2011年08月01日

Coffee Break331 聖書の世界(ヨハネの福音書9章1節〜3節,創世記9章)




 また、イエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。(ヨハネの福音書9章1節)

 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。
「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」(2節)

 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」(3節)


 このイエス様のお答えは、画期的だと思います。ここから推測するに、聖書の世界を生きる人たち──当時のユダヤ人も、障害や病気を、因果応報的な罪の結果だと思っていたのがわかります。
 本人が何か悪いことをしたからだ。それとも親が悪いことをしたのだ。こういう発想は、とても簡単です。しかし、まさに、それゆえ、弱いものいじめではないでしょうか。
 障害を負って生まれただけでも苦しみなのに、その上、「罪がある」と言われるのです。
 仏教的土壌なのかどうか、私たちの子ども時代には、「前世に悪いことをしたから」と、前世からの因縁まで持ち出す人がいました。

「神のわざがこの人に現れるためです」の解釈はむずかしいのですが、イエス様は、この盲人に負わされた重い「くびき」をおろして上げたのです。

 事実、このあと、イエス様は盲人の眼を癒して、見えるようにして上げたのです。

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 聖書の意味するのろいは、神のさばきです。ですから、個人的な人から人への、のろいはありません。

 箱舟から出てきて、新しい生活を始めたノアにも、油断がありました。
 ある日、ノアは葡萄酒を飲んで酔い、天幕の中で裸で寝てしまいました。これを見たカナンの父ハムは、外にいる兄弟セムとヤベデに告げ口しました。ふたりは父の着物を取って後ろ向きに父に近寄り、着物をノアの体に掛けました。目が覚めて、ハムが父親を笑い者にしたことを知ったノアは、ハムのことを怒って言いました。

 「のろわれよ。カナン。
 兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」(創世記9章20節〜26節)
 

 このような場合でも、ノアが「のろわれよ。カナン」と言ったのは、ノアがのろいを与えるのではなく、神がのろいをくださるようにと言う意味なのです。
 このあたりは、聖書の示す「のろい」と、人から人へと呪う、「わら人形に五寸釘」の呪いとは、まったくちがいます。

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 聖書の世界は、霊であられる神の支配する世界です。みつかいと呼ばれる天使がいて、悪魔やその手下の悪霊も働いています。
 しかし、人が人をのろったり、たたったりすることはないのです。

 普通、巷でささやかれるような守護霊だの、背後霊だのはいません。宇宙と私たちをお造りになった全知全能の神さまが、私たち一人一人の、髪の毛の数まで知っていてくださるのです。(マタイの福音書10章30節)

 「私の目には、あなたは高価で尊い。
 わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43章4節)

 と言ってくださる神さまです。 

 前世の因縁や、ミミズを踏んだかもしれないことで、気に病む世界ではありません。
 もちろん、不必要に動物をいじめたり、自然を破壊してはなりません。すべて、神さまがお造りになったものなのですから。





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2011年08月02日

Coffee Break332 ヨルダン渡河を前に(申命記27章15節〜27節)



 
 申命記は、カナン入植のためのヨルダン渡河を目前にした、モーセのイスラエルの民への演説です。
 出エジプトから四十年、荒野の旅を終え、ヘシュボンやパシャンの王も滅ぼし,その地はすでにルベン人とガド人、マナセの半部族に割り当てられています。
 ヨルダン渡河は、これら、すでに土地(相続地という)を与えられた部族も兵を出すことになっていて、イスラエルは、神の約束どおり、また神の命令どおり、カナンに入ろうとしているのです。カナンでは激しい戦いが予想されています。何より、偶像崇拝をする異教徒の地です。イスラエルより進んだ鉄の戦車や武器を持った国々です。


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 私が、きょう、あなたに命じるすべての命令をあなたがたは守り行なわなければならない。そうすれば、あなたがたは生き、その数はふえ、主があなたがたの先祖たちに誓われた地を所有することができる。(申命記8章1節)

 モーセの長い演説では、軍事戦略的なことはほとんど述べられません。「主の命令を守り行なう」なら、「先祖に神が誓われた地にはいることができる」と言うのです。それは、ひとくちで言えば、主への従順です

 そうすれば、主は、焼き尽くす火として、あなたの前を進まれ、主が彼らを根絶やしにされる。主があなたの前で彼らを征服される。のです。(9章2節)

 カナンにイスラエルの民を入れるというのは、主がイスラエルの先祖に誓われたご計画ですが、イスラエルがどのような心構えでも、主がイスラエルを勝たせてくださるのではないのです。

