2010年10月04日

Coffee Break42 サライとハガル




 ノンクリスチャンの友人が、「サムソンとデリラってどんな話なの」と訊きます。
 久しぶりに会っておしゃべりをしていたときです。先方はクリスチャンの私に、たまには聖書についての質問もしないと悪いと思ってくれたのかもしれません。それで、どこか記憶に残っていた聖書の話を持ち出したのでしょう。

「サムソンはね。神様から与えられた怪力の持ち主で、その力で、弱いイスラエルの人たちのために敵をやっつけて働くんだけれど・・・」と、わたしは茶飲み話っぽく語ります。
「彼は女性に弱かったのね。女の人を好きになると、ぞっこんになるの。敵をやっつけに行ったのに、女の人に騙されて逆にとらえられてしまうの」
「なあんだ」
 友人は言いました。
「聖書にも、そんな女たらしみたいな人が、出てくるの」
「そうよ。聖書だからって、聖人列伝ではないのよ」

 
 この友人は、自ら「好奇心が強い」「物知り」を自認している人です。キリスト教にも理解のあるほうです。ときには、どこかの教会の催しに出かけたり、私の所属している教会へ来てくれたこともあります。それでも、聖書は、ぜんぜん知らないようです。
 そうだとしても、笑えないでしょう。わたしも、まったくキリスト教を知らないときは、同じだったのです。

 聖書と言うと、聖人君子のような人(もしかして、イエス・キリストのイメージ)がでてきて、論語のように倫理の規範が延々と述べているか、荒唐無稽な昔話の羅列か、神様と悪魔がどこか遠い宇宙で闘っているか、神秘的な意味不明のご託宣が書いてあるか。と思っている人が多いのです。


 「女性に弱い」英雄が出てきて、しかも、その人が、その弱さにも関わらす、神さまに用いられているという矛盾を抱えた物語だと聞いて、びっくりしてしまうのです。
 ダビデが人妻と不倫をして、その女性の夫を殺してしまうとか、ダビデの宮廷の中で兄の王子が妹の王女を犯したとか、ロトの二人の娘が父に酒を飲ませて眠らせておいて、交わるとか。
 正視しがたい事件が次々起こる、それを、いったいどのように観たものか、どのように解釈したものかと惑っている人たちが、現に教会の中にも、聖書の学びのときにもいます。

 まして、聖書は、聖なる書物だから、聖いことしか書いていない、だから、わたしはとても近寄れないし、近寄る気がしないと言うノンクリスチャンの人が、突如聖書を読むと驚くのです。



 アブラハムの物語でも、アブラハムを聖人などと思っていると、たちまちつまづいてしまいます。アブラムは、神様が何度も、「あなたを祝福する」と言ってくださった選びの民の始祖となった人です。ところが、とても、弱いところがあります。旅の途中で、自分の命惜しさに妻を妹と偽る事件が二回ありました。
 妻が女奴隷ハガルを勧めてくれたら受け容れるのは、仕方がないのですが、妊娠したハガルと妻の関係が悪くなり、サライから責められると「彼女はお前の奴隷だ。お前の好きなようにしなさい」と、ハガルのことはまったくかばってあげません。もめごとから逃げています。

 この、弱い人、ある意味卑怯ともいえるアブラハム。彼が、それでも、救いの器として選ばれたのは、神様に対する確かな信仰でした。

 ハガルを夫に勧めたのは、もともとサライです。嫌ったのもサライです。ちょっと、サライもひどい女性だと思えなくもありません。
 しかし、この物語は人間の醜さだけを語るものではないようです。

 追放されることで、アブラハムの神への信仰が、エジプト女のハガルにも及んでいくのです。

 明日は、砂漠を放浪するハガルに、神様が現れてくださる場面を、見たいと思います。



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posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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