2011年08月11日

Coffee Break341 強くあれ雄々しくあれ(申命記31章1節〜8節)




 それから、モーセは行って、次のことばをイスラエルのすべての人々に告げて、(申命記31章1節)
言った。
 私は、きょう、百二十歳である。もう出入ができない。主は私に、「あなたは、このヨルダンを渡ることができない」と言われた。(2節)

 あなたの神、主ご自身が、あなたの先に渡って行かれ、あなたの前からこれらの国々を根絶やしにされ、あなたはこれらを占領しよう。主が告げられたように、ヨシュアが、あなたの先にたって渡るのである。(3節)

 主は、主の根絶やしにされたエモリ人の王シホンとオグおよびその国に対して行われたように、彼らにしようとしておられる。(4節)

 強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず,あなたを見捨てない。(6節)


 モーセの演説は、いよいよ終局に入ってきました。
 申命記31章では、モーセと民との決別の場面に移ります。
 モーセがヨルダンを渡ることができないために、民に動揺が起こるのは避けられないことだったのでしょう。それで、モーセはまず、民を励ましています。
 ヨシュアが、モーセに代わってイスラエルの民のリーダーとなることを告げ、それは、主が告げられたことだから、主はヨシュアと共にイスラエルの民の前を進まれ、エモリ人の王たちを滅ぼしたように、敵を滅ぼしてくださると言うのです。

 強くあれ。雄々しくあれ・・・。
 これは、このままで、いまでも使えそうなエールです。私たちは、戦場にいるのではありませんが、ふつうの人生が恐ろしい戦いの様相を帯びてきて、どのように突破しようかと恐怖を覚える時に、この言葉を読んで励まされる人もいるのではないでしょうか。

 モーセの時代からヨシュアの時代へ。この重大な節目に、この言葉は何度も繰り返されるのです。


☆☆☆☆

 ついでモーセはヨシュアを呼び寄せ、イスラエルのすべての人々の目の前で、彼に言った。「強くあれ。雄々しくあれ。主がこの民の先祖たちに与えると誓われた地に、彼らとともに入るのはあなたであり、それを彼らに受け継がせるのもあなたである。(31章7節)

 主ご自身があなたの前を進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。」(8節)



 じつは、ヨシュアがモーセの後継者になることは、すでに決まっていました。(民数記27章22節23節、Coffee Break244
 この時、ヨシュアは、イスラエルの民の前で、大祭司エリアザルとモーセから、次のイスラエルの指導者として叙任されています。


 申命記18章15節に、モーセは、「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起される。彼に聞き従わなければならない。」と言っています。
 それが、ヨシュアでした。彼は、モーセ亡き後に神の言葉を民に伝える者として、神御自身が選ばれた預言者ということになります。

 ヨシュアが神の声を聞いて民に司令を出すのは、モーセの死後、つぎのヨシュア記からですが。





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2011年08月12日

Coffee Break342 指導者の交代(申命記31章)




 モーセはこのみおしえを書きしるし、主の契約の箱を運ぶレビ族の祭司たちと、イスラエルのすべての長老たちとに、これを授けた。(申命記31章9節)

 そして、モーセは彼らに命じて言った。「七年の終わりごとに、すなわち免除の年の定めの時、仮庵の祭りに、(10節)

 イスラエルのすべての人々が、主の選ぶ場所で、あなたの神、主のみ顔を拝するために来るとき、あなたは,イスラエルのすべての人々の前で、このみおしえを読んで聞かせなければならない。(11節)


☆☆☆☆


 現代のいちばん大きなニュースは何でしょう。大災害やテロ、戦争はべつにして、政治の政権交代──指導者交代ではないでしょうか。国政選挙は大きなニュースになります。外国のことであっても、アメリカ大統領選挙などは、日本人も自分のことのように熱い視線を注いでニュースを見ます。

 さんざん叩かれた大統領や首相でも、失敗のあった社長さんでも、不正が発覚して追われるような指導者でも、辞めて行く人に対してある感慨をもちます。また、新しく就任する人に期待しながらも、一抹の不安を抱くものではないでしょうか。

 不安の原因は、体制や人事が大きく変わることかもしれません。それまでの方向や方針が変わることかもしれません。それまで保っていた安定を失い、集団そのものが迷走することかもしれません。

 ☆☆☆☆


 申命記の時代のイスラエルの場合、モーセの死で、体制や人事が大きく変わることは、あまり考えられなかったはずです。今のような複雑な政治体制も官僚組織もなかったからです。イスラエル民族六十万人は、イスラエル十二部族の集まりであり、各部族は氏族の集まりであり、氏族は家族の集まりでした。ただ、この「家族」は、いまのような核家族ではなく、父親を頂点にその家の子どもたちの家族を含みました。

  国家は神政政治であり、国家の頂点にいらっしゃるのは、「神、主」です。
 十戒を始めとする神のおきてと定めは、ぜったいの権威があり、それが変更されることはありません。
 国家の中枢を握っているのは、祭司階級で、祭司と祭祀儀礼全般を担当するレビ族は世襲でした。
 実際的な命令は、部族、氏族、家族でなるピラミッド型の組織を通じて伝えられました。長老はこれら部族や氏族を束ねる者で、血縁に伴う権威と重なっていました。

 モーセからヨシュアに指導者が交代しても、イスラエル国家の方針や組織が変わるなんてことはありえないのです。

☆☆☆☆


  「このみおしえの書を取り、あなたがたの神、主の契約の箱のそばに置きなさい。その所で、あなたに対するあかしとしなさい。(申命記31章26節)

 私は、あなたの逆らいと、あなたがうなじのこわい者であることを知っている。私が、なおあなたがたの間に生きている今ですら、あなたがたは主に逆らってきた。まして、死後はどんなであろうか。」(27節)


 モーセは、後継者のヨシュアに対して、なんらのわだかまりももってはいなかったでしょう。モーセの心配は、ただひとつ、民の不信仰でした。










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2011年08月13日

Coffee Break343 聖書の醍醐味(モーセ五書)



