2011年07月21日

Coffee Break323 その地の産物(申命記26章1節〜7節)




 子どもの世話をする仕事のなかに、子どものコレクションの処分というものがあります。いえ、表向きそのような仕事が指示されているのではありません。子どものママやパパも知らないことです。
 
 学期末や年度替りに、子どものロッカーやくつ箱を整理していると、たいていの子どもはその奥になにやら突っ込んでいます。木の葉だったり、蝉の抜け殻だったり、つぶれた折り紙だったり、小石だったり、鳥の羽だったり、貝殻だったり・・・。

 子どもを公園や山、海に連れて行くと、必ず探し物を始めます。そして、「ほら」と親や先生に見せに来るでしょう。ところが、遠足もなく、行事もなかったはずなのに、子供は何かしら集めているのです。

 コレクションは夢の反映です。毎日同じ通学路、同じ教室で同じ仲間と同じ先生と同じことをしているようでも、子どもには毎日が新しいのです。毎日、何かを発見して、それを誰かに見せようと、──あるいは、だれにも見せまいと、集めてくるのです。

 もし、「あした、凸凹山に行くから、できるだけそこにあるものを集めて見せに来るように」とでも言ったら、大変です。たちまち教室は、収穫物と戦利品の山になるでしょう。

 
☆☆☆☆

 あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に入って行き、それを占領し、そこに住むようになったときは、(申命記26章1節)

 あなたの神、主が与えようとしておられる地から収穫するその地のすべての産物の初物をいくらか取って、かごに入れ、あなたの神、主が御名を住まわせるために選ぶ場所へ行かなければならない。(2節)


 これは、いわゆる「ささげ物規程」ではありません。農産物のささげ物については、申命記14章22節〜25節に「十分の一を毎年必ずささげなければいけない」と、命じられています。

 これは、ある意味でもっと大変な命令です。でも、聞いていて、わくわくする命令です。
 考えてみてください。あなたが誰かから土地を与えられて、自由に住んで、使ってよいけれど、そうしたら、その地でとれる産物の初物を、すべて、かごに入れ、神様に見せに来なさいというのです。


☆☆☆☆

 そのとき、任務についている祭司のもとに行って、「私は、主が私たちに与えると先祖たちに誓われた地に入りました。きょう、あなたの神、主に報告いたします」と言いなさい。(3節)
 祭司は、あなたの手からそのかごを受け取り、あなたの神、主の祭壇の前に供えなさい。(4節)


 モーセから、このような命令を受けた時、民は思ったに違いありません。
 そうか。その場所には、きっと、珍しいものがあるんだ。変わった虫や鳥。きれいな花。たわわに実ったおいしそうな果物。おいしい魚も獲れるといいな。おいしい木の実も食べたいな。
 
 乳と蜜の流れる地──あふれ、地に流すほど乳がしぼれるのは、青々とした草原があって、家畜が丸々と太って、仔が次々生まれることです。蜜が流れるとは、花々が咲き乱れ、ミツバチが忙しく蜜を集め回り、森の中では、巣から蜜が滴り落ちているということです。


 あなたは、あなたの神、主の前で、次のように唱えなさい。「私の父はさすらいのアラム人でしたが、わずかな人数を連れてエジプトに下り、そこに寄留しました。しかし、そこで、大きくて強い、人数の多い国民になりました。(5節)

 エジプト人は、私たちを虐待し、苦しめ、私たちに苛酷な労働を課しました。(6節)
 私たちが私たちの父祖の神、主に叫びますと、主は私たちの声を聞き、私たちの窮状と労苦と圧迫をご覧になりました。(7節)


 彼らは、かつて、浅ましい思いで、神やモーセにつぶやきました。
「エジプトでは、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうり、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも」(民数記11章5節)
 しかし、耐乏生活もいよいよ終るのです。イスラエルの民は、心から、モーセの言葉を復唱したに違いありません。

 そこで主は、力強い御手と、述べられた腕と、恐ろしい力と、しるしと、不思議とをもって、私たちをエジプトから連れ出し、(8節)

 この所に導き入れ、乳と蜜の流れる地、この地を私たちに下さいました。(9節)
 今、ここに私は、主、あなたが私に与えられた地の産物の初物を持ってまいりました。」
 あなたは、あなたの神、主の前にそれを供え、あなたの神、主の前に礼拝しなければならない。(10節)

 あなたの神、主が、あなたとあなたの家とに与えられたすべての恵みを、あなたは、レビ人およびあなたがたのうちの在留異国人とともに喜びなさい。(11節)