 27章15節からの、「のろいを招く行為」は、このような剣が峰で、イスラエルの民がどのような心構えでいなければならないのか、「のろわれる」例で戒めています。


「職人の手のわざである、主の忌みきらわれる彫像や鋳像を造り、これをひそかに安置する者はのろわれる。」民はみな、答えて、アーメンと言いなさい。(申命記27章15節)

「自分の父や母を侮辱する者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。(16節)
「隣人の地境を移すものはのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。(17節)
「盲人に間違った道を教えるものはのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。(18節)
「在留異国人、みなしご、やもめの権利を侵す者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。(19節)

「父の妻と寝る者は、自分の父の恥をさらすのであるから、のろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。(20節)
「どんな獣とも寝る者はのろわれる」民はみな、アーメンと言いなさい。(21節)
「父の娘であれ、母の娘であれ、自分の姉妹と寝る者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。(22節)
「自分の妻の母と寝る者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。(23節)

「ひそかに隣人を打ち殺す者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。(24節)
「わいろを受け取り、人を打ち殺して罪のない者の血を流す者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。(25節)

「このみおしえのことばを守ろうとせず、これを実行しない者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。(26節)


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 偶像礼拝への警告は、出エジプトのシナイ契約以降、申命記まで、くりかえし出てきます。
 イスラエルの民は、彼らの父祖の神、アブラハム・イサク・ヤコブの神にエジプトから救い出していただき、シナイで契約を結 び、神、主と、「互いに愛し合い、信頼し会う夫婦」のような誓いをしたのです。ほかの神々を拝むのは、神の愛への裏切り、契約への違反です。
 申命記6章5節、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」は、イスラエルの民が永劫まで守るべきおきて中のおきてです。
 そして、新約の民であるクリスチャンが、いつも心に灯しているあかりです。

 16節から19節までは、「隣人を愛しなさい」に入るものです。
 十戒の「盗んではならない」に相当する戒めが、「地境を移してはならない」と限定されています。
 
 注目すべきは、「性的禁忌」にあたるものが、4つも上がっていることです。ここに挙がっているような性的乱れは、単なる姦淫よりはるかに、人間性の尊厳を損なうものばかりです。
 また、「殺してはいけない」に入るおきてが二つ出されています。「わいろを・・・」の方は明らかに権力者(つかさ、さばきつかさ)への戒めです。
 民のつかさが、さばきを曲げるのは、社会を腐敗させる元です。

 大きな戦いを前にして、何よりも、イスラエルの民の団結と足並みを乱すものが上げられているのがわかります。
 
 最後に、「アーメン」(そのようになりますように)と答えさせて、命令を確認しているモーセに、カナンでの同胞を思う深刻さを感じます。

 モーセは、ヨルダンを渡ることなく死ぬからです。







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2011年08月03日

Coffee Break333 祝福(申命記28章1節〜13節)




 申命記28章では、祝福やのろいが、どのようなものかが語られます。
 まず、「祝福」を見てみましょう。
 
 もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行なうなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。(申命記28章1節)
 あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。(2節)

 あなたは、町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。(3節)


 町にあっても野にあっても祝福されるとは、どこで、何をしても、良い結果になると言うことです。

 あなたの身から生まれる者も、地の産物も、家畜の産むもの、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も祝福される。(4節)

 良い子どもたちに恵まれ、子どもたちは出世し、畑を持つものは十分な収穫があり、家畜を持つものは家畜が順調に繁殖するのです。

 あなたのかごも、こね鉢も祝福される。(5節)

 かごは収穫物を入れてもって帰ってくるものですから、「収入」。こね鉢は大麦や小麦の粉をこねる鉢で、パンを作るためのものですから、「消費生活」を意味しています。収入がたっぷりあって、そのために十分な消費生活が楽しめるのは、やはり大きなさいわいです。

 あなたは、入るときも祝福され、出て行くときにも祝福される。(6節)

 外で悪い出来事に会えば、肩を落として帰ってくることになります。家の中に悪いニュースがあれば、明るく元気で出かけることはできません。元気に帰宅できて、元気に出かけられるのは、しあわせな生活です。

 主は、あなたに立ち向かって来る敵を、あなたの前で敗走させる。彼らは、一つの道からあなたを攻撃し、あなたの前から七つの道に逃げ去ろう。(7節)

 これは、文字通り戦争や略奪のためにやってくる敵と考えることも、いわゆる「人生の困難」を例えているのだとみるのも可能です。いずれであっても、強大な敵が向かってきてさえ、彼らは散り散りになって敗走していくというのです。「七」は、イスラエルでは完全数を意味しますので、「七つの道に逃げ去る」とは、日本語では、「四方八方に逃げる」「散り散りになって逃げる」ことです。