 
 創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の五巻は、「モーセ五書」と呼ばれ、モーセが書いたものとされています。ただ、申命記34章には、モーセの死に際と、死んだあとのことが書かれていますから、そこは、ヨシュアが書き加えたとの推測もあります。
 
 この五巻をまとめて振り返ってみると、どんな本にもない独特の世界が描かれているのに気がつきます。永遠から始まる恐ろしく壮大な時空があり、一貫したダイナミックな筋書きがあり、多彩で力強いたくさんの人間の、生き生きと生きる姿があります。
 何より、ユニークなのは、ここでは人間は主役ではないことです。主役は、「始めに天と地を創造した」神様です。
 言葉だけで、宇宙万物を創造し、太陽や月や地球を造り、そこに動植物や人間を置かれた方は、霊であられて、したがって私たちのように姿かたちがある方ではありません。
 しかし、その存在感は、アダムとエバから始まって、地上に海辺の砂のように増え広がった民よりはるかに大きく、比類ない力をもってこの世界を支配しておられるのがわかるのです。
 

☆☆☆☆

 ここで、最初に突きつけられるショックは、私たち人間が、神によって造られたことではありません。私たちが、「神の姿に似せて」造られたことです。おびただしい動物が造られた中で、私たち人間だけが、神に似せて造られたというのです。
 
 似ているのは、神の霊の性質をいただいたことです。神と意思疎通ができる、語り合うことができるという特別な資質です。神からご覧になると、人は神の愛の対象であり、人から見ると、神の愛を受けないでは満たされない空間があるのです。
 
 聖書の物語は、この神と人とが愛し合おうとして、愛し合うことができなくなったために起こった悲劇として始まります。神との間には超え難い隔てができてしまったのです。
 原因は、アダムとエバが神の禁止を犯して、知恵の実を食べたことです。その結果として、楽園を追放されたことです。
 
 ☆☆☆☆


 モーセ5書は、楽園追放後、罪に罪を重ねる人類を滅ぼしてしまおうと迷いながらも、なんとかノア一家を助け、さらに、増え広がった人々からアブラハムを召しだし、神が人類を救済しようと、ご計画を実行に移される物語です。(創世記)

 アブラハムの孫ヤコブ(イスラエル)一族をエジプトに移し、数を増やして、四百三十年後,奴隷になっていた彼らを、多大の犠牲を払ってエジプトから救い出されるのが、出エジプト記です。
 彼らを神の聖なる民として育成するために、シナイで契約を結び、定めとおきてを与えて、それを守り、神に従うなら、イスラエルの民には大きな祝福が与えられるのです。神にそむき、偽者の神である偶像の神々を祀るようなことがあれば、のろいが与えられ,彼らは滅びるのです。(レビ記)

 ある意味、非常にわかりやすい図式的な賞罰のもとで、それでも、民は神にそむき続けて、40年も荒野を放浪しました。なんとか、ヨルダン川の東、カナンまでやってきたのです。(民数記)

 そこで、モーセの役割は終わり、ヨシュアが立てられることになりました。(申命記)

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 神のご計画が、やっと軌道に乗ったかに見えるときに、なぜ、神はモーセからヨシュアに、リーダーを替えられたのでしょう。
 次の聖書箇所は、神ご自身のことばです。


 主は天幕で雲の柱のうちに現れた。雲の柱は天幕の入口にとどまった。(申命記31章15節)

 主はモーセに仰せられた。「あなたは間もなく、あなたの先祖たちとともに眠ろうとしている。この民は、入って行こうとしている地の、自分たちの中の、外国の神々を慕って淫行をしようとしている。この民がわたしを捨て、わたしがこの民と結んだわたしの契約を破るなら、(6節)

 その日、わたしの怒りはこの民に対して燃え上がり、わたしも彼らを捨て、わたしの顔を彼らから隠す。彼らが滅ぼし尽くされ、多くのわざわいと苦難が彼らに降りかかると、その日、この民は、『これらのわざわいが私たちに降りかかるのは、私たちのうちに、私たちの神がおられないからではないか』と言うであろう。(17節)

 彼らがほかの神々に移って行って行なったすべての悪のゆえに、わたしはその日、必ずわたしの顔を隠そう。(18節)


 「さあ、考えなさい」と神が語りかけている、このような箇所が、いたるところに埋め込まれているのも、聖書の醍醐味です。







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2011年08月14日

Coffee Break344 決別の歌(申命記32章1節〜43節)




 申命記32章は いわばモーセの遺言詩です。モーセは自分の死後、民が神にそむくことが、よほど気がかりだったのでしょう。なんども何度も同じ演説を繰返したあと、最後に、神をたたえ、民を戒める歌を、民の全集会に聞かせたのです。


  天よ。耳を傾けよ。わたしは語ろう。
  地よ。聞け。私の口の言葉を。
  私のおしえは、雨のように下り、
  私の言葉は、露のようにしたたる。
  若草の上の小雨のように。
  青草の上の夕立のように。
  私が主の御名を告げ知らせるのだから、
  栄光を私たちの神に帰せよ。
  主は岩。主のみわざは完全。
  まことに、主の道はみな正しい。
  主は真実の神で、偽りがなく、
  正しい方、直ぐな方である。  (申命記32章1節〜4節)



 この第1パラグラフを読むだけで、モーセの神への思いの深さと強さがわかります。「栄光は・・・」から、「直ぐな方である」との言葉は、そのまま、現代のクリスチャンの神への信頼と重なるものです。
 聖書は、人間的な歴史時間を飛び越えて、変わらない真実を私たちに語りかけてくれる、と改めて思うところです。