 ※※※※

   主に感謝せよ。
   主はまことにいつくしみ深い。
              その恵みはとこしえまで。
   神の神であられる方に感謝せよ。
              その恵みはとこしえまで。
   主の主であられる方に感謝せよ。
              その恵みはとこしえまで。
   ただひとり、大いなる不思議を行なわれる方に。
              その恵みはとこしえまで。
   英知をもって天を造られた方に。
              その恵みはとこしえまで
   地を水の上に敷かれた方に。
              その恵みはとこしえまで。
   大いなる光を造られた方に。
              その恵みはとこしえまで。
   昼を治める太陽を造られた方に。
              その恵みはとこしえまで。
   夜を治める月を造られた方に。
              その恵みはとこしえまで。

   エジプトの初子を打たれた方に。
              その恵みはとこしえまで。
   主はイスラエルを
   エジプトの真ん中から連れ出された。
              その恵みはとこしえまで。
   力強い手と差し伸ばされた腕をもって。
              その恵みはとこしえまで。
   葦の海を二つに分けられた方に。
              その恵みはとこしえまで。
   主はイスラエルにその中を通らせられた。
              その恵みはとこしえまで。
   パロとその軍勢を葦の海に投げ込まれた。
              その恵みはとこしえまで。
   荒野で御民を導かれた方に。
              その恵みはとこしえまで。

            (詩篇136、1節〜16節)



   

   Coffee Breakは、聖書を「創世記」から読みながら書いている
   エッセイです。現在、最初の五巻「律法の書(モーセ五書)」のなかの、
   五番目の書物、申命記を読んでいます。
   
   
   

   聖書箇所の引用は、「新改訳聖書」を使わせていただいています。







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2011年07月22日

Coffee Break324 主をほめたたえよ(詩篇146・1節2節)









            ハーモニカ


   新しいハモニカひとつ手に入れた 楽器店出てはずむ足取り

   ケース開け そっと唇当ててみる 息吹き入れる 胸の高鳴り

   ふんわりと ハモニカの音 ひろがって たちまち部屋の色が染められ

   手始めはしぜんに「埴生の宿」 ちがった いまは「スィートホーム」

   
   神様の御用に使うとハーモニカ じつはただ欲しくなっただけ
   





 小学校二年生の時、学校に入用でハーモニカを買ってもらい、すっかりはまってしまって一日何時間も吹いていたものです。ハーモニカを吹くと、愛犬のジョンが犬小屋から出てきて、空に向かって遠吠えするように、不思議な声で啼くのです。

 近くの丘に行って、犬と雑木林の中に座り、学校の歌はもちろん、聞き覚えのある歌を片っ端から吹きました。半音の出ないハ長調のハーモニカは吹けない曲が多く、適当にごまかしていました。

 いつしか、学校から帰るのが遅くなり、ハーモニカのことは忘れてしまいました。



        ☆☆☆☆ 


 

 クリスチャンは教会で、礼拝するとき、まず、賛美(歌)をささげます。厳粛なのに、心が高揚する時間です。
 ピアノ、キーボード、ドラム、ギター、ベース、ウクレレ、パーカッション・・・いろいろな楽器があり、賛美をリードする人がいて、手拍子。手を上げ、天を仰ぎ、心から神様をほめたたえます。
 




   ハレルヤ。
   私のたましいよ。主をほめたたえよ。

   私は生きているかぎり、主をほめたたえよう。
   いのちのあるかぎり、私の神に、ほめ歌を歌おう。
           
             (詩篇146・1節2節)













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2011年07月23日

Coffee Break325 ささげ物を食べるとき(申命記26章11節〜14節)




 あなたの神、主が、あなたとあなたの家とに与えられたすべての恵みを、あなたは、レビ人およびあなたがたのうちの在留異国人とともに喜びなさい。(申命記26章11節)

 第三年目の十分の一を納める年に、あなたの収穫の十分の一を全部納め終わり、これをレビ人、在留異国人、みなしご、やもめに与えて、彼らがあなたの町囲みのうちで食べて満ち足りた時、(12節)

 あなたは、あなたの神、主の前で言わなければならない。「私は聖なるささげ物を、家から取り出し、あなたが私に下された命令のとおり、それをレビ人、在留異国人、みなしご、やもめに与えました。私はあなたの命令にそむかず、また、忘れもしませんでした。(13章)