 主は、あなたのために、あなたの穀物倉とあなたのすべての手のわざを祝福してくださることを定めておられる。あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたを祝福される。(8節)

 穀物倉は、今なら銀行の預金口座でしょう。手のわざは、もちろん、「仕事・職業」です。そのような仕事の場も主が与えてくださって、そこで、なにもかもうまくいくのです。

 あなたが、あなたの神、主の命令を守り、主の道を歩むなら、主はあなたに誓われたとおり、あなたを、ご自身の聖なる民として立てて下さる。(9節)

 主の聖なる民については、申命記26章18節19節に、書かれています。

  主は、こう明言された。あなたに約束したとおり、あなたは主の宝の民であり、あなたが主のすべての命令を守るなら、(18節)
 主は、賛美と名声と栄光とを与えて、あなたを主が造られたすべての国々の上に高くあげる。そして、約束のとおり、あなたは、あなたの神、主の聖なる民となる。(19節)


 地上のすべての国々の民は、あなたに主の名がつけられているのを見て、あなたを恐れよう。(10節)

 「主の聖なる民」と呼ばれているあなたを見たとき、地上のだれもがあなたを恐れ、敬う。それゆえ、最初から、「闘争」や「挑戦」を諦めてくるのです。あなたは平安の中を生きることができるのです。

 主が、あなたに与えるとあなたの先祖たちに誓われたその地で、主は、あなたの身から生まれる者や家畜の生むものや地の産物を、豊かに恵んでくださる。(11節)

 すでにあなたが得ているもの──子どもたちや、家畜や、収穫は、さらに豊かになるというのです。

 主は、その恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。それで、あなたは多くの国々に貸すであろうが、借りることはない。(12節)

 これだけ科学技術が発達したこの時代であっても、天候は人の手で変えられないもののひとつです。大規模な熱帯雨林の伐採や、コンクリートジャングルの巨大な都市の出現で、気候変動が起こっていると言われますが、それは、私たち人間が望んでいる「良い変化」ではありません。
 気候変動は、じつは、生産活動の息の根を抑えているのです。
 とくに、ほとんどの人が、農業や牧畜、漁業などに従事していた聖書の時代、太陽が照る日数、雨の量で、たちまち収穫に影響し、喜びや苦しみの原因になったのです。
 最適な気候状態で、豊作になり、家畜が増えたとき、民はまさに、「天が恵の倉を開いて下さった」と実感したにちがいありません。
 そして、豊かになると、借りる側ではなく、貸す側になるのです。これも、昔から「幸せの形」のひとつだったようです。
 
 私が、きょう、あなたに命じるあなたの神、主の命令にあなたが聞き従い、守り行なうなら、主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせない。ただ上におらせ、下へは下されない。(13節)

 これらの祝福の結果、あなたは人の上にたち、人に踏みにじられたり、蔑まれたりしなくてすみます。


 それにしても、祝福とは、「すごい現世利得だ!」と思われるでしょうか。クリスチャンらしくない用語ですが、「ご利益のオンパレード!?」。
 これだけのご褒美をいただけるとわかっていても、イスラエルの民は、神のことばに聞き従うことができなかったのでしょうか。

 明日は、このあとの、申命記28章14節から68節まで延々と述べられている「のろい」について、見てみましょう。









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2011年08月04日

Coffee Break334 祝福の前提(申命記28章14節〜20節)




 申命記28章1節から13節に見る「祝福」は、なんとすばらしいことでしょう。どこへ行って何をしても成功し、仕事は順調に広がり、豊かになり、家族はふえ、世間からは尊敬を受ける。かりに、敵対してくる人がいても、あなたにはかなわなくて、ほうほうの体で逃げていく──。豊かなので、人に貸したり、人の世話をする側になっても、借りる側にはならない。

 神さまがひとたび、祝福してくださると、まさに行くところ敵なし、挫折も悲しみも近寄らないのです。
 何しろ、天地万物を創造された神さまです。私たちのいのちも地上のすべてのいのちも、生み出してくださった方です。海の水を分けて、イスラエルの民六十万人に乾いた海の底を通らせてくださったのです。マナを降らせ、岩から水を出し、大量のうずらを飛来させることがお出来になる方です。
 「かごやこね鉢を祝福する」など、小さなことです。天を開いて、恵みをくださるのも簡単ではないでしょうか。


☆☆☆☆

 あなたは、私が、きょう、あなたがたに命じるこのすべてのことばを離れて右や左にそれ、ほかの神々に従い、それに仕えてはならない。(14節)

 神からのさまざまな祝福を述べた後、モーセはふたたび、民に、自分たちをエジプトから救い出し、シナイで契約を結んでくださった神、主に従順であるよう、ほかの神々に従うようなことがないよう言い聞かせます。