  主をそこない、
  その汚れで、主の子らではない、
  よこしまでまがった世代。
  あなたがたはこのように主に恩を返すのか。
  愚かで知恵のない民よ。
  主はあなたを造った父ではないか。
  主はあなたを造り上げ、あなたを堅く建てるのではないか。
  昔の日々を思い出し、
  代々の年を思え。
  あなたの父に問え、
  彼はあなたに告げ知らせよう。
  長老たちに問え。
  彼らはあなたに話してくれよう。
  「いと高き方が、国々に、
  相続地をもたせ、
  人の子らを、振り当てられたとき、
  イスラエルの子らの数にしたがって、
  国々の民の境を決められた。
  主の割り当て分はご自分の民であるから、
  ヤコブは主の相続地である。    (5節〜9節)



 第二パラグラフでは、モーセの視点は一転、イスラエルの民に向けられます。

 イスラエルの民は、神の数々の奇蹟とともにエジプトから連れ出していただき、荒野を旅してきたのです。カナンの土地を戦い取るのはこれからですが、神のお約束どおり、カナン入りは確実でしょう。しかし、カナンの先住民は、異教の神々を祀るものたちです。民が、モアブで失敗したように、ほかの神々に引かれて神を怒らせる可能性はとても高いのです。
 モーセは、相続地に入るイスラエルの民の背信と忘恩、ほかの神々への礼拝、その結果としての神の怒りを警告しています。このくどさには、驚かされますが、しかし、聖書をこれから先、読んでいけばモーセの心配が杞憂でなかったことがわかるのです。

 この詩は、1節から43節まで続く長いものですが、ことばが切実で、読み応えがあります。続きは、明日・・・。
 




 聖書は新改訳聖書を使っています。









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2011年08月15日

Coffee Break345 決別の歌と聖書のスタイル(申命記32章、モーセ五書)



 
 聖書には、詩ばかり集めた詩篇という文書があります。詩篇には、モーセの作と言われる詩篇90が入っています。申命記32章の決別の歌(註・筆者の呼び方)は、さほど解釈が難しい歌ではありませんが、しかし、申命記のなかに、わざわざ挿入されているのは、何故だろうと考えてしまうのです。
 
☆☆☆☆


 聖書を読む上で、つまづきになることはたくさんあると思います。もともとが古文書です。それも、はんぱな古さではありません。新約聖書でも二千年ほども昔です。その上、気候風土も社会状況もライフスタイルも全く違う、中東の一民族に与えられた文書です。
 どんなに研究されていて、行き届いた解説がついていて、多くの学者が翻訳に苦心したものであっても、理解がむずかしいのは当然です。


 さらに、文書スタイルの問題があります。
 今の私たちは、文章を、例えば、実用文書、報道文書、ドキュメント、小説、戯曲、脚本、台本、詩、俳句、短歌、手紙などに分けます。フィクションとノンフィクション。実務的な文と芸術性のある文などにも分類出来ます。スタイルに合わせて、約束事があり、それらが比較的明確です。ノンフィクションノベルなどの混合分野がつぎつぎと生まれていますが、その場合でも、ノンフィクションの部分は、きちんと裏づけがなければいけないのです。作家が想像で膨らませた部分との区別が、読者に見えるべきだと、私は思います。

 ところが、それでは、歴史小説はノンフィクションノベルでしょうか。もし、そうなら、事実の裏付けは限られてきます。わかっていることはわかっていますが、今、ナマの取材をして新しい事実を取り出すのは至難です。
 ひところ、作家になるために、時代小説や歴史小説は、比較的競争相手が少ないジャンルだといわれました。その理由は、歴史小説作家、時代小説作家は、時代考証をしっかり学ばなければならず、それはなかなか手間のかかることです。
 ただ、それなしには、古い資料の中から新しい発見をすることなど覚束ないばかりでなく、空想を膨らませることもできず、もし、できても「描写」ができないのです。時代考証、その素養である古文読解を学ぶのはたいへんなので、必然的にライバルが少なくなるというのです。

 
 ☆☆☆☆

 さて、創世記は、現代の私たちの分け方では、どのジャンルに入るのでしょう。
 歴史小説が一番近いかもしれません。ところが、小説というのは適切ではありません。小説は以前にも書きましたが、歴史的に見ると、非常に新しいスタイルの文書なのです。「物語」というのが近いかもしれませんが、「平家物語」「源氏物語」「今昔物語」などとは、根本的に違います。

 P・カイル・マッカーター(聖書およびオリエント研究の学者)は、エジプト脱出以前のイスラエルの歴史は、聖書に描かれているとおり、ひとつの家族史である、と、その著書「最新・古代イスラエル史、族長時代──アブラハム、イサク、ヤコブ」(株式会社ミルトス発行、池田裕、有島七郎訳)の項の冒頭に書いています。(Coffee Break51参照)
 学者であるマッカーターは、「聖書の中のアブラハム・ヤコブ・イサクの歴史の記述は、聖書外資料の裏づけがない。記述に対応する文書、考古学的・歴史資料はほとんどない」から、これは、アブラハムを始祖とする、ひとつの家族史であると言うのです。

 創世記を、すでにあるジャンル分けに当てはめると、このような説明しかできません。ところが、こう説明してしまうと、それでは、聖書のアブラハム・イサク・ヤコブの家族史は、「さとう家の家族史」と同じようなものでしょうか。

 
 ☆☆☆☆

 私は、聖書の文書は、いま現代、私たちが分類している一般的なスタイルのどれにもあてはめることができないと考えています。まさに、「聖書」スタイルとも言うべき独特のものです。

 つぎのヨシュア記からは「歴史の書」と呼ばれていますが、これが私たちがいま考える「歴史書」でないことは事実です。また、預言書に至っては、現代にそのモデルを見出せるでしょうか。箴言や詩篇は、ジャンルとしては理解しやすいので、ファンが多いのですが、そこに書かれている世界観は、独特です。

