奴隷であったことを。そしてあなたの神、主が、そこからあなたを贖い出されたことを。だから、私はあなたにこのことをせよと命じる。(18節)

 人はだれでも、自分の過去を飾りたいものです。自分たちが奴隷だったなんて思い出したくありません。少し生活が良くなると、自分がつらかった時のことを忘れて人を見下げたりするのです。神はこのような「身の程知らず」を何よりきらわれます。

Jあなたが畑で穀物の刈り入れをして、束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに行ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。(19節)

 置き忘れた束で、腹を満たすことができる人がたくさんいた時代の人情ですね。それを人の気持ち任せにしないで、神の戒めとされるのがイスラエルの神様です。もちろん、そういう「忘れ物」は、神様がいつか、祝福で返してくださるのです。

Kあなたがオリーブの実を打ち落とすときは、後になってまた枝を打ってはならない。それは在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。(20節)

 農産物はサラリーマンの給料のようにきちんと精算できませんね。収穫は、一番良い時期に大々的に行なうのでしょうが、必ず、そのあとから熟すものがあります。それをもう一度取りに行ってはならないというのは、「落穂拾い」と共通する考えかたです。

Lあなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったことを思い出しなさい。だから、私はあなたにこのことをせよと命じる。(22節)

 神、主は、弱者に対する配慮を命じた後、重ねて、「あなたがたもエジプトで奴隷であった」と、思い出させています。これは、自分たちの親は奴隷であったとは、ぜったいに、思っていない現代の私たちには、どういう意味があるのでしょう。

 自分が罪人(つみびと)であることを、つい忘れて、人を咎める「身の程知らず」に対し、神様が注意を喚起されているのかなと、自分に当てはめてみました。







posted by さとうまさこ at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月18日

Coffee Break320 レビラート婚(申命記25章5節6節)

 


 兄弟がいっしょに住んでいて、そのうちのひとりが死に、彼に子がない場合、死んだものの妻は家族以外のよそ者に嫁いではならない。その夫の兄弟がその女のところに、入り、これをめとって妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。(申命記25章5節)

 このような聖書の記述は、かなり興味本位に取り上げられている一面があります。
 未亡人になった若い妻が、夫の弟と結婚するこの制度をレビラート婚と言いますが、これは、現代の自由な婚姻関係から見ると、不自然に見えるからでしょう。

 この結婚の背景には、やはり「家」とそれに付随する財産の問題があります。やもめになったときに、女性が夫の財産を継いで家を運営することはできたかもしれませんが、古代イスラエルでは、土地や財産は夫の家系のものなのです。

 聖書を読むとわかるように、イスラエル人にとって、土地は神からイスラエルの各部族に「相続地」として与えられたものです。部族、氏族に与えられた土地は、人間の都合でほかの者に移動してはいけないのです。イスラエル人以外に売るのは論外ですが、イスラエル人同士でも、部族に与えられた土地は部族以外の者に売ったり譲ったりできません。
 家に割り振られた土地も、ほかの者に売ってはいけないのです。だからこそ、「買戻しの権利」が決められていたのです。土地を売るのは耕作と収穫の権利を売るのであって、土地そのものは、ヨベルの年には、もとの持ち主に返さなければなりませんでした。それが、神の律法だったのです。


 ☆☆☆☆
 
 民数記27章で、マナセの一族のツェロフハデの家の娘たちが、モーセと祭司エリアザルに、自分たちの家に相続地がないのは不公平だと申し立てています。相続地は各家の男にあてがわれたものだったのですが、彼女たちには父親がすでに死んでいない上、男兄弟がいなかったので、割り当てから落ちこぼれてしまったのです。申し立ては認められ、彼女たちも相続地をもらいました。(Coffee Break242女性の相続参照)
 すると、今度は同じマナセ族のほかの家のものが意義を申し立てたのです。というのも、娘に土地を与えて、娘がマナセ族以外の男と結婚したら、マナセ族の土地が、ほかの部族に移ってしまう。それでは、彼らの父祖(マナセ)の相続地のいくらかは減ってしまうというわけです。

