2011年07月05日

Coffee Break306 「わざとじゃないよ」(申命記19章)




 あなたの神、主があなたに与えて所有させようとしておられるその地に、三つの町を取り分けなければならない。(申命記19章2節)

 あなたは距離を測定し、あなたの神、主があなたに受け継がせる地域を三つに区分しなければならない。殺人者はだれでも、そこに逃れることができる。(3節)



 子どもたち相手の仕事をしていたとき、子どもの言い訳の決まり文句があるのに気がつきました。
「わざとじゃないよ」
 これは友だちを怪我させたとき、怪我ほどではなくてもなんらの痛みや損害を与えて、先生に告げ口された時、友だちから非難されたとき、たいていの子どもは言うのです。
「わざとじゃないってば」
 たとえば、コマをまわしていてそのコマが誰かの足の上に落ちることがあるわけです。
 打ち所によっては痛いので、怒る子供がいます。いきなり殴りかかって仕返しする手の早い子供もいます。

「わざとじゃないのに、殴ってきたんだ」
「あぶない!って言ったのにやめないんだもの。わざとだよ」
「わざとじゃないってば」
「嘘つき。こいつ、いつも危ないことやめないんだ」


 手が出ると相手も負けていません。蹴りが入ったりしています。


 ☆☆☆☆ 

 殺人者がそこにのがれて生きることができる場合は次のとおり。知らずに隣人を殺し、以前からその人を憎んでいなかった場合である。(19章4節)
 たとえば、木を切るため隣人といっしょに森に入り、木を切るために斧を手にして振り上げたところ、その頭が柄から抜け、それが隣人に当たってその人が死んだ場合、その者はこれらの町の一つにのがれて生きることができる。(5節)


 イスラエルの中に三つの町を取り分けるのは、「過失で人を殺してしまった」者を保護することでした。
 故意であれ、過失であれ、怪我をさせられれば痛いのです。親兄弟や子どもが殺されれば、だれでも平静ではいられません。防衛本能といえば聞こえは良いのですが、復讐本能とも言うべき強い反応が出てきます。本人が死んでしまった場合、残された家族や一族が「仕返し」「あだ討ち」をするのは、むかしは、当然のことで、むしろ道義的な美談だったのでしょうか。

 血の復讐をするものが、憤りの心に燃え、その殺人者を追いかけ、道が遠いために、その人に追いついて、打ち殺すようなことがあってはならない。その人は、以前から相手を憎んでいたのではないから、死刑に当たらない。(6節)

 だから,私はあなたに命じて、「三つの町を取り分けよ」と言ったのである。(7節)


 のがれの町の建設は、最初、民数記35章で、主、神がモーセに命じられたことでした。(Coffee Break253参照)
 モーセの遺言演説とも言うべき申命記で、モーセはそれをもう一度確認しているのです。ですから、ここで、「私」と言うのはモーセです。

 そういえば、十戒の細則を思い出してください。(出エジプト記21章23節〜27節)
 殺傷事故があれば、いのちにはいのちを与えなければならない。目には目。歯には歯。手に手。足には足。やけどにはやけど。傷には傷。打ち傷には打ち傷。・・・とあり、事故であっても、等価の報復が命じられています。

 「原則的な処罰」の不備を補うために、逃れの町が作られたのでしょう。当時の時代の人々の価値観の中で、神様の憐れみの現れでした。

☆☆☆☆
 
 人となられて世に来られた神・イエス様は、もっと積極的です。

「わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(新約聖書マタイの福音書5章44節)

「わざとじゃないよ」は、もちろんのこと、故意に悪を計る相手をも許しなさいと言われるのです。

 なかなかできるものではありません。即座に手が出て足蹴りがでる子供を止めながら、自分もあまり変わらないのを知るのです。もちろん、じっさいに手は出しません。足には蹴りを入れるような力もありません。それだけのことです。

 ある日、「迫害するもののために祈りなさい」など、さかさまになってもできない!と、気がつく自分がいるのです。同時に、「わざとじゃないよ」と、自分も言っているのに気がついたのです。
 
 「このような私を、お赦し下さい」と祈ることができたのです。
 イエス様がいらっしゃると、わかったのです。
 
 


 
posted by さとうまさこ at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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