 聖書は、「聖書の鍵穴」を通らなければ、理解出来ない世界なのだと、私は思います。神の世界への鍵穴です。

 以下は、申命記32章の「決別の歌」、昨日の第二パラグラフの続きです。
 
  主は荒野で、
  獣のほえる荒地で彼を見つけ、
  これをいだき、世話をして、
  ご自分のひとみのように、
  これを守られた。    (10節)
  鷲が主のひなを呼びさまし、
  そのひなの上を舞いかけり、
  翼を広げてこれを取り、
  羽に載せて行くように。 (11節)
  ただ主だけでこれを導き、
  主とともに外国の神は、いなかった。(12節)
  主はこれを、地の高いところに上らせ、
  野の産物を食べさせた。
  主は岩からの蜜と、
  堅い岩からの油で、これを養い、(13節)
  牛の凝乳と、羊の乳とを、
  最良の子羊とともに、
  パシャンのものである雄羊と、雄やぎとを、
  小麦のもっとも良いものとともに、食べさせた。
  あわ立つぶどうの地をあなたは飲んでいた。(14節)
  エシュルンは肥え太ったとき、足でけった。
  あなたはむさぼり食って、肥え太った。
  自分を造った神を捨て、
  自分の救いの岩を軽んじた。(15節)
  彼らは異なる神々で、
  主のねたみを引き起こし、
  忌みきらうべきことで、
  主の怒りを燃えさせた。   (16節)
  神ではない悪霊どもに、
  彼らはいけにえをささげた。
  それらは彼らの知らなかった神々、
  近ごろ出てきた新しい神々、
  先祖が恐れもしなかった神々だ。(17節)
  あなたは自分を産んだ岩をおろそかにし、
  産みの苦しみをした神を忘れてしまった。(18節)












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2011年08月16日

Coffee Break346 決別の歌(第2パラ)を味わう(申命記32章5節〜18節)



 
 詩は、感情の発露です。たましいの叫びです。誰かへの実際的なメッセージを載せる場合も、実用通信文ではなく、相手の感情、たましいに訴えようとするのです。
 詩が象徴的なレトリック、イメージの対比、喩えやメタフォアを多用するのは、当然です。韻を踏んだり、語呂が美しかったり、じっさいの風景や花や鳥や嵐や雨などはイマジネーションを膨らませ、それらによって、メッセージを受け取るものは、書き手の心の嘆きや叫びを味わうのです。

☆☆☆☆


 第二パラグラフ全体を、じっくり読んでみてください。
 たくさんの歴史的な研究の成果の上に、翻訳をしてくださった方々の苦心のおかげで、私たちはいま、日本語でモーセの叫びを受け取ることができるのです。
 

  主をそこない、
  その汚れで、主の子らではない、
  よこしまでまがった世代。※1
  あなたがたはこのように主に恩を返すのか。※2
  愚かで知恵のない民よ。
  主はあなたを造った父ではないか。※3
  主はあなたを造り上げ、あなたを堅く建てるのではないか。
  昔の日々を思い出し、
  代々の年を思え。
  あなたの父に問え、
  彼はあなたに告げ知らせよう。
  長老たちに問え。
  彼らはあなたに話してくれよう。※4
  「いと高き方が、国々に、
  相続地をもたせ、
  人の子らを、振り当てられたとき、
  イスラエルの子らの数にしたがって、
  国々の民の境を決められた。
  主の割り当て分はご自分の民であるから、
  ヤコブは主の相続地である。    (5節〜9節)
  主は荒野で、
  獣のほえる荒地で彼を見つけ、
  これをいだき、世話をして、
  ご自分のひとみのように、
  これを守られた。(10節)
  鷲が主のひなを呼びさまし、
  そのひなの上を舞いかけり、
  翼を広げてこれを取り、
  羽に載せて行くように。(11節)※6
  ただ主だけでこれを導き、
  主とともに外国の神は、いなかった。(12節)
  主はこれを、地の高いところに上らせ、
  野の産物を食べさせた。
  主は岩からの蜜と、
  堅い岩からの油で、これを養い、(13節)
  牛の凝乳と、羊の乳とを、
  最良の子羊とともに、
  パシャンのものである雄羊と、雄やぎとを、
  小麦のもっとも良いものとともに、食べさせた。※7
  あわ立つぶどうの地をあなたは飲んでいた。」(14節)
  エシュルンは肥え太ったとき、足でけった。
  あなたはむさぼり食って、肥え太った。
  自分を造った神を捨て、
  自分の救いの岩を軽んじた。(15節)
  彼らは異なる神々で、
  主のねたみを引き起こし、
  忌みきらうべきことで、
  主の怒りを燃えさせた。   (16節)
  神ではない悪霊どもに、
  彼らはいけにえをささげた。※9
  それらは彼らの知らなかった神々、※10
  近ごろ出てきた新しい神々、
  先祖が恐れもしなかった神々だ。(17節)
  あなたは自分を産んだ岩をおろそかにし、
  産みの苦しみをした神を忘れてしまった。(18節)


 ※1、この語は、特定の世代ではなくこの世の人々を指していて、新約聖書でも使われています。
 ※2、今の民のおろかさと同時に、予言的に未来のイスラエルの民の事を指しているようです。
 ※3、契約の民として下さったことを指す。

 ※4、主のしてくださったことを民の長老に尋ねてみよ。そうしたら、主がイスラエルの民に、相続地を与えてくださるまでの、愛ある出来事がわかるだろう。

 ※5、10節から14節までは、美しい喩えで主の愛が描かれています。

 ※6、鷲、ひな、翼、岩、野の産物、蜜、乳、子羊、雄山羊、などは、神、主の愛の行為を説明するため、聖書全体でしばしば使われている象徴的な語です。
 ※7、神、主の豊かな恵みを受けて、14節にあるような豊かな繁栄を楽しむことができます。
 