 もし、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行なわないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。(15節)

 あなたは町にあってものろわれ、野にあってものろわれる。(16節)
 あなたのかごも、こね鉢ものろわれる。(17節)
 あなたの身から生まれるものも、地の産物も、群れのうちの雌羊ものろわれる。(18節)
 あなたは、入るときものろわれ、出て行くときにものろわれる。(19節)


 「のろい」になると、すべて、祝福の結果と、正反対になります。

 どこに住んでものろわれ、収入がなく、消費を楽しむことはできない。一所懸命働いて生活を作ろうとしても、子どもも思うように育たず、収穫もはかばかしくなく、せっかく生まれた雌羊も死んでしまうと言った具合です。
 外で、良いことがないので、肩を落として帰宅し、家ではまた争いや悩みがあるので、明るく笑って出かけることもできません。
 そして、ついには、滅ぼされてしまうと言うのです。
 
 主は、あなたのなすすべての手のわざに、のろいと恐慌と懲らしめとを送り、ついにあなたは根絶やしにされて、すみやかに滅びてしまう。これはわたしを捨てて、あなたが悪を行なったからである。(20節)

 主は、疫病をあなたの身にまといつかせ、ついには、あなたが、入っていって、所有しようとしている地から、あなたを絶滅させる。(21節)


☆☆☆☆

 
 お寺や神社で、立札を立てて、「霊験」を列記しているのを見ることがあります。安産、病気快癒、良縁、財政運、その他いろいろなことに、「効能がある」神さまというわけです。さらに、霊験、ご利益のために、お祓いや祈願をしてくれるところもあります。
 しかし、ここに、「もし、あなたが、この神に従わないならのろいを置く」とでも書いたら、たぶん、まもなく、そこには参詣客はいなくなるのではないでしょうか。
 私たちの国には、神さまはたくさんいらっしゃるのですから、何も、そんな「難しい」神さまのところへ行かなくてもよいわけです。
 
 「さわらぬ神にたたりなし」と言うことばがあります。これは、神さまに「難しさを感じた」ときに言う言葉だったのかもしれません。自分たちが欲しいのはご利益です。求める時に自分に都合の良いことをしてくださる神様です。けれども、神様には、どこか厳しいところもおありになると、どこかで感じているのではないでしょうか。それで、そのような「厳しい神様」に対しては、近づいてはいけないと用心するのです。
 誰も、神様の前で正しいと言いきれる自信がないからです。

 でも、さわらないつもりでも、近づかないつもりでも、天地万物を創造された神様は、すでに私たちに触れてくださっているのです。私たちはみんな、神様によって造られたからです。
 

 





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2011年08月05日

Coffee Break335 のろいの前提(申命記28章22節〜)




 主は、肺病と熱病と高熱病と悪性熱病と、水枯れと、立ち枯れと、黒穂病とで、あなたを打たれる。これらのものは、あなたが滅びうせるまで、あなたを追いかける。(申命記28章22節) 

 またあなたの頭の上の天は青銅となり、あなたの下の地は鉄となる。(23節)
主は、あなたの地の雨をほこりとされる。それで砂ほこりが天から降って来て、ついにはあなたは根絶やしにされる。(24節)

 主は、あなたを敵の前で敗走させる。あなたは一つの道から攻撃するが、その前から七つの道に逃げ去ろう。あなたのことは、地上のすべての王国のおののきとなる。(25節)

 あなたの死体は、空のすべての鳥と、地の獣とのえじきとなり、これをおどかして追い払う者もいない。(26節)


 モーセは、のろいについて、申命記28章14節から68節にわたって語っています。どれも、三千四百年ほど前のイスラエルの民に語られたものですから、現代の問題とは違いますが、とても悲惨なものばかりです。
 22節に列挙されているような病気は、現代ではほとんど治るものかもしれません。しかし、時代が新しくなれば、また、新しい恐ろしい病気が生まれています。

 天が青銅、地は鉄と言うのは、大きな鉄の牢に閉じ込められている姿を思わせます。

 雨の代わりに砂が天から降って来て、人は根絶やしにされる・・・。ありえないことではない光景です。
 敵と戦っても、散り散りに逃げなければいけなくなるのです。しかも、死んだあと、その死体は、野獣や野鳥の餌食となっている。ても、家族や近隣の人も死んだのか、誰も追い払う人がいない。埋葬されないのは、当時も大きな不孝だったのがわかります。

 主は、エジプトの腫物と、はれものと、湿疹と、かいせんとをもって、あなたを打ち、あなたはいやされることができない。(27節)

