2011年08月15日

Coffee Break345 決別の歌と聖書のスタイル(申命記32章、モーセ五書)



 
 聖書には、詩ばかり集めた詩篇という文書があります。詩篇には、モーセの作と言われる詩篇90が入っています。申命記32章の決別の歌(註・筆者の呼び方)は、さほど解釈が難しい歌ではありませんが、しかし、申命記のなかに、わざわざ挿入されているのは、何故だろうと考えてしまうのです。
 
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 聖書を読む上で、つまづきになることはたくさんあると思います。もともとが古文書です。それも、はんぱな古さではありません。新約聖書でも二千年ほども昔です。その上、気候風土も社会状況もライフスタイルも全く違う、中東の一民族に与えられた文書です。
 どんなに研究されていて、行き届いた解説がついていて、多くの学者が翻訳に苦心したものであっても、理解がむずかしいのは当然です。


 さらに、文書スタイルの問題があります。
 今の私たちは、文章を、例えば、実用文書、報道文書、ドキュメント、小説、戯曲、脚本、台本、詩、俳句、短歌、手紙などに分けます。フィクションとノンフィクション。実務的な文と芸術性のある文などにも分類出来ます。スタイルに合わせて、約束事があり、それらが比較的明確です。ノンフィクションノベルなどの混合分野がつぎつぎと生まれていますが、その場合でも、ノンフィクションの部分は、きちんと裏づけがなければいけないのです。作家が想像で膨らませた部分との区別が、読者に見えるべきだと、私は思います。

 ところが、それでは、歴史小説はノンフィクションノベルでしょうか。もし、そうなら、事実の裏付けは限られてきます。わかっていることはわかっていますが、今、ナマの取材をして新しい事実を取り出すのは至難です。
 ひところ、作家になるために、時代小説や歴史小説は、比較的競争相手が少ないジャンルだといわれました。その理由は、歴史小説作家、時代小説作家は、時代考証をしっかり学ばなければならず、それはなかなか手間のかかることです。
 ただ、それなしには、古い資料の中から新しい発見をすることなど覚束ないばかりでなく、空想を膨らませることもできず、もし、できても「描写」ができないのです。時代考証、その素養である古文読解を学ぶのはたいへんなので、必然的にライバルが少なくなるというのです。

 
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 さて、創世記は、現代の私たちの分け方では、どのジャンルに入るのでしょう。
 歴史小説が一番近いかもしれません。ところが、小説というのは適切ではありません。小説は以前にも書きましたが、歴史的に見ると、非常に新しいスタイルの文書なのです。「物語」というのが近いかもしれませんが、「平家物語」「源氏物語」「今昔物語」などとは、根本的に違います。

 P・カイル・マッカーター(聖書およびオリエント研究の学者)は、エジプト脱出以前のイスラエルの歴史は、聖書に描かれているとおり、ひとつの家族史である、と、その著書「最新・古代イスラエル史、族長時代──アブラハム、イサク、ヤコブ」(株式会社ミルトス発行、池田裕、有島七郎訳)の項の冒頭に書いています。(Coffee Break51参照)
 学者であるマッカーターは、「聖書の中のアブラハム・ヤコブ・イサクの歴史の記述は、聖書外資料の裏づけがない。記述に対応する文書、考古学的・歴史資料はほとんどない」から、これは、アブラハムを始祖とする、ひとつの家族史であると言うのです。

 創世記を、すでにあるジャンル分けに当てはめると、このような説明しかできません。ところが、こう説明してしまうと、それでは、聖書のアブラハム・イサク・ヤコブの家族史は、「さとう家の家族史」と同じようなものでしょうか。

 
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 私は、聖書の文書は、いま現代、私たちが分類している一般的なスタイルのどれにもあてはめることができないと考えています。まさに、「聖書」スタイルとも言うべき独特のものです。

 つぎのヨシュア記からは「歴史の書」と呼ばれていますが、これが私たちがいま考える「歴史書」でないことは事実です。また、預言書に至っては、現代にそのモデルを見出せるでしょうか。箴言や詩篇は、ジャンルとしては理解しやすいので、ファンが多いのですが、そこに書かれている世界観は、独特です。

 聖書は、「聖書の鍵穴」を通らなければ、理解出来ない世界なのだと、私は思います。神の世界への鍵穴です。

 以下は、申命記32章の「決別の歌」、昨日の第二パラグラフの続きです。
 
  主は荒野で、
  獣のほえる荒地で彼を見つけ、
  これをいだき、世話をして、
  ご自分のひとみのように、
  これを守られた。    (10節)
  鷲が主のひなを呼びさまし、
  そのひなの上を舞いかけり、
  翼を広げてこれを取り、
  羽に載せて行くように。 (11節)
  ただ主だけでこれを導き、
  主とともに外国の神は、いなかった。(12節)
  主はこれを、地の高いところに上らせ、
  野の産物を食べさせた。
  主は岩からの蜜と、
  堅い岩からの油で、これを養い、(13節)
  牛の凝乳と、羊の乳とを、
  最良の子羊とともに、
  パシャンのものである雄羊と、雄やぎとを、
  小麦のもっとも良いものとともに、食べさせた。
  あわ立つぶどうの地をあなたは飲んでいた。(14節)
  エシュルンは肥え太ったとき、足でけった。
  あなたはむさぼり食って、肥え太った。
  自分を造った神を捨て、
  自分の救いの岩を軽んじた。(15節)
  彼らは異なる神々で、
  主のねたみを引き起こし、
  忌みきらうべきことで、
  主の怒りを燃えさせた。   (16節)
  神ではない悪霊どもに、
  彼らはいけにえをささげた。
  それらは彼らの知らなかった神々、
  近ごろ出てきた新しい神々、
  先祖が恐れもしなかった神々だ。(17節)
  あなたは自分を産んだ岩をおろそかにし、
  産みの苦しみをした神を忘れてしまった。(18節)












posted by さとうまさこ at 00:11| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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