 ※8、ところが、繁栄があると、神を忘れるのが世の人間です。最上のものを味わうことができる祝福を、なぜか忘れるのです。
 ※9、むさぼり食う行為そのものが、すでに悪霊によるものなのでしょうか。
 ※10、悪霊どもにいけにえをささげているのは、モーセの目の前の民だけでなく、現代の私たちまで向けられた警告であるように、私には思えます。
 悪魔はイエス様でも誘惑しました。この世のすべての国々と栄華を見せて、「もしひれ伏して私を拝むなら、これらすべてを差し上げましょう」と言ったのです。
 イエス様ならぬ身の私たちは、この世の栄華に弱いのです。イエス様を誘惑できなかった悪魔は、私たち人間を、イエス様から離すのに躍起になっているのではないでしょうか。








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2011年08月17日

Coffee Break347 天よ。耳を傾けよ。(申命記32章1節〜43節)




 モーセの「決別の歌」のメッセージは、とても鮮やかです。
 奴隷の境涯から救い出して下さった主の恩を忘れて、繁栄すると主を裏切り、他の神々へ走る忘恩の民、イスラエル。(申命記32章5節〜18節)
 つぎの第3パラグラフ以下では、神の怒りがどのようなものか示されています。
 主が顔を隠されるとどうなるでしょう。(20節) 神がすでに、「のろい」として、何度も、宣告しているあらゆるわざわいや苦難がイスラエルをおそい、敵に攻められ若い者も女も子どもも老人も殺されるような事態に陥ります。(19節〜25節)

 ただ、イスラエルを相続地としておられる神は、民の苦難をどこまでも放置しておかれることはありません。かならず、敵を罰するのです。というのも、イスラエルの敵になるものは、もっと思慮の欠けた人々で、彼等がイスラエルを攻め取ることを、「神がそうさせてくださった」とは思わないからです。(26節〜35節)
 さいごに、神はご自分の民をかばい、主のしもべらをあわれんで、救われます。そして、敵に立ち向かって滅ぼしてくださるのです。(36節〜42節)
 かならず、主はご自分の民のために、復讐をし、民の主に対する罪さえ贖ってくださる。その時、イスラエルの民は、喜び歌うことができるのです。(43節)
 訣別の歌は、最初から終りまでを、文末に出しておきます。


☆☆☆☆


 この歌では、「  」(赤色に変えてあります)に、入っていることばが、4ヶ所あります。最初(1節〜14節)は、イスラエルの長老のことばです。あとの3ヶ所(20節〜27節)(34節35節)(37節〜42節)は、神ご自身が話されることばです。この直接話法のために、詩のことばがとても直情的で生き生きしていて、それで、この詩全体のイメージが鮮やかなのだと思います。

  わたしの顔を彼らに隠し、
  彼らの終りがどうなるかを見よう。
  彼らは、ねじれた世代、
  真実のない子らであるから、
  彼らは、神でないもので、
  わたしのねたみを引き起こし、
  彼らのむなしいもので、
  わたしの怒りを燃えさせた。(20節〜21節)



 「聖書の神は、霊です」と説明されています。しかし、このような喩えのことばは、霊であられる神さまに、つい、人間のような姿を見てしまいます。いわゆる、「人格神」といわれるゆえんでしょうか。
 だから、私たちは、お祈りしながら神様と「語り合う」ことができるのです。
 ですが、しばしば、神様に叱られるようなことをしてしまう私は、そのようなときに限って、なかなか(御前に出て)お祈りすることができません。たぶん、「顔を隠して」しまわれるのを恐れているのです。

 モーセ五書を読んで今、気がつきます。私たちはイスラエルの民のおろかさや躓き、苦難の上の祝福──「救いの恵み」を、心に刻まなければいけない。
 この詩のさいごの行、「ご自分の民の贖いをされるから。」に注目してください。

 私たちは、新約の民として生きています。



   ※※※※


  天よ。耳を傾けよ。わたしは語ろう。
  地よ。聞け。私の口の言葉を。
  私のおしえは、雨のように下り、
  私の言葉は、露のようにしたたる。
  若草の上の小雨のように。
  青草の上の夕立のように。
  私が主の御名を告げ知らせるのだから、
  栄光を私たちの神に帰せよ。
  主は岩。主のみわざは完全。
  まことに、主の道はみな正しい。
  主は真実の神で、偽りがなく、
  正しい方、直ぐな方である。  

  主をそこない、
  その汚れで、主の子らではない、
  よこしまでまがった世代。
  あなたがたはこのように主に恩を返すのか。
  愚かで知恵のない民よ。
  主はあなたを造った父ではないか。
  主はあなたを造り上げ、あなたを堅く建てるのではないか。
  昔の日々を思い出し、
  代々の年を思え。
  あなたの父に問え、
  彼はあなたに告げ知らせよう。
  長老たちに問え。
  彼らはあなたに話してくれよう。
  いと高き方が、国々に、
  相続地をもたせ、
  人の子らを、振り当てられたとき、
  イスラエルの子らの数にしたがって、
  国々の民の境を決められた。
  主の割り当て分はご自分の民であるから、
  ヤコブは主の相続地である。    
  主は荒野で、
  獣のほえる荒地で彼を見つけ、
  これをいだき、世話をして、
  ご自分のひとみのように、
  これを守られた。
  鷲が主のひなを呼びさまし、
  そのひなの上を舞いかけり、
  翼を広げてこれを取り、
  羽に載せて行くように。
  ただ主だけでこれを導き、
  主とともに外国の神は、いなかった。
  主はこれを、地の高いところに上らせ、
  野の産物を食べさせた。
  主は岩からの蜜と、
  堅い岩からの油で、これを養い、
  牛の凝乳と、羊の乳とを、
  最良の子羊とともに、
  パシャンのものである雄羊と、雄やぎとを、
  小麦のもっとも良いものとともに、食べさせた。
  あわ立つぶどうの地をあなたは飲んでいた。
  エシュルンは肥え太ったとき、足でけった。
  あなたはむさぼり食って、肥え太った。
  自分を造った神を捨て、
  自分の救いの岩を軽んじた。
  彼らは異なる神々で、
  主のねたみを引き起こし、
  忌みきらうべきことで、
  主の怒りを燃えさせた。  
  神ではない悪霊どもに、
  彼らはいけにえをささげた。
  それらは彼らの知らなかった神々、
  近ごろ出てきた新しい神々、
  先祖が恐れもしなかった神々だ。
  あなたは自分を産んだ岩をおろそかにし、
  産みの苦しみをした神を忘れてしまった。