 主はあなたを打って気を狂わせ、盲目にし、気を錯乱させる。(28節)

 あなたは、盲人が暗やみで手さぐりするように、真昼に手さぐりするようになる。あなたは自分のやることで繁栄することがなく、いつまでも、しいたげられ、略奪されるだけである。あなたを救う者はいない。(29節)



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 聖書のこのような箇所を取り上げて、このような悲惨な「のろい」が、なぜ神から来るのかと、批判をする人がいます。神さまは、人間に取って都合の良いこと、ご利益だけを下さると思っていると、なお、憤然とするかもしれません。日本人は無神論者が多いと言われますが、目先のご利益を求めている人は、当然、「神様はいない」との結論になるでしょう。
 私たちの生きている世界は、ユートピアとほど遠い不公平があり、天国とほど遠い痛みや争いや憎しみがあり、災害があり、病気があり、死があります。医学は進み、政治のシステムも改良され、福祉もありますが、根本的に問題が解決されたわけではありません。 

 東日本大震災のあと、「神様がいるなら、どうしてあんなことが起こったのだ」と言う声がありました。また、「これは、のろいだ!」と言って回った自称宗教家もいたとか。けれども、東日本大震災が、申命記のこの箇所で語られる「のろい」とは、何の関係もないのは、自明です。


 モーセがここで、祝福とのろいを列挙して警告しているのは、旧約のイスラエルの民に対してです。
 神、主が、イスラエルをエジプトから救い出してくださり、シナイで契約を結んでくださったのは、彼らの父祖アブラハムに約束したように、彼らをカナンにいれ、祝福される民にし、彼らから、最終的に全人類が救いに入ることができるようになるためでした。

 イスラエルは、弱小の民で、エジプトで奴隷でしたが、神が一方的に愛して下さり、栄誉ある「聖なる民」に選んでくださったのです。数々の奇蹟としるしを顕して、彼らをカナンまで連れてこられたのです。
 だから、モーセは、神が契約の時に下さったおきてと戒めを守り、神への従順を守るよう、何度も念を押しているのです。


 ☆☆☆☆

 しかし、イスラエルの民は、神の戒めにしばしば違反するのです。そうして、モーセが警告した「のろい」を、その身に経験して苦しみました。

 あなたは、包囲と、敵がもたらす窮乏とのために、あなたの身から生まれた者、あなたの神、主が与えてくださった息子や娘の肉を食べるようになる。(53節)と言ったことさえ現実になるのです。(U列王記6章28節29節参照)

 「聖なる民」は、鍛錬されるべき民でした。神の罰を何度も体験しながら、侵略され、捕囚に連れ去られ、互いに離散の憂き目を見、自分たちの神殿が破戒される、そのような悲惨な状況で、イスラエルの民の信仰は、精練されていったのです。


 メシア(キリスト)を待ち望む民の中に、二千年前、ついにイエス様がお生まれになりました。そして、三十三年後、神さまはご自身(御子)を十字架につけて、イスラエルの民だけでなく、全人類の贖いをしてくださったのです。

 私たちは、いま、救われるために、厳しい律法やおきてを守る必要はなく、したがって、のろいを負うこともありません。ただ、信じる信仰だけで、神の恵みと祝福を受け、永遠のいのちまでいただけるのです。

 もちろん、この世はまだ不完全です。病も死もあり、災害もあります。しかし、それはアダムとエバが楽園を追放されて、神の守りの外に出たときからあるものです。申命記で、モーセが注意を促した律法にともなう「のろい」とは、関係がないものです。 






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2011年08月06日

Coffee Break336 草は枯れ花はしぼむ(イザヤ書40章8節)






     

    暑中お見舞い申し上げます。




    
     暑くて熱中症になりそうな毎日です。
 
     三十℃を超えると、ぐったりし、
     0℃を切ると、肩をつぼめて寒がる。
     自分はなんと、もろい存在かと思います。

     だから、聖書を開きます。





     草は枯れ、花はしぼむ。
   だが、私たちの神の言葉は永遠に立つ。
          (イザヤ書40章8節)














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2011年08月07日

Coffee Break337 モアブ契約(申命記29章1節〜19節)




 これは、モアブの地で、主がモーセに命じて、イスラエル人と結ばせた契約のことばである。ホレブで彼らと結ばれた契約とは別である。(申命記29章1節)

