2011年07月20日

Coffee Break322 あなたの袋の中の重り石(申命記25章13節〜16節)




 あなたは袋に大小異なる重り石を持っていてはならない。(申命記25章13節)
 あなたは家に大小異なる枡を持っていてはならない。(14節)
 あなたは完全に正しい重り石を持ち、完全に正しい枡をもっていなければならない。あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生きるためである。(15節)
 すべてこのようなことをなし、不正をする者を、あなたの神、主は忌みきらわれる。(16節)


 袋に大小異なる重り石を持っているとは、どういうことでしょう。

 三千五百年前に、モーセが神の言葉を取り次いで言った重り石とは、今で言う「分銅」(秤などで物の目方を計る標準となるおもり、広辞苑)のことでした。ちなみにこのころの秤は、非常に単純な構造の天秤型だったようです。その一方に分銅を載せ、他方に量る物を載せたのです。

 重り石を使い分けると、物の目方が異なってくるのです。同じ魚一尾が、ある時は分銅5個、ある時は分銅四個になります。当然、値段が違ってきます。どうしてそのような使い分けをするのかといえば、相手により、時によって、同じものを高く売りつけることができる、つまり人を欺くためです。
 枡も同じです。同じ一升でも2パーセント少ないだけで、10升売れば、2合分不正ができるのです。
 そのようなことが行なわれては、まともな取引が成り立ちません。このため、古くからどのような国でも、枡や重りの基準を定めてきたのです。
 日本では、701年に発布された大宝律令で、すでに、枡の大きさが定められたそうです。また、明治以降、近年は国際規格との整合性も取り入れた計量法が作られています。
 

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 私たちが一番警戒する人は、どのような人でしょうか。また、安心して付き合うことができるのは、どのような人でしょうか。

 今の日本では、はかりをごまかす人などいないでしょう。
 しかし、目に見えないさまざまな判断の基準には、異なる重り石、枡、メジャーを持っていて、相手によって使い分ける人はいるのではないでしょうか。
 
 自分はまっすぐな人間だ。間違ったことを見ると、断乎抗議しないではいられない、という人がいます。
 同じ人が、強そうな相手、自分が得をする相手には譲歩します。また、弱者の味方だと自認して、社会運動などをしている人が、自分よりわずかに劣ったと思える人をばかにすることもあります。弱っている人を、さらに叩くような人もいます。
 電力の使用削減やゴミの減量なども、だれでも賛同します。行動でも、そのようにしたいと思います。ところが、自分自身には、「ここだけは」「これだけは自分へのごほうび」などという、例外を作ります。

 もちろん、他人事ではありません。私自身、見えない基準について、ゆるがないメジャーをもっていて、その通りに行なっているとは、とうてい言えないのです。


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 私たち人間は「生身」です。とても、制約の多い存在なのです。私の机の上には、教会の女子高生が、子どもクラスのときに作ってくださった、美しい折り紙のキューブが置いてあります。すでに、一年以上も置かれているでしょう。しっかり折って組み合わせてあるのですが、紙ですから握り締めたらつぶれるでしょう。

 私たち人間は、ある意味で、この紙のキューブより弱いのです。制約があります。私たちは生きている限り、一分間に何回も呼吸をしつづけなければなりません。毎日食べたり飲んだりしないといけません。眠らないと持ちませんし、寝ているよう強制されたら、これも拷問です。シャワーも必要ですし、トイレにも行きます。人に対しては、クレームが多いのに、孤独に弱く、傷つきやすく、人を簡単に傷つけます。
 
 
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 イエス様はおっしゃいます。

 裁いてはいけません。裁かれないためです。(マタイの福音書7章1節)
 あなたがさばくとおりに、あなたもさばかれ、あなたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。(2節)


 自己中心の都合に合わせた量りで、自分も量り返されると言うのです。こわいですね。

 申命記から三千五百年もたって、現在、物を量る計測器は進歩し、正確になり、信頼できるものとなりました。法律も整備されています。
 けれども、神様がモーセを通しておっしゃったのは、たんに重り石、枡のことだったでしょうか。 目に見える正義を、さらに目に見えない神の基準にまで、押し広げていくことだったのではないでしょうか。

 もちろん、神様は、人にはそのような「義」は、無理であることをご存知だったのだと思います。それゆえ、私たちの身代わりに、神さまみずから人となり、キリストとなられ、十字架で犠牲となって弱い私たちを救ってくださったのです。

 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。(ルカの福音書23章34節)

 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれたものなら、自分を救ってみろ。」(35節)

 兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄ってきて、酸いぶどう酒を差し出し、(36節)
 「ユダヤ人の王なら、自分を救え」と言った。(37節)







posted by さとうまさこ at 00:00| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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