  主は見て、彼らを退けられた。
  主の息子と娘たちへの怒りのために。(19節)
  主は言われた。
 わたしの顔を彼らに隠し、
  彼らの終りがどうなるか見よう。
  彼らは、ねじれた世代、
  真実のない子らであるから。(20節)
  彼らは、神でないもので、
  わたしのねたみを引き起こし、
  彼らのむなしいもので、
  わたしの怒りを燃えさせた。
  わたしも、民でないもので、
  彼らのねたみを引き起こし、
  愚かな国民で、
  彼らの怒りを燃えさせよう。(21節)
  わたしの怒りで火は燃え上がり、
  よみの底にまで燃えていく。
  地とその産物を焼き尽くし、
  山々の基まで焼き払おう。(22節)
  わざわいを彼らの上に積み重ね、
  わたしの矢を彼らに向けて使い尽そう。(23節)
  飢えによる荒廃、災害による壊滅、
  激しい悪疫、野獣のきば、
  これらを、血をはう蛇の毒とともに、
  彼らに送ろう。(24節)
  外では剣が人を殺し、内には恐れがある。
  若い男も若い女も乳飲み子も、
  白髪の老人もともどもに。

  わたしは彼らを粉々にし、
  人々から彼らの記憶を消してしまおうと、
  考えたであろうか。 (26節)
  もし、わたしが敵のののしりを
  気づかっていないのだったら。
  ──彼らの仇が誤解して、
  『われわれの手で勝ったのだ。
  これはみな主がしたのではない』
  と言うといけない。(27節)
  まことに、彼らは思慮の欠けた国民、
  彼らのうちに、英知はない.(28節)
  もしも、知恵があったなら、
  かれらはこれを悟ったろうに。
  自分の終りもわきまえたろうに。(29節)
  彼らの岩が、彼らを売らず、
  主が彼らを渡さなかったら、
  どうして、ひとりが千人を追い、
  ふたりが万人を敗走させたろうか。(30節)
  まことに、彼らの岩は、私たちの岩には及ばない。敵もこれを認めている。(31節)
  ああ、彼らのぶどうの木は、
  ソドムのぶどうの木から、
  ゴモラのぶどう畑のからのもの。
  彼らのぶどうは毒ぶどう、
  そのふさは苦味がある。(32節)
  そのぶどう酒は蛇の毒、
  コブラの恐ろしい毒である。(33節)
  これはわたしのもとにたくわえてあり、
  わたしの倉に閉じ込められているではないか。(34節)
  復讐と報いとは、わたしのもの、
  それは、彼らの足がよろめくときのため。
  彼らのわざわいの日は近く、
  来るべきことが、すみやかに来るからだ。(35節)

  主は御民をかばい、主のしもべらをあわれむ。
  彼らの力が去って行き、
  奴隷も、自由の者も、
  いなくなるのを見られるときに。(36節)
  主は言われる。
  彼らの神々は、どこにいるのか。
  彼らが頼みとした岩はどこにあるのか。(37節)
  彼らのいけにえの脂肪を食らい、
  彼らの注ぎのぶどう酒を飲んだものは
  どこにいるのか。
  彼らを立たせて、あなたがたを助けさせ、
  あなたがたの盾とならせよ。(38節)
  今、見よ。わたしこそ、それなのだ。
  わたしのほかに神はいない。
  わたしは殺し、また生かす。
  わたしは傷つけ、またいやす。
  わたしの手から救い出せる者はいない。(39節)
  まことに、わたしは誓って言う。
  『わたしは永遠に生きる。(40節)
  わたしがきらめく剣をとぎ、
  手にさばきを握るとき、
  わたしは仇に復讐をし、
  わたしを憎む者たちに報いよう。(41節)
  わたしの矢を血に酔わせ、
  わたしの剣に肉を食わせよう。
  刺し殺された者や捕らわれた者の血を飲ませ、
  神を乱している敵の頭を食わせよう。』(42節)

  諸国の民よ。
  御民のために喜び歌え。
  主がご自分のしもべの血のかたきを打ち、
  ご自分の仇に復讐をなし、
  ご自分の民の血の贖いをされるから。(43節)





  (新改訳聖書から)





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2011年08月18日

Coffee Break348 モーセの死1(申命記32章48節〜50節)




 この同じ日に、主はモーセに告げて仰せられた。(申命記32章48節)

 「エリコに面したモアブの地のこのアバリム高地のネボ山の登れ。わたしがイスラエル人に与えて所有させようとしているカナンの地を見よ。(49節)

 あなたの兄弟アロンがホル山で死んでその民に加えられたように、あなたもこれから登るその山で死に、あなたの民に加えられよ。(50節)
 


 「この同じ日」とは、モーセが民に向かって、「決別の歌」を唱えた日です。主は、アバリム高地のネボ山に登れと命じられたのです。
 そこで、やがて、イスラエルの民が入るカナンの地を見ること。モーセ自身はその山で死ぬようにとの命令なのです。

 理由は、Coffee Breakでも何度か取上げました。モーセとアロンが、ツインの荒野(カデシュ)で民の求めに応じて水を出す時、神が岩に命じよ仰せになったのに岩を杖でたたいてしまった違反によるものでした(民数記20章1節〜13節)。結果的に水は出たのですが、神は、モーセがご命令どおりにしなかったことをお咎めになり、「カナンには入れない」と言われたのです。
 