 この申し立ても認められました。モーセに下った主の命は次のようなものでした。
「ヨセフ部族の訴えはもっともである。ツェロフハデの娘たちは、その心にかなう人にとついでよい。ただし、彼女たちの父の部族に属する氏族にとつがなければならない。」(民数記36章5節6節) 

 ☆☆☆☆


 土地は神からその家に与えられたもので、それも男性が継ぐとの考え方でした。嫁いで子どもができる前にやもめになった女性は、婚家にいても、夫の財産を受け継ぐことはできないのです。子供があれば良いのですが、だれの子供でもよいわけではありません。夫の血筋であることが重要なのです。そこで、夫の弟が兄の妻の床に入り、子どもを作るのです。

 このようなことは日本の昔の農家でもあったようです。ただ、日本の場合は、儒教的な家制度を守るためですから、家や土地はそっくり弟が継いで、そこに兄嫁だった女性が居直る形です。けれども、イスラエルのレビラート婚では、兄の財産はあくまで兄のものなのです。兄嫁に男の子が産まれると、その子が兄の財産を継ぐことになるのです。じっさいには、どの程度厳格に相続したのかはわかりませんが、兄の名前を残していくというのが、日本の場合と違うのです。


☆☆☆☆

 レビラート婚の例として、ユダとその嫁タマルの話が取り上げられることが、よくあります。ユダの長子エルはタマルと結婚するのですが、子どもができる前に死んでしまいました。ユダは、その時、次男のオナンに「兄嫁のところに入って義弟としての務めを果たしなさい」と言うのです。オナンは父の命令なので兄嫁の床に入ったのですが、その子が自分の子どもにならないと知っていたので、じっさいは交わらなかったのです。
 それは、主を怒らせたので主は彼をも殺した。(創世記38章10節)のでした。
 
 この話は、ヤコブの時代(創世記)のものです。まだ、イスラエルがヤコブを中心に大家族としてあった時代で、カナンの相続地が絡んでいません。
 弟が、未亡人の兄嫁に子どもを与えるこのような習慣は、イスラエル社会、また、中東に古くからあったのかもしれません。

 今のように、ネットによる婚活もない時代、また福祉もまったくない時代、しかも、女性が独立して生計を立てることば不可能だった時代です。女の子はみんな結婚し、結婚した女は子供を作って初めて安定したのでしょう。そのため、たとえ、未亡人になっても、子どもを作らせようとしたのかもしれません。
 あるいは、この制度は、結局女性のためだったのでしょうか。
 

 そして、彼女が産む初めの男の子に、死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。(6節)

 とはいえ、人間には、感情があります。もし、兄嫁の床に入らされる弟が兄嫁を好きでなかったら、気の毒というしかありません。





posted by さとうまさこ at 00:07| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月19日

Coffee Break321 レビラート婚・ルツ記(ルツ記、申命記25章)





 聖書物語「ルツ」を書くとき、私の一番の課題は、社会的要請としてのレビラート婚と、個人の心をどう折り合わせるかでした。若い未亡人であるルツが夫の近親の男性と結婚して、夫の家(じつは夫の父親エリメレクの家)を立てなければならないのです。

 
 この物語は、飢饉でベツレヘムを離れ、モアブに移住したエリメレク・ナオミ夫婦の一家が題材です。モアブで夫が死んだあと、ナオミは二人の息子マフロン、キルヨンとモアブの娘とを結婚させるのです。しかし、不幸なことに、二人の息子も死んでしまいます。
 ナオミは、ベツレヘムの飢饉が去ったと聞いて、二人の嫁と帰郷しようとします。ただ、途中で、二人の嫁には親元に帰るよう促すのです。
 このあたりの心理的説明は聖書にはありません。ただ、モアブは異教徒であり、もともと結婚が禁じられている相手です。その点を、ナオミははばかったのかもしれません。ですが、長男の嫁のルツは、どうしてもナオミについてベツレヘムに行きたいと懇願します。

 帰郷したものの、すでに、モアブに行く前にエリメレクが土地を売って出ていたので、ナオミとルツには耕す土地もありません。困窮しているやもめ二人の生活は、しかし、ルツが落穂を拾いに出かけて姑との生活を立てるのです。

