2011年01月02日

Coffee Break132 姦淫の女(ヨハネの福音書8章)





 ある時、イエス様が宮(神殿)で教えておられると、律法学者とファリサイ人が一人の女を連れてきて、言いました。

「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。(ヨハネの福音書8章4節)
 モーセは律法の中で、こういう女を石打にするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」(5節)
 彼らはイエスを試してこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。(6節)
 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のないものが、最初に彼女に石を投げなさい。」(7節)



 姦淫についての神様の御心を思う時、忘れてはならない印象深い場面です。
 「罪のないものから」と言われて、群集は年長者から始めて、一人また一人と、その場を立ち去ったのです。そして、最後に、女とイエス様だけが残されました。
 イエス様は、女に言われました。

「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定めるものはなかったのですか。」(10節)
 彼女は言った。「だれもいません。」 そこで、イエスは言われた。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」
(11節)


 ここには、少なくともポイントが三つあると思います。
 @イエス様を陥れてやろうとする律法学者やファリサイ人のもくろみ。
 A群集が自分にも罪があると認めたこと。
 B姦淫の現場から連れてこられたと言う、女の罪の実態です。

 @Aは、大切なことですが、ここでは、この女性の罪の実態を見ましょう。
 この女性は姦淫の現場で捕まりました。しかし、姦淫は一人ではできません。相手がいたはずです。どうして、相手の男が連れてこられなかったのでしょう。
 女性が姦淫と言われたのは、夫か婚約者がいたのに、他の男と寝たからです。相手の男も殺されなければなりません。

 レビ記には、人がもし、他人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も必ず殺されなければならない。(20章10節)
 申命記に、夫のある女と寝ている男が見つかった場合は、その女と寝ていた男もその女も、ふたりとも死ななければならない。(22章22節)とあります。

 それなのに、人々は女だけを引き出し、集団で石打にしようとしたのです。それ自体すでに公平さを欠いています。こういうことは、一般的によくあったのかもしれません。
 イエス様が、「相手の男はどうしたのですか。なぜ、女だけを連れてきたのですか。」などと、お咎めにならなかったのは、さすがです。もし、そのように聞けば、結局姦淫を犯した人間は殺してもよいと認めたことになり、たちまち石が投げられたでしょう。

 それこそが、律法学者やファリサイ人の思うつぼでした。律法どおり殺すのなら、なにもイエス様に意見を聞く必要はないわけです。そのとおりするなら、イエス様に特別群集が熱狂することはなかったでしょう。
 イエス様は、神様を口実にしながら血も涙もない律法学者やファリサイ人が、どう歯軋りしてももつことのできない「愛のあるお方」なので、人気があったのです。
 また、イエス様が、「律法はそのように言っているが、この場合は・・・」などと、石打ちを止めれば、これも律法学者やファリサイ人の狙い通りでした。「イエスと言う男は、律法を毀損している、神を冒涜した」と訴えることができるのです。



 別の機会に、やはり彼らがイエス様を試して、「(イスラエルの統治国ローマ帝国の)カイザルに税金を納めるのは律法にかなっているでしょうか。かなっていないでしょうか。」と訊ねたのを、思い出してください。

 イエス様が、「かなっている」と言えば、イスラエルの民衆はイエス様に失望し、「正しくない」と言えば、イエス様は、ローマ帝国に楯突いたとして、訴えられたのです。

 イエス様がデナリ銀貨を出させて、そこに刻まれたレリーフ・皇帝の肖像を指して、「カイザルのものはカイザルへ」「神のものは神へ」と言われたのは、まことに名答でした。(マルコの福音書12章14節〜17節)
 それは、たんに応答が機知に富んでいるということではありません。世俗の権力権威と神の権威をきちんと、分けてみることができるイエス様でなければ、出てこない答えです。

 姦淫も、「人間社会が作る罪」「神がご覧になった罪」の両面があるのではないでしょうか。もちろん、私たちは、神の基準をいつも見つめていないといけないと思います。
 はじめに、一人の男と一人の女を結び合わされた神の創造のわざを傷つけていないでしょうか。
 

 石が飛んでこない時代だから何をしてもよい、そのような気分で人間が自由勝手をしていられるのは、悲しみながらも、神様が譲歩してくださっているからです。
 みずから人の姿をお取りになって「世」に来られ、私たちの罪の身代わりに十字架に磔になったイエス様のご降誕を、私たちは一週間ほど前に、お祝いしたばかりです。






     聖書箇所は、
     新改訳聖書を
     使わせていただいています。







 
【関連する記事】
posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。