 申命記26章全体は、約束の地カナンに入ったとき、主が下さる多くの恵みに感謝し、主を賛美し、収穫の喜びを分け合いなさいと命じた箇所です。入植して生産活動に入ったら、収穫物の十分の一はささげるのです。
 また、三年に一度は、定められた年ごとの十分の一とは別に、レビ人、在留異国人、みなしご、やもめに与えるために、十分の一を納めることになっていました。


☆☆☆☆ 


 私は喪のときに、それを食べず、また汚れている時に、そのいくらかをも取り出しませんでした。また、そのいくらかでも死人に供えたこともありません。私は、私の神、主の御声に聞き従い、すべてあなたが私に命じられたとおりにいたしました。(申命記26章14節)

 レビ記には、さまざまな汚(けが)れについて、記されています。今の私たちに、何より理解が難しいのは、この「汚れ」ではないでしょうか。
 汚れは、社会生活をいろいろ制限したのです。隔離されたり、共同の祭りや食事から外されることもありました。

 食物規程で、汚れているとされる動物がたくさん上げられています。(レビ記11章、申命記14章) 汚れているとされている動物に触れたものも汚れました。また、食べても良い動物でも、食用として飼っている動物の死体に触れること。ツァラアトと呼ばれるさまざまな状態。女性の月経、出産。男性の夢精、漏出など、汚れの原因は数多くありました。死も汚れでした。

 とくに祭司は、ごく近い親族の死以外に近づいてはいけなかったのです。大祭司は父母の死にも近づいてはいけないと記されています。


 もっとも、死が汚れ(穢れ)であるという考え方は、日本にも古くからありました。葬儀の後に、塩が配られるのは、穢れを清めるためです。
 寺は葬儀に場所を貸すことがありますが、神社の境内では、葬儀はしないと言われています。
 
 日本の神事とイスラエルの祭司儀礼の多くが似ているとか。古代日本に、多くのユダヤ人が入ってきたという説もあるほどです。


☆☆☆☆

 ささげ物と汚れとを結び付けて、いろんな禁忌が出てきたのは、レビ記からです。偶像礼拝の禁止と同じで、シナイ契約以降のことです。
 創世記の中では、初めて神さまにささげ物をささげたカインとアベルを始め、ノアもアブラハムもイサクもヤコブも、しぜんに、素直に、犠牲をささげたようです。そこでは、後におきてとして禁じられるような汚れは、問題にされていません。
 
 ヤコブは、妻子としもべ、たくさんの家畜とともに伯父ラバンの家から逃走した時、追いかけてきたラバンと、和解することになり、動物をほふってささげ、「和解のいけにえ」を一族みんなで食べました。(創世記31章54節) その時、ヤコブの妻ラケル(ラバンの娘)は、「女の常のものの最中」と記事にあります。(31章35節) そのことが、いけにえを食べることに差し障ったとは書かれていません。


 それから、四百五十年後、出エジプト記の過ぎ越しの食事のときのおきてでは、割礼をしていない外国人、奴隷などは、割礼を受けてから食べることができると、命じられています(出エジプト記12章43節〜50節) 

 この時点で、神様は、ほふられた犠牲を食べることとと「汚れ」を、とくに、関連付けておられないのです。
 





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2011年07月24日

Coffee Break326 親切なサマリヤ人と汚れ(ルカの福音書10章25節〜37節)




 ある人が、エルサレムからエリコに下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げていった。(ルカの福音書10章30節)

 有名な「親切なサマリヤ人」のたとえ話の一節です。
 この少し前の箇所で、ある律法学者が立ち上がってイエス様に質問します。

「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
 イエス様が公生涯に入って、活躍されていた頃、多くの祭司や律法学者がイエス様を陥れようと、虎視眈々と機会をうかがっていたのは、よく知られているところです。
 新しい預言者か、待望の救い主かと、日増しに人気の高まる、イエス様のことがねたましく、腹立たしくてしようがなかったのです。
 この質問も、そういう意図で、イエス様を試すために発せられたものです。

 たとえ話は続きます。


 たまたま、祭司がひとり、その道を下ってきたが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。(31節)
 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。(32節)

 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、(33節)
 
近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。(34節)

 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。(35節)


 たとえ話のあとで、イエス様は、律法学者の質問に質問でお答えになります。

「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」(36節)

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 もちろん、この答えはだれでもわかりますね。
 子どもでも答えのわかる質問を返してくるイエス様に、この人はきっと、ムカついたに違いありません。何しろ、彼は誇り高い律法学者なのです。
 同時に、彼は、内心、自分がよけいな質問をしたことを悔いたことでしょう。

