2010年09月04日

Coffee BreakK 聖書の成り立ち(創世記1章〜3章)



 創世記の最初の3章は、小説のプロローグと言ったものではありません。小説では、プロローグは物語の全体のテーマや雰囲気を提示し、この先何が語られるかを読者が推測し、期待できるように、いわば書き手の手の内を少し見せるところです。読者に先を期待させ、つぎのページをめくらないではいられなくさせる、それが小説家の腕の見せ所です。

 文学史上でも非常に新しい形式である近代小説は、あらゆる技巧をこらして、読者を物語の世界に引き込み、楽しんでもらおうとする作家の「意欲」で、発達してきたのでしょう。「小説」という形式ができる前は、物語は、「叙事詩」または「戯曲」と呼ばれる形式で語られました。叙事詩も戯曲も、それを歌ったり、語ったり、演じたりする人間が必要でした。完全に独立した文学ではなかったのです。もちろん、例外はあります。源氏物語をはじめ、少数の物語文学は古くからあります。

 よくできた小説では、作家でさえ、物語の影に隠れています。作家が何を言っているのか、どういう人間であるのかなど、問題ではなく、その中に登場してくる人物や世界に読者の関心は入り込むのです。作家が語り手となって登場している場合でも、ナマの作家が登場しているわけではありません。それもまた、テクニックの一つなのです。「わたし」という語り手がいた方が、よりリアリティをもって、物語の世界に読者を引き込めるなら、その方が良いのです。至れり尽くせりの手配が整った世界なのです。

 どんなに作者が立派──この意味はいろいろありますが──であっても、書かれている世界がおもしろいはずであっても、読者が途中で投げ出せば、作者の負けなのです。もちろん、小説にも、さまざまなジャンルの、硬軟あらゆる表現のものがあります。読み手にもさまざまな人がいます。Aさんが顔をしかめたからと言って、つまらないなんて決め付けられません。Bさんは、その噛み応えを喜ぶかもしれません。「ハッピーエンディングはつまらない」人もいれば、「やっぱりハッピーエンディングでなくちゃ」の人もいます。

 気高い理想をもって苦難の人生に立ち向かう主人公に寄りそい、涙を流し、義憤に駆られ、読み終わった後もその体験が読者を駆り立てている、そんなカタルシスを求めて物語を読む人がいます。反対に、犯罪事件や人生の敗残者の記録のよう物語もあります。せっかくの、ホッと一息のプライベートタイムに、どうしてわざわざ息苦しくなるような主人公と付き合うの、など、大きなお世話なのです。

☆☆☆☆

 さあ、聖書です。
 聖書は、もちろん、小説ではありません。近代になって書かれたものではありません。2000年前から3600年くらい昔に、1600年くらいの間に書かれたものです。作者、いわゆる聖書記者と言われる人も何十人もいます。はっきりわかっている作者、名前も立場も特定できない作者もいます。

 聖書記者が一同に集まって編集会議を開き、全体のテーマを相談して、持ち場を決め、書いたというようなものではありません。
 それどころか、互いに顔も知らない、生きた時代も違う、活躍した場所も違う人たちが書き残したものが、結果的に、一冊になったのです。ところが、ふしぎなことに共通したテーマが全体を貫いているのです。
 それは、「神と人との関係」「楽園を追放された人間を、もう一度神が手元に戻して下さろうとする計画」です。ある意味、現実を超越した世界です。

 初めに、神が天と地を創造した。

 ここには、いきなりまばゆいフラッシュを当られたような衝撃はありますが、どうぞどうぞ、続きをお読みくださいといった「媚び」はありません。
 私たちは、それでも、なんとか、3章まで読むことができました。
 私は、ひとりのクリスチャンとして、何度読んでも感慨があり、行きつ戻りつ語ったので、もう、先に行ってしまわれた方もいるかもしれません。

 足の速い方はどんどん先に進んでください。でも、時々、振り返ってくださると助かります。


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posted by さとうまさこ at 04:00| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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