2011年07月16日

Coffee Break318 女性の立場(申命記24章1節~5節)


 

 人が妻をめとり夫となり、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなり、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ、

 彼女が家を出、行って、ほかの人の妻となり、

 次の夫が彼女をきらい、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせて場合、あるいはまた、彼女を妻としてめとったあとの夫が死んだ場合、

 彼女を出した最初の夫は、その女を再び自分の妻としてめとることはできない。彼女は汚されているからである。これは主の前に忌みきらうべきことである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に、罪をもたらしてはならない。(申命記24章1節~4節)



 この時代の女性に関するおきての中で、気がつくことがあります。

 すべて男性側から見た関係だということです。離婚は男性側から離婚状を出すことで成立します。妻の「恥ずべきこと」が理由ですが、それが何なのかは明確ではありません。夫の「恥ずべきこと」を妻が嫌がって離婚できるのかどうか・・・。その場合でも、最終的には夫の意思で離婚が成立したことでしょう。
 平凡な言葉ですが、古代イスラエルは、「現代の」私たちから見れば、「男社会」です。

 たとえば、処女で婚約者のいない女と寝た場合、男は彼女の父に銀50シュケルを払い、結婚しなければならない(22章28節29節)などは、むしろか弱い女性を守るおきてにも見えます。
 しかし、今の時代の女性なら、「私にも選ぶ権利がある。あんな人はいや」と、結婚を拒否するかもしれません。
  

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 男女問題が、男性の立場からしか述べられていないのは、女性に限らず、男性読者も気がつくと思います。そして、聖書は、男中心の思想であると、ひところのフェミニストのように指弾しそうになるのです。

 たしかに、かつてのフェミニズム運動は意味があったのです。
 というのも、女性が受身的立場であるのは、社会が男性中心の生産体制だったことが大きかったからです。

 古代の「男中心社会」の大きな要因は、男の腕力と体力がなければ生産活動ができなかったことです。農作業ひとつでも、いまのように便利な機械や重機はありません。家を建てるのも天幕を張るのも、井戸を掘るのも、家畜を追うのも腕力仕事です。しかも、しばしば敵と武器を振りかざして戦わなければなりません。
 男が経済力を担い、女はそのカサの下で暮らすことになるのです。経済力のない女は、どうしても弱い立場です。二番目三番目の妻は嫌だと思っても、ひとりで暮せなければ結婚することになります。

 もちろん、女性が男の腕力と経済力に守られて、楽に暮せていたのではありません。

 女性は、女性で、女でもできる仕事はどんな肉体労働でも従事したのです。
 イサクの妻になったリベカが、花嫁探しに来たアブラハムのしもべと会ったのは、井戸に水を汲みに来たときです(水汲みは重労働でした)。
 ヤコブが最愛の妻ラケルと出あったとき、ラケルは羊の群れを率いていました。
 モーセの妻チッポラはミディアン人の祭司の娘ですが、モーセが初めて彼女と会ったとき、やはり、羊の世話をしていたのです。家にしもべがいるような彼女たちでさえ、「楽々お嬢様」ではないのです。

 農作業もできるかぎりのことは、女性の分担でした。刈りいれ、脱穀、粉挽きやパン作り。織物は、ほとんどの社会で女の仕事でした。その上、女性には妊娠、出産、子育て(これは今よりはるかに、家族全体で担われていました)がありました。
 それでも、女が一族の上に立つのは、例外を除いては、難しい時代でした。

 フェミニストたちが要求した職場での男女機会均等などは、今のような機械文明、高度なIP社会で、重要な仕事の多くが、腕力の劣る女性にもできるようになったことが大きいのです。


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 神の御心は、最初にアダムとエバをおつくりになったときの様子でわかるように、もともと一夫一婦制が原則でした。
 ただ、すでに一夫多妻制が当たり前となって広く認められ、社会の構造も一夫多妻制の上に出来上がっていました。そこで、神は、モーセの時代の混乱した社会の中に、一夫一婦制を厳しく押し付けるのはよろしくないと判断されたのでしょう。神が私たちの現実に、「譲歩された」というのは、そのような意味です。(Coffee Break314)

 ほかに、もっと重要で、もっとしっかりと守らなければならない原則が、いくつも言い渡されている中のことですから、なおさらだったのです。

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 さいわい、神様の教えの多くが理解され、守られるような社会になるにつれて、一夫一婦の原則も徐々に理解されるようになっていきました。
 イエス様の時代には、ユダヤ人の中では一夫一婦制が一般的になっていたようです。

 現代のように、個人の人権が尊ばれ、男女同権が当然とされる時代の感覚で、数千年前の異文化の中での取り組みを、頭ごなしに批判するのは賢明ではないのです。





posted by さとうまさこ at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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