 ここでいう「これは」は、申命記5章の十戒の復唱から、28章までです。さまざまなおきてと戒めを出エジプト記、レビ記から再録し、モーセが民に言い聞かせる形となっています。
 これは、モアブの野で行なわれた契約なので、「モアブ契約」と呼ばれ、ホレブで結ばれた「シナイ契約」とは別であると、断っています。「別」の意味は、契約の対象になっているイスラエルの民の世代交代があったための「更新」ということでしょう。
 シナイ契約の時、二十歳以上だったものは、モーセとヨシュアとカレブを除いて一人もいなくなったので、モーセはカナンに入る前に、神様とイスラエルの間で「モアブ契約」を結びなおしたと、民に語っているのです。
 
 
 あなたがたは、この契約のことばを守り、行いなさい。あなたがたのすることがみな、栄えるためである。(9節)

 きょう、あなたがたはみな、あなたがたの神、主の前に立っている。すなわち、あなたがたの部族のかしらたち、長老たち、つかさたち、イスラエルのすべての人々、(10節)

 あなたがたの子どもたち、妻たち、宿営のうちにいる在留異国人、たきぎを割る物から水を汲むものに至るまで。(11節)


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 さきに主が、あなたに約束されたように、またあなたの先祖アブラハム・イサク・ヤコブに誓われたように、きょう、あなたを立ててご自分の民とし、またご自身があなたの神となられるためである。(13節)

 きょう、ここで、私たちの神、主の前に、私たちとともに立っている者、ならびに、きょう、ここに、私たちとともにいない者に対しても結ぶのである。(15節)


 「ここにいない者」の意味は、これから生まれるイスラエルの民を指しているのです。モーセは死に、カナンに入る世代もやがては死に絶えて、次の世代に、契約を継承していくわけです。

 人間は神に似せて造られ、神さまと語り合いたいという特別な本能があります。そのうえ、他の動物にはない圧倒的な能力で知的知識や経験を蓄えて継承し、文明を発達させてきました。
 それにしては、案外、愚かで、個人としても、国や民族、家族としても、間違いばかり犯すのです。
 ですから、だれも、この時のイスラエルの民を笑うことはできません。同じ契約を、親から子に代替わりしたら、また結びなおすのをくどいとはいえません。

 
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 きのう、八月六日は、広島に原子爆弾が投下された日でした。日本人なら誰も知らない人はない歴史的事実です。
 広島市の平和記念公園は修学旅行のコースにもなっていて、訪れたことがある人は少なくないでしょう。公園内の原爆死没者慰霊碑の石室前面には、「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」と刻まれています。
 
 記念碑の前に立つと,私たちは厳粛な気持になり、人類は絶対に戦争を起こしてはならない。核兵器をもってはならないと思うのです。日本では核兵器を保有するかどうかで、過去幾度も論争がありました。
 さいわい、日本は、戦後、どこの国とも直接の交戦をしていません。しかしながら、核兵器を保有している国は多く、地球上の全人類を何度も殺せるほどの核爆弾が、いま、地球上にあるのは既成の事実です。

 お互いに核兵器を持っている方が、「抑止力」が働いて戦争が起こりにくいなどと言う理屈を言われると、軍事や国際政治のことがよくわからない一市民としては、もう太刀打ちできない事態だと思うばかりです。


 こののろいの誓いの言葉を聞いたとき,「潤ったものも渇いたものもひとしく滅びるのであれば、私は自分のかたくなな心のままに歩いても、私には平和がある」と心の中で自分を祝福するものがあるなら、(19節)

 主はその者を決して赦そうとはされない。むしろ、主の怒りとねたみが、その者に対して燃え上がり、この書にしるされたすべてののろいと誓いがその者の上にのしかかり、主はその者の名を天の下から消し去ってしまう。(20節)


 どうせ、滅びるなら、自分のやりたいように生きて楽しもうというのが、ここでの「自分を祝福する」の意味です。
 問題があまりにも深刻な場合だけでなく、楽しめるから楽しいことに流れて、神を忘れることを、神さまは重ねて戒めておられます。

 いまのような繁栄と危機が背中合わせの時代、このみことばは、時代を超え、国を超え、民族を超えて、真実ではないでしょうか。
 律法から解放され、イエス様の新しい契約の光の中にいる私たちは、モアブ契約の時の、イスラエルの民より、はるかに見通しの良い地平にいるはずです。
 神さまを恐れましょう。
 








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2011年08月08日

Coffee Break338 モーセの心残り(出エジプト記、申命記)




 申命記も終りに近づいてきました。申命記は律法の書(モーセ五書)の五番目の書物ですから、まもなく律法の書全巻が終わることになります。
 申命記は、モーセの遺言演説です。第四十年の第十一月の一日に、この演説が行なわれたと記されています。(申命記1章3節) 


 私は、きょう、百二十歳である。もう出入ができない。主は私に、「あなたはこのヨルダンを渡ることができない」と言われた。(31章2節)

