2011年01月05日

Coffee Break135 「殺してはならない」について(マタイの福音書5章)





 十戒の六番目の戒め「殺してはならない」と言われて、たいていの人が思うのは、「そうだ。そのとおりだ」でしょう。良心的なふつうの市民だと自分のことを思っている人は、自分が一生の間に、殺人者になるなんて夢にも思っていません。せいぜい、「殺されないようにしよう」です。
 自分が人を殺すなんて凶悪な思いを抱くなんて、信じられないのです。

 けれども、イエス様は言われます。
 昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺すものはさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てるものは、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって、『能無し』と言うようなものは、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うようなものは燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(マタイの福音書5章21節22節)
 

 これは、じっさいに相手を罵倒するのはもちろん、心の中で腹を立てるだけでも殺人と同じだと言われているのです。このようなののしりがきっかけになって喧嘩になり、人が殺しあう原因を作ることも「殺してはならない」に触れると、言われるのです。

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 私はかつて、ミステリーファンでした。自分でも書いてみました。ですから、ミステリーについては、必要な要素、組み立て方、次のページをめくらないではいられない小説はどのようなものであるかなど、興味をもって調べました。おもしろい小説は、ミステリーに限りませんし、また、おもしろい本は、小説だとは限りません。読み出したらやめられない本というものがあるのです。
 同時に、ほんとうに「おもしろい」ものは、もう一度読みたくなるものです。筋書きも、そこにある言葉遣いもわかっているのに、再読に耐える本です。その意味で、聖書は興味の尽きない書物です。もともとが古文書ですし、中東にいた一民族に与えられた文書ですから、わかりづらいところもあって、はじめのうちは、次々と・・・とは、行きませんが。


☆☆☆☆

 エンタテイメントとして見れば、すぐれたミステリーはたくさんあります。しかし、ミステリーはちょっと後味が悪いのです。なぜかといえば、人の心の、一番陰の部分にコミットしているからです。
 コナン・ドイルやアガサ・クリスティなどのミステリーは、軽くて俗っぽい上品な味付けで、語られていきます。けれども、このような古典のミステリーであっても、目的は悪を行なう者(殺人者)とそれを追及する者とのゲームです。
 よく言われるように、お話しというものは(新聞記事でも)、5つのW(Who? When? Where? What? Why?)と、ひとつのH( How?)です。
 この六つはぜんぶ同じ重さをもつのではなく、話によってポイントの置き方が違います。古典ミステリーといわれるものは、最初の四つのWとHだけでした。密室殺人、探偵物などは、これに入ります。探偵役がいて、その殺人事件をだれが行なったか、方法はどのようなものだったかが、問題になるのです。

 しかし、犯人探しに主眼が置かれるようになると、動機とアリバイに焦点が当てられます。アガサクリスティのオリエント急行殺人事件のように、同じ列車に乗り合わせた乗客全員でアリバイを保証しあうのは、最高の目くらましです。同時に、殺人を犯すかぎりは、動機が必要です。それがないと、一種の快楽殺人、衝動殺人になってしまいます。
 
 やがて、この動機の部分を大きく広げて、サスペンスにするジャンルが生まれました。サイコロジカル・サスペンス・心理サスペンスです。
 心は人間の内側にあって、外からは見えません。その当人にも、見えているとは言いきれません。かりに見えていても、なかなかコントロールできません。ここにサスペンスがあります。葛藤があります。一人のひとの心の葛藤が、もう一人のひとの心と出会うとき、確執や疑心暗鬼が生まれます。
 非常にうまく行っているよい関係でも、緊張が生まれます。

 十戒の6番目の戒めで、神様は、「殺してはならない」と言われました。
 そして、イエス様は、有名な山上の説教で、冒頭のように仰せになったのです。

 兄弟に向かって腹を立てるものは、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって、『能無し』と言うようなものは、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うようなものは燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(マタイの福音書5章22章)

 イエス様は、行為としての殺人だけではなく、人を「ののしりたくなるような」心をも、治めなさいと言われるのです。
 
 この提案だけなら、道徳の本や心理学の本にも書いてあるでしょう。だれでも、心を治めなければいけないことは「知って」います。結局は、自分で自分を治めることが一番難しいのはわかっています。

 イエス様は、さらに踏み込んで言われるのです。

 「目には目で、歯には歯で」と言われたのを、あなたがたは聞いています。(5章38節)
 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪いものに手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つようなものには、左の頬も向けなさい。(39節)
 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。(40節)
 

 この言葉は、私達にとって鏡のようなものです。衣服や皮膚をとおり抜けて心の中を写してしまう鏡です。レントゲンにも写らない大きな病巣を見せるのです。
 
 まだ、私がクリスチャンでなかったころ、私はヨーロッパやアメリカからきた心理サスペンスは、何でこんなに怖いのだろうと思いました。
 いま、その理由が、少しわかるのです。

 弟のアベルに嫉妬して心に怒りを燃やすカインに、神様は、話しかけておられます。
 
 なぜあなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。(創世記4章6節)
 あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」(4章7節)


 しかし、カインは「治めること」が出来ませんでした。そして、弟を野に誘い、襲いかかって、殺してしまいます。

                       つづく



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posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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