 たとえ話の前段で、彼はイエス様と、次のような会話を交わしていたのです。

「何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
「律法には、何と書いてありますか。」
「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』
 また、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」
「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
「では、自分の隣人とはだれのことですか。」
 


☆☆☆☆

 この律法学者は、イエス様の日頃の言動を、快く思っていなかったに違いありません。収税人や売春婦など罪人といわれる人たちといっしょに食事をされるイエス様です。「隣人を愛するなど、異邦人(異教徒)でもそうしている。あなたがたは、敵を愛し迫害するもののために祈りなさい」などと、彼らの理解を超える教えを説いてまわります。

 律法学者は、「自分の隣人とはだれのことですか」と引っ掛けたつもりでしたが、イエス様に巧みなたとえ話でかわされてしまい、それ以上に・・・。

 ここで、倒れている人を見てみぬふりをして、通り過ぎたのは、律法学者の仲間である──宗教専門家──祭司とレビ人でした。
 一方、旅人を助けたサマリヤ人とは、彼らが軽蔑し、差別していた外国人だったのです。

 
 ☆☆☆☆

 でも、いまは、少しばかり、祭司とレビ人の身になって、その言い分を聞いてあげましょう。

 私たちは、昨日も汚れ(けがれ)について学びました。祭司や神の御用を仕事としているレビ人たちは、汚れが身にふりかかることを、特に恐れていました。万一にも死体に触れたりしたら、神殿での仕事ができなくなるのです。 参考・Coffee Break174~177

 旅人が死んでいたり、死ぬところだったりしてはいけないと恐れ、避けたのです。
 
 祭司が身を聖く保つのは、律法が出来たときは、崇高な意味がありました。しかし、イエス様が地上においでになった頃は、多くの律法と同様、戒めが人間性に優先して、ぎゃくに人間を縛るものになっていました。
 イエス様はそこを指摘されたのです。また、律法学者はそれゆえ怒り心頭だったのです。

 こうして、イエス様と宗教指導者たちとは、対立を深めていくのです。



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2011年07月25日

Coffee Break327 食物禁忌と律法の成就(使徒の働き10章11章、マタイ5章17節)



 
 律法の食物禁忌は、イエス様の時代にも、厳格に守られていました。
 ところが、興味深いことに、新約聖書「使徒の働き」には、律法が定めた食物禁忌を、神ご自身が廃止されたかのような記述があります。


 ペテロは祈りをするために屋上に上った。昼の十二時ごろであった。(使徒の働き10章9節)

 すると彼は非常に空腹を覚え、食事をしたくなった。ところが、食事の用意がされている間に、彼はうっとりと夢ごこちになった。(10節)

 見ると、天が開けており、大きな敷布のような入れ物が、四隅につるされて地上に降りて来た。(11節)

 その中には、地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥などがいた。(12節)

 そして、彼に、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい」と言う声が聞こえた。(13節)

 しかし、ペテロは言った。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」(14節)

 すると、再び声があって、彼にこう言った。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」(15節)

 こんなことが三回あって後、その入れ物はすぐ天に引き上げられた。(16章)



 これは、ペテロが見た幻です。天からつるされてきた敷布には、地上のあらゆる種類の四つ足の動物やはうもの、空の鳥がいたというのです。食物規程で見るように、当時は、食べてはいけない動物は非常に多かったのです。ですから、そこには、きよくない物、けがれた物がたくさんあったのでしょう。

 レビ記から千五百年も経った新約の時代に、ペテロも、また、しっかりと律法の食物規程を守っていたようです。

 布が引き上げられたので、ペテロは「食物規程」に触れるものは食べずにすんだのです。しかし、神様がペテロに、そのような幻をお見せになったのは、大きな目的があったのです。

 
 ☆☆☆☆
 
 ペテロが幻を見たころ、ローマ人の百人隊長コルネリオという人の部下が三人、彼を訪問してくるところでした。コルネリオは異邦人でしたが、ユダヤ教の神をおそれかしこみ、ユダヤ人に施しをするような人でした。彼のところに、御使いが現れて、ヨッパにいるペテロという者を招きなさいと指示したのです。

 ペテロはコルネリオの家に行きました。コルネリオは御使いの話をしました。
 ペテロは、イエス・キリストのことを、そこに集まっていたおおぜいの人たちに宣ベ伝えました。
 すると、集まってみことばに耳を傾けていた大勢の人に聖霊がお下りになって、みんなが異言で話し始めたのです。そこで、ペテロは、彼らにイエス・キリストの御名によってパプテスマを受けさせたのです。