 出エジプト記の初めから登場してきたモーセも、カナンには入れないと、神さまから申し渡されているのです。出エジプト、荒野の四十年の物語は、その壮大さにもかかわらず、主要登場人物はさほど多いわけではありません。預言者として神のことばを取次いで、イスラエルの民を率いて来たモーセは、圧倒的なリーデング・キャラクターです。

 アロンが死ぬときも感慨がありましたが、モーセの生涯がここで終わるのは、人間的に見れば、残念な気がするほどです。しかし、それゆえ、モーセの偉大さが際立ち、それ以上に、神のご計画の比類のない奥深さに気づかされるのです。
 ここで、私たちは改めて、「聖書の主役は神」という出発点を思い出すのです。


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 長くモーセと付き合ってきたせいで、私の頭の中にはモーセのイメージが、たしかにふくらんでいるのです。 ただ、冷静に振り返れば、出エジプト記以来、モーセの肉体的特徴について、直接には、何一つ書かれていないのです。
 たぶん、髪は黒かったでしょう。少し縮れていたかもしれません。肌は日焼けで浅黒かったかもしれません。鼻は高く、上背があって、筋肉質のからだ──なんのことはない、映画「十戒」チャールトン・ヘストンの特徴だったりします。

 性格はどうでしょう。神の預言者として、六十万の民を率いる男といえば、ふつうは強烈な個性の、強い人間を思い浮べます。神に選んでいただけるのですから、清廉潔白で、正義感が強い? 神にひたすら従順なのですから寡黙な雰囲気──げんに、彼は自分は口下手ですと、神の召命を一度は断わっています。

 しかし、八十歳で召命を受けるのですから、強健な人だったでしょう。エジプトの王女の息子として育てられたのですから、どこか気品が漂っていたに違いありません。


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 はっきりしていることがあります。最初のうち、モーセは、神の預言者としての立場に戸惑いや弱気を見せています。(出エジプト記3章、4章) その次は、ただ、ひたすら一所懸命、必死に使命を遂行する姿に変えられます。(出エジプト記5章〜18章)
 やがて、確信をもった神のしもべとなり、従順な神の預言者に成長していきます。

 シナイ(ホレブ)では、神から呼ばれて、「顔と顔をあわせて」神にお会いし、十戒の「石の板」を授けられています。シナイ契約においては、イスラエルの民の代表です。
 出エジプトの救いの重み、アブラハム・イサク・ヤコブの神との契約の意味を、真に理解していたのはモーセと、その側近(数人?)だけのように見えます。

 聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。(申命記6章4節)
 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(5節)
 私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。(6節)


 この力強い命令は、モーセの「荒野の四十年」の鍛練が結実したものです。
 とはいえ、モーセの神信仰と民のそれとの間には、あまりにもへだてがありました。


 私があなたの前に置いた祝福とのろい、これらすべてのことが、あなたに臨み、あなたの神、主があなたをそこへ追い散らしたすべての国々の中で、あなたがこれらのことを心に留め、(申命記30章1節)
 あなたの神、主に立ち返り、きょう、私があなたに命じるとおりに、あなたも、あなたの子どもたちも、心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うなら、(2節)
 あなたの神、主は、あなたの繁栄を元どおりにし、あなたをあわれみ、あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める。(3節)

 まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。(11節)
 これは天にあるのではないから、「だれが、私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちに聞かせて行わせようとするのか」と言わなくてもよい。(12節)
 また、これは海の彼方にあるのではないから、「だれが、私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか」と言わなくてもよい。(13節)


 演説の終わりの頃になっても、このように繰り返し、噛んで含めるように説明しなければならない民を置いて逝くのは、モーセにとって、どれほど心残りだったことでしょう。





 聖書は新改訳聖書を使わせていただいています。





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2011年08月09日

Coffee Break339 心の割礼(申命記10章16節、30章6節、ローマ人への手紙2章29節)




 たとい、あなたが、天の果てに追いやられていても、あなたの神、主は、そこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻す。(申命記30章4節)

 あなたの神、主はあなたの先祖たちが所有していた地にあなたを連れて行き、あなたはそれを所有する。主はあなたを栄えさせ、あなたの先祖たちよりもその数を多くされる。(5節)

 あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。(6節)


 申命記10章16節に、すでに、「心の包皮を切り捨てなさい。もう、うなじのこわい者であってはならない。」とあります。(Coffee Break281参照)
 「心の包皮」は、「男性器の包皮」に対応することばとして使われています。

 性器の包皮を切り取る、すなわち、割礼は、アブラハムが「天地を創造された神、主」と契約したときの「契約のしるし」でした。(創世記17章10節〜14節) 肉体を傷つけて刻印をすることで、神との契約の証拠としたのです。

