2010年10月06日

Coffee Break44 「サラ・ハガル」関係


 
 神はアダムに対し、一人の女性しかお与えになりませんでした。アダムもそれを喜んだのです。神がエバをアダムに引き合わせたときの、アダムのよろこびの声──これこそ、私の骨の骨、肉の肉。(創世記2章23節)を思い出してください。


 ずいぶん前ですが、ある生物学者が新聞に書いておられたことに、なるほどと思ったものです。その方は、聖書を引用していたのではありませんが、男女の始りを、「もともと一つの生命体であったものが、大昔に離れ離れになったので、その相手を求めて男女は引き合うのだ」と書いていたのです。むしろ、「科学的」な、その説明に、当時、クリスチャンでなかったわたしは、妙に得心したのです。そうか。男と女はもともと一つだったのだ。
 この説明は、人間以外の雌雄の存在にも適用されていたので、聖書とは意図が違うかもしれません。人間の男女が交わるのは、生殖だけが目的ではないからです。


 私たち人間は、同時に、この本来あるべき男女の姿を、逸脱して来たのだということも知らなければなりません。
 
 聖書物語を読んだ方の反応のひとつに、「性」の問題がありました。
 たとえば、「清く正しく、信仰深い」ユダヤ娘エステルが、後宮の複数の妃の一人であったと言う設定に、抵抗を感じる方がいました。
 アビガイルにプロポーズするとき、ダビデにはすでに二人の妻がいたと、わざわざ書いてあるのも、気に障る・・?
 ルツの姑ナオミが、嫁にレビラート婚を勧めることは、「麗しい」嫁思いの行為であるという意見もあります。でも、男性が一人で寝ているところに忍び入っていく場面を「麗しい」と、今の私たちは思えるでしょうか。
 私たちが認めるのは、当時はそのような行動を取っても、亡き夫の家を継ぐ息子を設けようとすることが美談だったということです。それが社会的習慣で、それに従うのはよいことだった。
 神様は、そのような間違った習慣のなかにいる不完全な人間をも用いて、人類を救おうとされたということではないでしょうか。



 神様の創造の意図に従って、一夫一婦制を守ってきた時代や国は、たぶん世界中捜しても、どの時代を切り取っても、ないでしょう。
 個人的には、一人の妻、一人の夫を生涯守った人はたくさんいると思いますが、社会全体としてみれば逸脱していました。


 アブラハムの時代、妻に子どもが生まれなければ、妻は自分の召使を夫に差し出すのは当たり前の風習だったようです。妻に子どもがいてさえ、妾や側女を持つ人はたくさんいたのです。
 ダビデもソロモンもたくさんの奥さんと側女がいました。小説にも書きましたが、これは、王さまが好色だからだとばかり言えないのです。政治的な駆け引きから、互いの娘や姉妹を相手の王様に贈るのは、当たり前だったのです。日本でも、戦国大名などそのようにして、複数の妻、多数の子どもを持ちました。江戸時代の大名などは、跡継ぎがいないと、将軍家から家を取り潰されたのですから、あと継ぎを生むのは、至上命令でした。

 政治的な必要以外に、好色な男性のために、生活力のない女が身を売る売春も歴史とともに始まったのでしょう。もちろん、みずから、身を売るような淫らな女性もいたかもしれません。
 

 問題は、このような「男女関係」がもたらしたものです。もともと、一夫一婦であるように造られているのですから、二人、三人の妻の間に、葛藤や相克があるのは当たり前です。それに、子どもの問題が絡みます。どの妻の子供も対等な権利というのでは秩序が乱れます。歴史的には、多くの場合、母親の血統、正式な結婚ほどその子供の地位が高かったのです。けれども、生まれてくる子どもにしたら、そんなことは「不公平」です。


 たとえば、日本では、戦前の法律では、嫡出子、庶子、私生児と、戸籍にも区別がありました。嫡出子とは、正式な結婚関係で生まれた子ども、庶子は妾の子ども、私生児は父親の認知のない子どもです。
 これは、戸籍に記され、その差別は、単に家庭内に留まらず、就職、進学、結婚など、人生の重大な岐路で影響したのです。どんなに父親が名門の出でも、本人が優秀でも、庶子や私生児の人生は差別された厳しいものでした。

 
 「サラ・ハガル」関係は、主人である男が、正妻の子どもを跡継ぎと決めることで、社会的に容認され、成立していたとも言えます。


 聖書では、むしろ、ハガルのほうが被害者なのですが、それでも、私たちの中に、ハガルを排斥する気分があるのは、結局、正妻サラ、その子どもイサクに肩入れする思想があるのかもしれません。
 アブラハムの信仰が試される最高の山場、神のご命令に一言も逆らわず、アブラハムが、モリヤの山で、イサクを全焼のいけにえとして神に捧げようとする場面(創世記22章1節〜14節)は、とても感動的でもあります。

 しかし、神様が、ハガルとイシュマエルの二度目の危機的な場面で(創世記21章9節〜19節)、また、ハガルに現れてくださったのは、何を意味するのでしょう。

 ハガルに対する神様のお取り扱いは、とても、意味深い箇所です。


 神様の心は、人の思いよりはるかに高く広いと知らされます。


 
 
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posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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