 後日、エルサレムにもどったペテロは、彼が異邦人の家に招かれて行ったこと、異邦人といっしょに食事をしたことなどで、ユダヤ人の信者仲間から非難を受けました。
 ペテロは彼らに「きよくない食べ物の幻」「コルネリオに御使いが現れたいきさつ」「コルネリオの一家としもべたちに聖霊がお下りになり、彼らが異言を話したこと」などを語りました。

 
 人々はこれを聞いて沈黙し、「それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」と言って、神をほめたたえた。(使徒の働き11章18節)

 ペトロが見た幻は、異邦人もユダヤ人も分け隔てなく、神の救いを受けることができるという意味だったのです。こうして、キリストの救いが異邦人にも広まっていくのです。
 
 「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためではなく、成就するために来たのです。」(マタイの福音書5章17節)

 これは、イエス様のお言葉ですが、「律法の成就」とは、まさにユダヤ人にも異邦人にも分け隔てなく「神の救い」がもたらされることだったのですね。








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2011年07月29日

Coffee Break328 主の聖なる民(申命記26章15節〜19節)




 「あなたの聖なる住まいの天から見おろして、御民イスラエルとこの地を祝福してください。これは、私たちの先祖に誓われたとおり私に下さった地、乳と蜜の流れる地です。」(申命記26章15節) (あなた=神、主、16節からはイスラエルの民を指している・註・筆者

 あなたの神、主は、きょう、これらのおきてと定めとを行なうように、あなたに命じておられる。あなたは心を尽くし、精神を尽くして、それを守り行なおうとしている。(16節)

 きょう、あなたは、主があなたの神であり、あなたは、主の道に歩み、主のおきてと、命令と、定めとを守り、御声に聞き従うと断言した。(17節)


 申命記5章から申命記26章は、モーセのイスラエルの民に対する演説の骨子となるところです。神、主の民であるイスラエルが、主の前にあるべき姿が、十戒の復習からはじまって宣言されています。モーセの演説のボルテージは、だんだん上がってきます。
 やがて、モーセは死ぬことが、彼自身にもわかっています。自分が死んだあと、部下であったヨシュアが全イスラエルを率いてカナンに入って行くのです。出エジプトから始まった荒野の旅の集大成です。この戦い、この地の獲得のため彼らは、荒野を四十年間さまよったのです。神のお約束に応えて、カナンを取るのは、イスラエルの民にとって、たんに、民族の存亡にかかわること以上の、意味があるのです。


 きょう、主は、こう明言された。あなたに約束したとおり、あなたは主の宝の民であり、あなたが主のすべての命令を守るなら、(18節)

 主は、賛美と名声と栄光とを与えて、あなたを主が造られたすべての国々の上に高くあげる。そして、約束のとおり、あなたは、あなたの神、主の聖なる民となる。(19節)


☆☆☆☆
 

 聖書を初めて読む人だけでなく、クリスチャンであっても、「神の人類救済のご計画」が、イスラエルという特定の国民に託されたことに、納得できないかもしれません。
 現代も、同じ名前の国があり、その国民が旧約聖書で示されるイスラエルと宗教的に深いつながりがあり、三千五百年間、彼らが保持してきたその信仰が彼らの生きかたと無関係でないため、私たち自身が旧約聖書の民と、現代のイスラエルを重ねて見てしまいがちです。
 日本人のアイデンティティや伝統や文化と、聖書の内容を、あたかも二者択一的なものと考え、さらに、政治的ななんらの利害関係までを視野に入れると、聖書の見方が混乱してしまいます。

 
 ☆☆☆☆

 全知全能の神様が、アブラハム(アブラム)をお選びになったいきさつを思い出してみてください。(創世記12章)
 じつは、なぜ、アブラハムなのか、その理由は書かれていないのです。創世記の時代でも、多くの人が生きていたはずです。バベルの塔を築いた人たちは、全地(世界中に)散されたのです。
 アブラハムは、父テラと甥のロト、妻のサラ(サライ)とカルデヤのウルからハランと呼ばれる土地に出てきて住んでいました。父が死んだとき、主がアブラハムに現れて仰せになったのです。

 あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。(創世記12章1節)

 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、
 あなたを祝福し
 あなたの名を大いなるものとしよう。
 あなたの名は祝福となる。(2節)
 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、
 あなたをのろい者をわたしはのろう。
 地上のすべての民族はあなたによって祝福される。(3節)

 アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。(4節)


