2011年07月13日

Coffee Break315 親に逆らう子(申命記21章18節~21節) 




 かたくなで、逆らう子がおり、父のいうことも、母の言うことも聞かず、父母に懲らしめられても、父母に従わないときは、(申命記21章18節)

 その父と母は、彼を捕らえ、町の門にいる町の長老たちのところへその子を連れて行き、(19節)

 町の長老たちに、「私たちのこの息子は、かたくなで、逆らいます。私たちの言うことを聞きません。放蕩で、大酒のみです」と言いなさい。(20節)

 町の人はみな、彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。あなたがたのうちから悪を取り除きなさい。イスラエルがみな、聞いて恐れるために。(21節)


 殺人犯は──とくに悪質な殺人犯は、死刑にすべきだと言う人は、今でも、案外多いでしょう。「目には目、歯には歯」は、時代を超えて、人の共感を呼ぶのです。
 けれども、いまどきは、親に逆らったからって、なぜ殺されなければいけないのか、と思う人も多いのではないでしょうか。

 親子だもの、喧嘩くらいするよ。子どもがちょっと身勝手だからといって、石打になるの。子どもを他人に訴え出て殺すなんて、そんな親はありなの。神様がそんな命令を出していいんですか。

 これは、私の知人がじっさいに言ったことばです。


☆☆☆☆
 
 親を大切にしようと言う倫理は、古今東西どのような社会にもあったのではないでしょうか。
 江戸時代の日本では、朱子学が幕府公認の学問でした。武士社会の秩序を守るのに、「親に孝、君に忠」の理念は、非常に尊重されたのです。武家の考え方は庶民にも及んで、上のものへの尊敬と従順、親への孝養が、社会を支える倫理でした。

 けれども、聖書の「父と母を敬え」は、たんなる社会秩序維持の倫理以上のものです。
 十戒は、全部、神のご命令なのです。神の目からご覧になって厭わしいことをしないよう、望ましいことをするよう戒められているのです。

 「父と母を敬え」が対人に関する戒めの、最初にあるのに注意したいと思います。
 神が私たちにくださった一番大きなもの、それは、私たちひとりひとりのいのちです。楽園を追放されて神の守りの外に生きる私たちは、苦しいことや悲しいこともありますが、同時に、それでも、生きていればこそ、喜びがあり、笑いがあり、楽しみがあります。
  
 私たちが生きているのは、神様がいのちをくださったからです。私たちは神様が創造してくださったいのちを、父と母を介していただいているのです。
 親が子どもをつくり、慈しんで育てるのは、本能のように見えますが、そのような本能自体、神様が親にお与えになったものなのです。


 かたくなで、逆らう子がおり、父の言うことも、母の言うことも聞かず、父母に懲らしめられても、父母に従わないときは・・・と、モーセが言う子どもは、親に逆らっているのではなく、いのちを下さった神に逆らっているのです。
 そのような子どもが石打にあうのは、神の民イスラエルがみな恐れるためなのです。

 
 私たちにはたくさんの不可解があります。けれども、自分が生きていること、自分のいのちはどこから来たのだろうかという疑問ほど、大きな不可解はないでしょう。
 あなたのお父さんとお母さんが別の人と結婚していたら、あなたは存在しなかったはずなのです。まさに、父親と母親の背後に神様が働いておられたのです。

 そのことに気づく時、「父と母を敬え」は、実感として迫ってくるのではないでしょうか。





posted by さとうまさこ at 00:27| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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