2011年07月24日

Coffee Break326 親切なサマリヤ人と汚れ(ルカの福音書10章25節〜37節)




 ある人が、エルサレムからエリコに下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げていった。(ルカの福音書10章30節)

 有名な「親切なサマリヤ人」のたとえ話の一節です。
 この少し前の箇所で、ある律法学者が立ち上がってイエス様に質問します。

「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
 イエス様が公生涯に入って、活躍されていた頃、多くの祭司や律法学者がイエス様を陥れようと、虎視眈々と機会をうかがっていたのは、よく知られているところです。
 新しい預言者か、待望の救い主かと、日増しに人気の高まる、イエス様のことがねたましく、腹立たしくてしようがなかったのです。
 この質問も、そういう意図で、イエス様を試すために発せられたものです。

 たとえ話は続きます。


 たまたま、祭司がひとり、その道を下ってきたが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。(31節)
 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。(32節)

 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、(33節)
 
近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。(34節)

 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。(35節)


 たとえ話のあとで、イエス様は、律法学者の質問に質問でお答えになります。

「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」(36節)

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 もちろん、この答えはだれでもわかりますね。
 子どもでも答えのわかる質問を返してくるイエス様に、この人はきっと、ムカついたに違いありません。何しろ、彼は誇り高い律法学者なのです。
 同時に、彼は、内心、自分がよけいな質問をしたことを悔いたことでしょう。

 たとえ話の前段で、彼はイエス様と、次のような会話を交わしていたのです。

「何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
「律法には、何と書いてありますか。」
「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』
 また、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」
「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
「では、自分の隣人とはだれのことですか。」
 


☆☆☆☆

 この律法学者は、イエス様の日頃の言動を、快く思っていなかったに違いありません。収税人や売春婦など罪人といわれる人たちといっしょに食事をされるイエス様です。「隣人を愛するなど、異邦人(異教徒)でもそうしている。あなたがたは、敵を愛し迫害するもののために祈りなさい」などと、彼らの理解を超える教えを説いてまわります。

 律法学者は、「自分の隣人とはだれのことですか」と引っ掛けたつもりでしたが、イエス様に巧みなたとえ話でかわされてしまい、それ以上に・・・。

 ここで、倒れている人を見てみぬふりをして、通り過ぎたのは、律法学者の仲間である──宗教専門家──祭司とレビ人でした。
 一方、旅人を助けたサマリヤ人とは、彼らが軽蔑し、差別していた外国人だったのです。

 
 ☆☆☆☆

 でも、いまは、少しばかり、祭司とレビ人の身になって、その言い分を聞いてあげましょう。

 私たちは、昨日も汚れ(けがれ)について学びました。祭司や神の御用を仕事としているレビ人たちは、汚れが身にふりかかることを、特に恐れていました。万一にも死体に触れたりしたら、神殿での仕事ができなくなるのです。 参考・Coffee Break174~177

 旅人が死んでいたり、死ぬところだったりしてはいけないと恐れ、避けたのです。
 
 祭司が身を聖く保つのは、律法が出来たときは、崇高な意味がありました。しかし、イエス様が地上においでになった頃は、多くの律法と同様、戒めが人間性に優先して、ぎゃくに人間を縛るものになっていました。
 イエス様はそこを指摘されたのです。また、律法学者はそれゆえ怒り心頭だったのです。

 こうして、イエス様と宗教指導者たちとは、対立を深めていくのです。



posted by さとうまさこ at 00:00| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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