 会社の社員採用や、結婚のプロポーズの話なら、だれでも「うますぎる」と思わないでしょうか。「あやしい」と思う人もいるかもしれません。わたしはあなたを選んだ。わたしのいうとおり従いなさい。そうすれば、あなたを祝福し大いなるものとしようというわけです。世俗的には、最高の待遇を与えよう。一番良いポストを与えよう。だれにも文句は言わせない。あなたがすべての人を引き立てるほどのよい立場になる。
 
「えっ、どうして私なんですか」「示すところって言われますが、ヘンな場所ではないでしょうね」などと、アブラハムは、疑いを差し挟むことはありませんでした。
 彼にお命じになり、約束されたのが、神様だったからです。
 神様の御声を聞き分けられる、それが、アブラハムが召命を受けた(選ばれた)理由だったかもしれません。

 その日から、天地をお造りになった全知全能の神様が、アブラハムとともにおられるようになるのです。アブラハムと契約を結び、アブラハムを数々の祝福で満たし、息子イサクを与え、他方で厳しいテストを課して、その信仰を試し、その子孫が祝福を受けることを、何度も約束してくださるのです。 

 神さまは、アブラハム・イサク・ヤコブの神と呼ばれるようになります。
 アブラハム・イサク・ヤコブの神は、イスラエル民族を、「主の宝の民」にするべく、ヤコブ(イスラエル)の一族をエジプトに移されたのです。
 アブラハム・イサク・ヤコブの神は、四百三十年後、イスラエル民族をエジプトから連れ出してくださり、シナイで契約を結んでくださるのです。

 そして、四十年の荒野の旅の後、カナンを前にして、「主のすべての命令を守るなら、」「主は、賛美と名声と栄光とを与えて」「あなたを主が造られたすべての国々の上に高くあげ」「主の聖なる民となる。」(19節)と、高らかに宣言されているのです。

 ただし。主の聖なる民になるためには、「主のすべての命令を守ら」なければならないのですが。





   いつも、訪問してくださってありがとうございます。
   パソコンの故障で、3日も休んでしまったことをおわびします。
 
  さいわい、パソコンは、友人のご主人が修理をしてくださって、
  生き返りました。
  ご夫妻の多大の労と惜しみない愛に、心より感謝申し上げます!!!

                       さとうまさこ

  

  
  
   









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2011年07月30日

Coffee Break329 祝福と呪いについて(申命記27章)




 歯医者さんで治療を受けていると、BGM代わりにラジオ放送が流れていました。ちょうど、ナデシコジャパンについて、パーソナリティが軽快に語っているところでした。
「ナデシコジャパンの優勝おめでとうございます。祝福を申し上げます」
 正確には少し言葉遣いが違っているかもしれませんが、「祝福」という言葉にちょっと驚きました。じつは、最近、ほかのラジオ番組でも聞いたことがあったのです。
 
 
 祝福は、もちろん、だれが聞いてもわかる日本語のようですが、以前は、教会以外では、あまり聞くことがありませんでした。教会で使う場合は、「祝福がありますように」「祝福を祈ります」などと使います。つまり、祝福して下さる方、祝福ができるのは、神様だと言うことです。人間は人のためにも自分のためにも、神様に祝福を祈り、願うだけです。

 聖書のなかでは、最初に神から「祝福する」と言われたのは、もちろん、最初の人間アダムとエバです。(創世記1章28節)
 つぎにノアです。洪水が引いて、箱舟から出てきたとき、主に感謝して祭壇を築き、全焼のいけにえをささげたノアを、神様は祝福してくださったのです。

 それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、仰せられた。
「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。(創世記9章1節)


 次に、神様の祝福を受けるのは、アブラハムです。
 これは、昨日のCoffee Breakで引用した創世記12章の最初のみことばです。

 あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、
 あなたの名をおおいなるものとしよう。
 あなたの名は祝福となる。(出エジプト記12章1節2節)


 その次は、アブラハムの息子イサクです。(創世記26章3節4節12節)
 イサクの息子ヤコブは、兄エサウから長子の権利と祝福をだまし取ったアクの強い人でした。人間的に見ると、良い人だとは思えないような行動をするのです。しかし、神のご計画は、はるか人の思い及ばないところにあったのでしょう。
 兄を恐れて、伯父のもとに逃走するヤコブに、神様が現れて彼を祝福して下さるのです。(創世記28章13節14節)
 

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 祝福は神様が下さることであるからと言って、私たち人間が、ほかの人を祝福していけないわけではありません。