 落穂ひろいに出かけた先は、ボアズという裕福な人の農場でした。ボアズがエリメレクの縁戚に当たるのに気がついたナオミは、ルツをボアズと結婚させて、エリメレクの土地を買い戻してもらおうと考えるのです。

 ☆☆☆☆


 結果的に、ルツはボアズと結婚し、息子オベデが生まれ、ナオミの望みどおりエリメレクの土地も買い戻され、ナオミの老後は祝福されたものとなるのです。

 
 この物語は、とても美しく語られます。夫と息子を立て続けに失くした不幸な未亡人ナオミが、モアブ人の嫁に知恵を授けて、親戚のボアズと娶わせるのに成功するのですが、それを、批判的に評しているのを、あまり読んだことがありません。たぶん、エリメレクの土地を買い戻し、その名を回復することが律法にかなっているので、ナオミは、「神の御心に忠実に行動した正しい」女性として、評価されているのでしょう。

 けれども、じっさいに小説の中でナオミが行動するのにつきあっていると、どうにも不自然なところがあります。とりわけ、ルツをボアズの床に「夜這い」させる箇所につまずきます。当時のイスラエルでは、このような非常時には、女の方からでも「夜這い」があったのかもしれません。

 夜這いそのものは日本でも、地方によっては習慣としてあったので、今のようにレイプ、暴行といった位置づけではなく、男女が近づくために社会的に容認されていたとも考えられるのです。それにしても、ナオミがルツをボアズの所へ行かせたのは、少々勇み足でした。

 じつは、ボアズより先に、エリメレクの土地を買い戻す権利のある親戚がいたのです。若い娘に夜の暗やみの中でしがみつかれても、ボアズは冷静な紳士でした。自分より買い戻しの権利が上位の親戚がいるとルツを諭して帰します。

 ☆☆☆☆

 
 ルツを帰した翌朝、ボアズはエリメレクの土地に対して、優先順位が上の親戚と会います。彼は、快く土地を買い戻すことを了解するのですが、同時に、モアブ人ルツをめとらなければいけないと聞くと、買戻しの権利を放棄します。

「私には自分のために、その土地を買い戻すことはできません。私自身の相続地をそこなうことになるといけませんから。あなたが私に代わって買い戻してください。私は買い戻すことができませんから」(ルツ記4章6節)と言うのが理由です。

 私はこの箇所を、「この親戚の男性には、仲の良い奥さんとその子どもたちの安定した家庭があり、そこへもうひとり、娶るわけにはいかないと考えて辞退した」と解釈しました。あるいは、ルツがモアブ人だったことが理由かもしれません。いずれにしても、聖書はそこまではっきりとは、書いてはいません。
 
☆☆☆☆


 ルツの物語は、未亡人が子どもを作るために夫の近親者と結婚するという、たんなるレビラート婚ではなく、いったん手放した土地を親戚に買取ってもらうという「買戻しの権利」が、絡んでいるので少しわかりにくいのです。ともあれ、この少々危なっかしいナオミの試みは成功するのです。ナオミのいくつものつまずきにもかかわらず、神様はエリメレクの妻としてのナオミの立場を回復してくださるのです。その相続地と、相続地を継ぐ孫と、素直な嫁に囲まれて平穏な老後を送らせてくださるのです。

 何より、神様は、モーセのおきてが禁じたモアブ人との結婚さえ益に変えてくださり、イスラエルの礎(いしずえ)を打ちたてたダビデを、ルツとボアズの曾孫として下さるのです。ダビデの系図から、イエス・キリストがお生まれになるのです。

 ルツがなぜ、そのような重要な節目に用いられたのか、私は、この小説を書く間中、考えつづけたのでした。




 
posted by さとうまさこ at 00:00| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月20日

Coffee Break322 あなたの袋の中の重り石(申命記25章13節〜16節)




 あなたは袋に大小異なる重り石を持っていてはならない。(申命記25章13節)
 あなたは家に大小異なる枡を持っていてはならない。(14節)
 あなたは完全に正しい重り石を持ち、完全に正しい枡をもっていなければならない。あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生きるためである。(15節)
 すべてこのようなことをなし、不正をする者を、あなたの神、主は忌みきらわれる。(16節)