 しかし、出エジプトから、荒野の旅に入ったイスラエルの民は、肉体への刻印(割礼)にもかかわらず、神に従順を貫くことができませんでした。
 神に聞き従うかどうかは、究極的には、心の問題です。それで、モーセは、心の割礼を命じたのです。

 「うなじのこわい者」は、頑固、頑迷で神に聞き従わない。なかなか神の命令が心に届かない者と言う意味です。じっさいにうなじが固いのではなく、心がかたくなな形容なのです。


 申命記10章16節「心の包皮を切り捨てなさい。もう、うなじのこわい者であってはならない」は、モーセの命令でした。文脈を見ると、心の包皮を切り捨てて、神へ従順を意志的に選ぶよう言い聞かせているのです。

 30章では、「たとえ、神ののろいを受けて散らされても、神に立ち返れば、神様はもう一度イスラエルの民を集めて下さる」との文脈で語られています。ですから、その時は、「あなたの主、神が、あなたとあなたの子孫の心を包む皮を切り捨て(させ)る」と、神からの働きかけの意味になっています。

 「間違いを犯してのろいを下されることがあっても、何度でも神様に立ち返って、心を尽くし、精神を尽くして御声に従うよう」モーセは、民に促しているのです。
 そうしていれば、最後には、忍耐強く、愛にあふれた神様は、頑固で蒙昧な民を、神様ご自身の力で変えて下さるというのです。(下線筆者)


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 申命記の時代から、千四百年ほど後のことです。パウロはローマ人への手紙で、次のように書きました。


 もし、律法を守るなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、あなたの割礼は、無割礼になったのです。(ローマ人への手紙2章25節)

 もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。(26節)

 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。(28節)

 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です
 その誉れは、人からではなく、神からくるものです。(29節)
(下線筆者)


 それにしても、モーセは、やはり、稀有な預言者だと言わざるを得ません。






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2011年08月10日

Coffee Break340 いのちを選びなさい(申命記30章19節)




 私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。(申命記30章19節)
 
 申命記を通して、モーセがイスラエルの民に繰り返し語っているのは、「いのちを選びなさい」に尽きます。いのちの反対は死、滅びです。神へのそむきは「滅び」にいたる道であると、何十回も警告しています。


☆☆☆☆ 
 
 聖書は、人の死について、あまり感傷的に扱っていません。死の記録のほとんどは、「死んだ。」と記されているだけです。埋葬された記録がある人のほうが少ないのです。(アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、ミリアム)。神に取られたエノク(創世記5章24節)や、たつまきに乗って天にのぼったエリヤ(U列王記2章11節)は異例です。

 時代が下るにつれ、残虐な殺され方をした王の記録など、死の痛ましさや苦しみ、悲しみも書かれます。
 けれども、申命記までを考えると、モーセの死でさえ、どこか現実離れした世界です。六十万の同胞を、エジプトから連れ出し、四十年間、まさに献身的な民のリーダーであり続けたのに、その墓の場所もわからないと記されているのです。

 聖書は、子孫繁栄を大切にする世界です。モーセも、ミディアン人の妻チッポラとの間に息子ゲルショムを儲けています(出エジプト記2章22節)。シナイでは、息子はふたりになっています。(出エジプト記18章6節) ところが、その後の彼らの消息は、聖書に出てきません。

 アロンは、祭司の職を代々子孫に伝えることができましたが、モーセはきっちり一代かぎりで、役割を終えて、何一つ権力の痕跡を残していないのです。


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 聖書は、いのちについては、死に比べて多くの字数を割いています。
 神は、天地創造の時に、たくさんの動物と男女一対の人間をお造りになり、「生めよ。ふえよ。地を満たせ」と祝福してくださったのです。

 人は、その妻エバをしった。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た」と言った。
 彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。(創世記4章1節2節)


 このあと、長い系図が何度も出てきますが、これは死による代替わりの記録ではなく、生まれてきた者の記録、一族のいのちの記録として書かれています。


 アブラハムとサラが、息子イサクを得るまでの長い物語。ヤコブの妻たちが競うように子どもを儲ける様子も、主がアブラハムにお約束になったようにイスラエルの民が増え、カナンでさらに栄えるまでのシナリオであったのでしょう。

 イスラエルの民が、「いのちを選び取る」のは、神の人類救済計画のために、絶対必要でした。

 モーセがそのような、壮大な神の御心の全貌を理解していたかどうかは、わかりません。
 ここでも、彼が稀有な予言者だったことを示すことばが残っています。

 隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現されたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、あなたがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。(申命記29章29節)






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