 聖書では、人間が人間を祝福する場面も出てきます。アブラハムが戦いから戻ってきたとき、シャレムの王メルキゼデクは、パンとぶどう酒をもって出てきて、アブラハムを祝福しました。(創世記14章18節)
 また、イサクは死ぬ前に長男であるエサウを祝福しようとして、妻と息子ヤコブにだまされて、ヤコブに祝福を与えてしまいます。その後も、聖書の中では、祝福の例はたくさん出てきます。

 教会では、牧師が信徒を祝福します。洗礼式をはじめ、児童祝福式や成人式,結婚式など、進学や就職など、門出にある人たちに、かならず祝福が祈られます。日曜日の礼拝の最後に、牧師が会衆一同に向かって、「祝福がありますように!」と祈って宣言して下さるのを、「祝祷」と言います。クリスチャンはこの瞬間、「ああ、礼拝に来ることができてよかった! 今週も神様が共にいてくださるから、大丈夫!」と思うのです。
 また、信徒同士でも「祝福をお祈りします」と言います。ただ、クリスチャンが言う祝福は、祝福をなさるのは神様であるとの前提です。


 パーソナリティの方の言葉の使いかたは、教会とは少し違いました。ですが、彼が「ナデシコジャパンの優勝は、神様がくださったのですね」と言っておられるようで、私はちょっと嬉しくなったのです。

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 それでは、「祝福」の反対はなんでしょう。聖書では、「呪い」です。
 まず、アダムとエバが、エデンの園で、禁じられた木の実食べたあと、神様はアダムとエバをそそのかした蛇に仰せになります。
 
「おまえが、こんな事をしたので、
 おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる」(創世記3章14節)


 アダムには次のように仰せになります。

「あなたが、妻の声に聞き従い、
 食べてはならないと
 わたしが命じておいた木から食べたので、
 土地はあなたのゆえにのろわれてしまった。
 あなたは、一生、
 苦しんで食を得なければならない。
 土地は、あなたのために、
 いばらとあざみを生えさせ、
 あなたは、野の草を食べなければならない。
 あなたは、顔に汗を流して糧を得、
 ついに、あなたは土に帰る。
 あなたはそこから取られたのだから。
 あなたはちりだから、
 ちりに帰らなければならない。」(創世記3章17節~19節)


 神様が「のろう」という場合、神様のさばきが宣告されることです。神様のさばきは、とても怖い気がしますが、一定の法則があります。神の掟や命令を守らないこと、神との契約に反することをする場合です。

 申命記27章28章には、どのような場合に呪われるのか、どうすればどのような祝福があるのかが述べられています。 

 静まりなさい。イスラエルよ。聞きなさい。きょう、あなたは、あなたの神、主の民となった。(申命記27章9節)
 あなたの神、主の御声に聞き従い、私がきょう、あなたに命じる主の命令とおきてとを行いなさい。(10節)


 このあと、どのような場合に、「のろわれるのか」が、列挙されていますが、それについては、明日。






posted by さとうまさこ at 00:00| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月31日

Coffee Break330 祝福とのろい(申命記27章15節〜26節)




 たとえば、人からお札やお守りをもらった時に、始末に困ることはないでしょうか。別に、その神社の神様を信じていなくても、捨てるとなると、おろそかにできません。
 正月の松飾りなどを、まとめて神社の境内で燃やしたりするのは、それが神道のまつりごとにかかわる縁起物だからです。
 もはや、そんなものは迷信だという若い人たちが、テレビであやしげな占い師が「守護霊」「背後霊」だの、「先祖のたたり」だのと言うのを聞いて、「そうかなあ」と心がゆらぐのです。
 頭では、神の存在や霊の世界など信じていないと言いながら、心では霊の世界におびえている人は、案外多いのです。しかも、信じていない人が感じる霊の世界は、かえって、そのよって来るところがわからず、いかがわしいのです。
 日本人にも「のろい」の感覚は理解できます。それ以外に、「たたり」「さわり」「とりつく(憑く)」「汚れ」など、霊を恐れることばがあります。

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 日本人にとって、のろいは、ワラ人形に五寸釘を打つ女の姿に象徴されるでしょう。わら人形をうらみのある相手に見たてて、「のろいながら」そのからだに釘を打ちこむのです。これは人に知られてはならないので、大体、真夜中に、寺や神社の人気のない境内などで行なわれます。そのような、場所で恨みのために髪振り乱している女を考えただけで、身の毛がよだちます。もし、あなたの恋人の「昔の恋人」が、あなたを恨んでわら人形に釘を打ち込んでいるとわかったら、案外平然とはしていられないのではないでしょうか。そこで、「御祓い」「きよめ」「悪霊追い出し」をするという「業者」の出番になります。