 ☆☆☆☆
 
 神の人モーセの人生は、数奇と表現されるような始まりでした。彼が生まれた時、エジプトのパロは奴隷であったヘブル人(イスラエル人の別名)の男の赤ん坊を皆殺しにするように命じたのです。理由は、ヘブル人が増えすぎて脅威を覚えたからでした。
 モーセの母親は、その子が「かわいいのを見て」隠したのです。しかし、泣き声などもしだいに大きくなります。隠しおおせないと思った時、母親は葦のかごに赤ん坊を入れてナイルに流したのです。
 じっさいには、一種の捨て子です。猛きんやワニに襲われる可能性もあったでしょうが、母親にしてみれば、目の前で殺されるのを見るよりはまだ良いと考えたのでしょうか。神様に、「良い人に拾われるよう」祈ったことでしょう。
 不思議なことに、モーセは、願ってもない人に拾われることになりました。エジプトの王女がナイルで水浴をしているとき、葦のかごを見つけたのです。王女は、赤ん坊を連れ帰って自分の子どもとして育てることにしました。

 モーセは、死ぬべきところを助けられたのです。まさに、このときから神がモーセに目を止めておられたのです。
 せっかく、王女の息子として王宮で育ったモーセですが、四十歳のとき、ヘブル人奴隷を虐待するエジプト人を殺し、それがきっかけで荒野に逃亡するのです。
 ミディアン人の祭司の家に世話になり、祭司の娘を妻にして子どもも生まれました。モーセは羊飼いをしながら、平和な生活を送っていました。
 
 そのままであれば、モーセの後半生は平穏で平凡なものでした。ところが、羊を追ってホレブ(シナイ)に来たとき、神に召し出されるのです。とつぜん、モーセはイスラエルの民をエジプトから連れ出し、約束の地カナンに導く使命を与えられたのです。もちろん、六十万人からの民を統率するのに、神は、ひとりでやれと命じられたわけではありません。神が共にいてくださって、最大のサポートをしてくださるのです。


☆☆☆☆

 出エジプト記から民数記までの「荒野の旅」は、奇跡に継ぐ奇跡です。神のしるしと不思議があればこそ、荒野の四十年は乗り切ることができました。しかし、それは、SF小説のような痛快で、奇想天外なだけの奇跡物語ではありません。
 イスラエルの民は、不信仰でわがままな人間の集団。モーセは預言者ではありますが、ひとりの人間にすぎません。神と民との板ばさみになって民に殺されそうになり、民の不満と愚痴に押しつぶされそうになり、死を思うこと一度ならず。(Coffee Break200参照)、兄弟アロンや姉ミリヤム、従兄弟たちでさえ、彼の立場をねたんで、謀反を起す始末です。また、神に対する背信、不従順、忘恩を重ねる民に対して、みずから剣を取って同胞を殺さねばならないこともありました。


☆☆☆☆

 私は、荒野の四十年の間、モーセに一日でも家庭の団欒があっただろうか。同胞や仲間と笑いながら飲み食いした時間があったのだろうかと思うのです。
 ささげ物規定などを読むと、モーセもアロンやイスラエルの民とささげ物を食べたと推測できるのです。しかし、いつも圧倒的な「飢えと渇き」のなかにいたイスラエルの民が、はたして、充分なささげ物をして、「食べて満ち足りる」日がどれほどあったことでしょう。
 
 モーセは、じつは、神に、カナンに入れてくださいと嘆願して、却下されています。(Coffee Break269参照)
 いよいよ死地のネボ山に上ることを命じられた申命記32章48節以下では、ただ、神に従う心境になっています。

 このあと、モーセはイスラエルの民を祝福し、モアブの草原からネボ山に上るのです。







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2011年08月19日

Coffee Break349 モーセの死2(申命記34章1節〜8節)




 モーセはモアブの草原からネボ山、エリコに向かい合わせのピスガの頂に登った。主は、彼に次の全地方を見せられた。ギルアデをダンまで。(申命記34章1節)

 ナフタリの全土、エフライムとマナセの地、ユダの全土を西の海まで、(2節)

 ネゲブと低地、すなわち、なつめやしの町エリコの谷をツォアルまで。(3節)


 そして主は彼に仰せられた。「わたしがアブラハム・イサク・ヤコブに、『あなたの子孫に与えよう』と言って誓った地はこれである。わたしはこれをあなたの目に見せたが、あなたはそこへ渡って行くことはできない。」(4節)

 こうして、主の命令によって、主のしもべモーセは、モアブの地のそのところで死んだ。(5節)


 出エジプト記以来、レビ記、民数記、申命記の四書を通じて、リーディングキャラクターだったモーセが死ぬというのに、この淡々とした描写は、なんとしたことでしょう。
 ネボ山に上ったモーセは、ヨルダン川をはさんだカナンの地、ギルアデをダンまで。ナフタリの全土、エフライムとマナセの地、ユダの全土を西の海まで。それに、ネゲブと低地、すなわち、なつめやしの町エリコの谷をツォアルまでを見ることになります。実際には、ビスガは標高700メートルの山であり、また、パレスチナ山脈がさえぎっているので、これらの地域が全部、一望できたとは考えられないそうです。〈新実用聖書註解いのちのことば社より)
 ある意味で、神の使命と命令が織りなす象徴的な場面なのでしょう。そして、神は、モーセに「わたしがアブラハム・イサク・ヤコブに、『あなたの子孫に与えよう』と言って誓った地はこれである。しかし、あなたはそこへ渡って行くことはできない。」と仰せになるのです。

 私たち現代の聖書の読者にとって、ナゾは、モーセの死因、死にいたるまでの描写が一切ないことです。モーセは「主の命令によって」、その地で死んだことになっています。


 ☆☆☆☆

 「生き死には運命だ」と言った人がいます。有名人の言葉ではなく、私の知り合いです。いわゆる良識ある市民のような人ですが、神を信じているわけではありません。それだけに、常識的な見解だと思うのです。私なら、もちろん、同じことを「生き死には、神の御手のなか」と言いたいのです。