 袋に大小異なる重り石を持っているとは、どういうことでしょう。

 三千五百年前に、モーセが神の言葉を取り次いで言った重り石とは、今で言う「分銅」(秤などで物の目方を計る標準となるおもり、広辞苑)のことでした。ちなみにこのころの秤は、非常に単純な構造の天秤型だったようです。その一方に分銅を載せ、他方に量る物を載せたのです。

 重り石を使い分けると、物の目方が異なってくるのです。同じ魚一尾が、ある時は分銅5個、ある時は分銅四個になります。当然、値段が違ってきます。どうしてそのような使い分けをするのかといえば、相手により、時によって、同じものを高く売りつけることができる、つまり人を欺くためです。
 枡も同じです。同じ一升でも2パーセント少ないだけで、10升売れば、2合分不正ができるのです。
 そのようなことが行なわれては、まともな取引が成り立ちません。このため、古くからどのような国でも、枡や重りの基準を定めてきたのです。
 日本では、701年に発布された大宝律令で、すでに、枡の大きさが定められたそうです。また、明治以降、近年は国際規格との整合性も取り入れた計量法が作られています。
 

☆☆☆☆

 私たちが一番警戒する人は、どのような人でしょうか。また、安心して付き合うことができるのは、どのような人でしょうか。

 今の日本では、はかりをごまかす人などいないでしょう。
 しかし、目に見えないさまざまな判断の基準には、異なる重り石、枡、メジャーを持っていて、相手によって使い分ける人はいるのではないでしょうか。
 
 自分はまっすぐな人間だ。間違ったことを見ると、断乎抗議しないではいられない、という人がいます。
 同じ人が、強そうな相手、自分が得をする相手には譲歩します。また、弱者の味方だと自認して、社会運動などをしている人が、自分よりわずかに劣ったと思える人をばかにすることもあります。弱っている人を、さらに叩くような人もいます。
 電力の使用削減やゴミの減量なども、だれでも賛同します。行動でも、そのようにしたいと思います。ところが、自分自身には、「ここだけは」「これだけは自分へのごほうび」などという、例外を作ります。

 もちろん、他人事ではありません。私自身、見えない基準について、ゆるがないメジャーをもっていて、その通りに行なっているとは、とうてい言えないのです。


 ☆☆☆☆


 私たち人間は「生身」です。とても、制約の多い存在なのです。私の机の上には、教会の女子高生が、子どもクラスのときに作ってくださった、美しい折り紙のキューブが置いてあります。すでに、一年以上も置かれているでしょう。しっかり折って組み合わせてあるのですが、紙ですから握り締めたらつぶれるでしょう。

 私たち人間は、ある意味で、この紙のキューブより弱いのです。制約があります。私たちは生きている限り、一分間に何回も呼吸をしつづけなければなりません。毎日食べたり飲んだりしないといけません。眠らないと持ちませんし、寝ているよう強制されたら、これも拷問です。シャワーも必要ですし、トイレにも行きます。人に対しては、クレームが多いのに、孤独に弱く、傷つきやすく、人を簡単に傷つけます。
 
 
☆☆☆☆

 イエス様はおっしゃいます。

 裁いてはいけません。裁かれないためです。(マタイの福音書7章1節)
 あなたがさばくとおりに、あなたもさばかれ、あなたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。(2節)


 自己中心の都合に合わせた量りで、自分も量り返されると言うのです。こわいですね。

 申命記から三千五百年もたって、現在、物を量る計測器は進歩し、正確になり、信頼できるものとなりました。法律も整備されています。
 けれども、神様がモーセを通しておっしゃったのは、たんに重り石、枡のことだったでしょうか。 目に見える正義を、さらに目に見えない神の基準にまで、押し広げていくことだったのではないでしょうか。

 もちろん、神様は、人にはそのような「義」は、無理であることをご存知だったのだと思います。それゆえ、私たちの身代わりに、神さまみずから人となり、キリストとなられ、十字架で犠牲となって弱い私たちを救ってくださったのです。

 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。(ルカの福音書23章34節)

 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれたものなら、自分を救ってみろ。」(35節)

 兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄ってきて、酸いぶどう酒を差し出し、(36節)
 「ユダヤ人の王なら、自分を救え」と言った。(37節)







posted by さとうまさこ at 00:00| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。