 たたりは、もっと怖いですね。たたりは、およそあらゆる生き物が行える復讐です。人を殺すのはもちろん、犬でも猫でも池の鯉でも、きつねでも、たぬきでも、祟るのです。これは殺された霊が祟るようですから、輪廻転生の考えからきたものでしょう。

 「とりつく(憑く)」というのもあります。霊が取りついて、狂ったようになったりすることです。
 私が子供のときに聞いた近所のおばあちゃんの話では、そのおばあちゃんのおばあちゃんが蛇に取り付かれることが、何度もあったそうです。蛇がのり移ると、ふだんは動作も鈍いようなおばあさんが、太い柱をスルスルと蛇のように上り、上にある神棚の上に横たわります。昔のことなので、大きな神棚がしっかり取り付けてあったのでしょうが、その神棚がおばあちゃんの重みで、たわむほどだったとか。「御祓い」の人に来てもらって、お祓いをしてもらうと、おばあちゃんは柱を伝って下りてきて、付き物が落ちたようにけろりとしていたそうです。
 このテの話は、たいていは、「だれかから聞いた話」になっていますから、真偽のほどはわかりません。
 でも、その頃はこちらも子どもですから、そうかなあ、怖いなあと思って、見たこともない薄暗い田舎家で、蛇に取り付かれたおばあさんを思い浮かべたものです。

 さわりや穢れは、もう少しレベルの高いもの、神とも言うべき霊に対する恐れだったようです。たとえば、生理中に神社に行くのは、日本でも避けていたと思います。そういう禁止を犯すのを「さわる」と言うのです。
 私の記憶では、仏壇に他家の位牌を入れることなども、はばかられていました。
 地震や火事でとつぜん逃げ出す時、今なら、保険証ナンバーとか、銀行のキャッシュカード、常用の薬などを持ち出しますが,数十年前までは、「ご先祖の位牌」と言う人がけっこういたのです。持ち出したものの、位牌となるとどこに置いていても良いとは行きません。何処かの家に避難しても、その家の仏壇に同居させてもらうなんて、とんでもない!です。「さわり」があるからです。

 穢れについては、言うまでもないでしょう。葬儀から戻ってきたときに塩で清めたり、神社に入ったところで、水で手を洗うのは、穢れを清めるためです。

 霊の世界は、この繁栄の日本で先端技術や合理主義思考の彼方に埋れたかのように思います。ところが、この時代、占い市場は隆盛を極めているようです。同時に、この盛大さに自称・霊媒師・呪術師。スピリチュアル★★師。さまざまな新興宗教、宗教まがいのものが群がります。

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 聖書は、人間を創造してくださった神が、罪を犯して神の守りの外に出てしまった人類をどのようにふたたび、御許に戻してくださるか(救ってくださるか)について書かれた、壮大な「救いの物語」です。そこでは、天地を創造された全知全能の神が、唯一の神として主権をもっておられます。やがて、ご自身が救い主イエス様となって、十字架で血を流し、さらによみがえって、救いを実現してくださったのです。


 聖書の中でも、のろいは語られます。昨日も見た箇所、アダムとエバ,蛇、カインに対してだけでも、神様はのろいを宣告しています。しかし、聖書では、のろいは、神のおきてに従わなかった者への、神のさばきです。やたら神秘的だったり、執拗だったりするのではありません。
 
 申命記27章15節から、のろわれるケースが列挙されています。26節まで、全部並べて見ましょう。
 ひどく神秘的なもの、守るのが難しいものがあるでしょうか。


「職人の手のわざである、主の忌みきらわれる彫像や鋳像を造り、これをひそかに安置する者はのろわれる。」民はみな、答えて、アーメンと言いなさい。(申命記27章15節)

「自分の父や母を侮辱する者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。(16節)
 
「隣人の地境を移すものはのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。(17節)

「盲人に間違った道を教えるものはのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。(18節)

「在留異国人、みなしご、やもめの権利を侵す者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。(19節)

「父の妻と寝る者は、自分の父の恥をさらすのであるから、のろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。(20節)

「どんな獣とも寝る者はのろわれる」民はみな、アーメンと言いなさい。(21節)

「父の娘であれ、母の娘であれ、自分の姉妹と寝る者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。(22節)

「自分の妻の母と寝る者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。(23節)

「ひそかに隣人を打ち殺す者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。(24節)

「わいろを受け取り、人を打ち殺して罪のない者の血を流す者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。(25節)

「このみおしえのことばを守ろうとせず、これを実行しない者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。(26節)








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