2011年07月06日

Coffee Break307 殺人へのほんとうの戒め(申命記19章、出エジプト記21章、マタイ5章)




 子どもが、まっさきに、「わざとじゃないよ」と叫ぶのを聞くと、わざとじゃなければ許されると言う基準は、一般的に浸透しているのかなと思います。過ちはだれにでもあるし、だれのせいでもない不慮の事故もあるわけです。そのような原因を考慮しようと言うのが、情状酌量といわれるものです。

 ただ、思いがけない損害を人に与えるのを恐れる一方、同じ人間が、殺意をもつほど人を憎むこともあるのは否定できません。

 聖書で最初の家庭内殺人は、なんと、アダムとエバの長男カインと次男アベルの間で起こりました。それは、嫉妬によるもので、神様が声をお掛けになって冷静になるチャンスを下さったにもかかわらず、カインは一度、燃え上がった殺意を、押さえることができなかったのです。

 地上に人間が増え広がるにつれ、数限りない殺意を伴う殺人事件があったのでしょう。洪水で一度地上のものをすべて滅ぼしてしまおうと神様が決心された時、「地上には悪が満ちていた」のですから、殺人など日常茶飯事だったのかもしれません。

 エデンの園では、食べ物は豊富で、人間は神の守りの中でのんびり暮せたのですが、楽園の外では、悪魔があらゆるワナを仕掛けています。
「生めよ。増えよ。地に満ちよ」と神様から祝福された人間は、増え続けます。しかし、食べ物は、いつも足りないのです。気候は不順で、天災は予期しない時に起こります。
 人には死と病気が入り、心には、貪欲や妬みや恐怖心が縄のように撚り合わされていて、ほかの人を「殺して」も、自分が生きようとするのです。


☆☆☆☆

 しかし、もし人が自分の隣人を憎み、待ち伏せして襲いかかり、彼を打って死なせ、これらの町の一つにのがれるようなことがあれば、(申命記19章11節)

 彼の町の長老たちは、人をやって彼をそこから引き出し、血の復讐をするものの手に渡さなければならない。彼は死ななければならない。(12節)

 彼をあわれんではならない。罪のないものの血を流す罪は、イスラエルから除き去りなさい。それはあなたのためになる。(13節)


 申命記で、悪意ある殺人に対する刑罰は厳しいものでした。ただし、神は殺人者に刑罰をお与えになると同時に、のがれの町も用意してくださったのです。
 十戒が告げられた直後に、出エジプト記21章の十戒の細則では、同じことが、さらに厳しいことばで命じられています。

 人が、ほしいままに隣人を襲い、策略をめぐらして殺した場合、この者を、わたしの祭壇のところからでも連れ出して殺さなければならない。(出エジプト記21章14節)

 神殿で(出エジプト当時は幕屋)ささげ物をささげるのは大変神聖な行為です。たとえその最中でも、(殺人の犯人とわかっていたら)連れ出して殺せと、命じられているのです。
 これほどまでに、厳しく処罰を執行されても、殺人事件は、もちろん、なくなりはしなかったでしょう。

 処罰に対して、悪魔は、より巧妙に人間をそそのかします。
 上手に仮面を被らせるのです。
 「虫も殺さぬ風情」と言った表現がありますが、「自分こそ品行方正で、神の戒めを堅く守っている」と装う人間が出てきます。
 イエス様の時代、律法学者、パリサイ人をなどの宗教的エリートをはじめ、多くの人が律法的に「正しい」生活をしようと、努力していました。それは、しばしば表面的な「繕い」になりました。

 そのような、偽善的態度を誇る人に対し、イエス様はおっしゃったのです。

「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。(マタイの福音書5章21節)」

 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、「最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。(22節)






posted by さとうまさこ at 00:40| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。