 生まれることはどうにもできないけれど、死は自分で支配できると思う人がいるとしたら、そのような意見は物笑いになることでしょう。死が人の意思に従うものなら、ほとんどの人は、「死を避けよう」「永遠に生きよう」とするでしょう。しかし、どんなに肉体に注意を払っても、生活環境を整えても、名医にかかっても、栄養やサプリメントに気を配っても、人間の力では、「死は避けることができない」のは、厳然とした事実です。たしかに、自らのいのちを断つ人もいますが、それはたいてい、本人も不本意な悲しい選択の結果です。


 モーセの死に方、死因が記録されていないのは、いかにもモーセにふさわしいと私は思います。神の人として、後半生を神に従いつくしたモーセは、つぎの神のことばに従ったのです。

「あなたの兄弟アロンがホル山で死んで、その民に加えられたように、あなたもこれから登るその山で死に、あなたの民にくわえられよ。」(32章50節) 

☆☆☆☆


 主は彼をベテ・ペオルの近くのモアブの地の谷に葬られたが、今日に至るまで、その墓を知ったものはいない。(34章6節)

 モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。(7節)

 イスラエル人はモアブの草原で、三十日間、モーセのために泣き悲しんだ。そして、モーセのために泣き悲しむ喪の期間は終わった。(8節)



 百二十歳になっても、目はかすまず、気力も衰えていなかったというのは、私たちが望みうる最高の状態ではないでしょうか。
 どのような死に方だったのだろうというような詮索は、モーセに限っては無用なのかもしれません。神が命じるとおり死に、神に葬られ、その墓もわからないのです。

 モーセは、もしかして、死ななかったのかもしれないと、私は想像してみるのです。だから、たつまきに乗って天に召されたエリヤとともに、イエス様の前に現れたのかもしれない・・・と。(マタイの福音書17章3節)






posted by さとうまさこ at 00:00| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月20日

Coffee Break350 モーセの死3(申命記34章8節〜12節)



 
 イスラエル人はモアブの草原で、三十日間、モーセのために泣き悲しんだ。そしてモーセのために泣き悲しむ喪の期間は終わった。(申命記34章8節)


 モーセの喪の期間は、アロンの死んだときと同じ長さでした。(民数記20章23節〜29節) モーセの口べたを補うために登用されたに過ぎないアロンと、モーセが同じ喪の期間であるのは納得できませんが、イスラエルの民がまだカナン攻めの途上にあったから、型どおりの期間だったのでしょうか。

 モーセの偉大さは、その功績に対して人間的な栄誉で報われた形跡が一切ないところにも現れています。
 およそどの国、どの歴史を通じても、「名を残そう」としなかった王やリーダーはいませんでした。大きな墓やモニュメント、宮殿や都市建設は、支配者の名を立てるためにあったといっても過言ではないでしょう。また、その子どもや子孫が、権力を継承する仕組みを作らなかった権力者もいなかったでしょう。古代では、権力や国も私有財産だと見做されましたから、王の子どもは王になったのです。
 まだ、ヨルダン川の東側にわずかの領土があるだけの弱小のイスラエル。しかし、神聖政治国家イスラエルの中枢は祭司で、その仕事は世襲でした。神がモーセに命じて、それをアロンの家の世襲とさせられたのです。アロンが死ぬとき、その装束は息子エリアザルに譲られたのです。
 しかし、モーセの地位を継いだのは、従者だったヨシュアです。モーセの子供については出エジプトの初めのころ、母親と出エジプトに参加したのはわかっていますが、その後一切出てきません。


 働くだけ働き、自分の使命に殉じ、使命が終わった時には潔く死に、その墓さえ誰も知ったものがいない、これは、先々、だれかが、モーセの功績を慕って「墓を訪れる」ことさえできないのを意味しています。
 私たち人間の世の価値観を覆す、このような最後も、神がモーセに託して意図されたことかもしれません。

 私は、個人的には、懸命に働いて国や社会に功績を残した人を讃えるのに反対ではありませんが、でも、それが神から来たのか、人から来たのかを問う姿勢は必要だと思います。
 権力者がお手盛りで、自分の像を建てたり、自分を讃える歌を作ったり、はては、自分の名前を都市や記念日につけて残すなどするときは、真剣に、神に是非を問うべきではないでしょうか。
「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう」(創世記11章4節)と言って、神に挑戦した人たちの記録が聖書にあります。私たちは、バベルの塔を建てようとした人たちの、二の舞を踏んではなりません。


☆☆☆☆
  
 ヌンの子ヨシュアは、知恵の霊に満たされていた。モーセが彼の上に、かつて、その手を置いたからである。イスラエル人は彼に聞き従い、主がモーセに命じられたとおりに行なった。(9節)

 彼を主は、顔と顔とを合わせて選び出された。(10節)


 一部を取り出したのでわかりにくいかもしれませんが、この「彼」はモーセのことです。ヌンの子ヨシュアはモーセの後任として、困難なカナン攻めを指揮しました。モーセが死んだ時には、すでに、代わりが務まるよう神によって整えられていました。
 それでも、モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。のです。
 
 それは主が彼をエジプトの地に遣わし、パロとそのすべての家臣たち、およびその全土に対して、あらゆるしるしと不思議を行なわせるためであり、(11節)

 また、モーセが、イスラエルのすべての人々の目の前で、力強い権威と、恐るべき威力とをことごとく振るうためであった。(12節)


 出エジプトのための、「十の奇跡」を思い出してください。イスラエルの民を導き守った火の柱、雲の柱。葦の海が割れたこと。マラでの水争い。シンの荒野でのマナとうずらの奇跡。メリバの水争い・・・。
 つぎつぎと襲う困難に、神がお見せになった力強い権威、おそるべき威力こそが、類を見ない、神とモーセの緊密な関係を証していると、私は思うのです。





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