2010年08月26日

Coffee BreakB あかし(神様はいます!)


 クリスチャンは「証し」をします。「証し」自体は、誰でもわかるやさしいことばです。一般的には、「これが、私が生きている証しです」「疑うなら、あなたに証しを立てましょう」などと使われます。証拠や証明と同じ意味に使われるケースもあります。

 でも、クリスチャンが、とくに「証し」「お証し」という場合、意味は少し異なります。「証し」とは、神様が「私」や「私達」(教会だけでなく、社会や学校や、全人類と言った大きな範疇でも)にしてくださった出来事を語ることなのです。

 クリスチャンは、しょっちゅう「証し」をします。「証し」をしないではいられない人たちです。神様が自分たちの人生や生活すべてに関わってくださり、すべて神様から与えられていると実感して暮らしているのが、クリスチャンだからです。
 
 教会ではおよそ、どんな出来事も証しになって、話されています。

 病気が癒された。仲直りができた。大切な行事のときに台風が来そうだったけれど、祈っていたら、朝には、雨がやんでいて無事行事が行なえた。一所懸命勉強して受験に合格した。仕事が見つかった。夢が実現した。大きな事業に成功した方、各ジャンルで地位を築いているような方の証しもあります。ドラマチックなものもあれば、ごくささいな出来事にしか見えないものもあります。辛い目にあったときに、神様とお話しして、慰められ、立ち直ったといった告白もあります。

 昨日ご紹介した「出来事」、あれも小さな「証し」の一つです。


 
「聖書は神の霊感によって書かれた誤りのない神の言葉である。だから、信仰をもって読まなければならない」
 などと言われると、もう、「ついていけない」と思われる人もいるでしょう。

 でも、これは、もっとシンプルに言い換える事もできるのです。
 聖書は、「神様がおられる」と言う前提で書かれたものなのです。だから、神様の存在を前提にして読まなければ、どうにもならないのです。先ず、ドアが開かないのです。

 ハリーポッターをご存知でない方は、あまりおられないでしょう。あの小説は、魔法使いの世界を書いたものです。魔法使いがいて、魔法を使うという前提で読まなければなりません。魔法使いなんているものか、と頑なに、横を向いていては、いくらハリーが可愛くてかわいそうな境遇の、愛すべき少年でも、白けてしまうでしょう。
 恋愛小説を読む人は、人と人が愛し合う事を信じているのです。少なくともそういう事実がある事は認めているのです。


 もちろん、わたしは、神様と魔法使いを同列に置くなんてつもりはありません。聖書と恋愛小説も比べられないものです。
 聖書の神様は、天地万物をお造りになった全知全能の神です。魔法使いも、人間同士の愛も、元はといえば神様がお造りになったのです。「魔法」や「魔術師」は、聖書にも登場しますが、神様がおできになるわざ(みわざ)とは比べ物にならない、小さな「ふしぎ」に過ぎないのがわかります。

 
 読者の方から、いくつか質問をいただいています。
そろそろ、本題に入ります。
でも、今日は、質問と答えの半分を申し上げたようです。



  
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posted by さとうまさこ at 06:29| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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