2011年01月06日

Coffee Break136 「殺してはならない」について2(マタイの福音書5章)




「目には目で、歯には歯で」と言われたのを、あなたがたは聞いています。(5章38節)
 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪いものに手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つようなものには、左の頬も向けなさい。(39節)
 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。(40節)
 

 このイエス様の言葉が、なぜ私達のみにくい心を写す鏡なのでしょう。こんな厳しい基準を当てはめられたら、だれであれ、みにくくなってしまうではないかと反論がきそうです。そうなのです。トマトを選別するのに、網戸のような目を通らなければならないとしたら、どんな小さなミニトマトだって無理です。
 さらに、このあと、イエス様は仰せになるのです。

「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。(マタイの福音書5章43節)
しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害するもののために祈りなさい。」(44節)


 ☆☆☆☆

 イエス様はどうして、これほど厳格な基準をお示しになったのでしょう。これが、できなければ、クリスチャンは失格でしょうか。ペテロやアンドレ、ヤコブやヨハネなど、イエス様の弟子たちは、みんなこの基準が合格だったので、お弟子にしていただいたのでしょうか。

 イエス様が、ある日、ガリラヤ湖のほとりを歩いていかれると、湖で漁をしていたペテロとアンドレをごらんになりました。イエス様は、「ついてきなさい」とおっしゃったのです。ペテロとアンドレは、すぐに網を捨てて従ったのです。
 しばらく行くと、ヤコブとヨハネが、父親と船の中で網を繕っていたので、声をお掛けになったのです。二人は船と父を置いて、イエス様に従いました。(マタイの福音書4章18節〜22節)
 入門試験のようなものがあったとは、思われません。もちろん、イエス様は神様ですから、彼らの心の中を見られたでしょう。かれらが、敵のために祈れるほどの高い倫理基準に達していないのは、よくわかっておいででした。

 当時のイスラエルでは、律法を守りたくても守れない人たちがたくさんいました。羊飼いのような仕事では、安息日も守れませんでした。卑しい仕事についている人たち(収税人や遊女、何度も結婚・離婚をした女など)は罪びとだと思われていました。ツアラアト、婦人病などの病人も差別されていました。障害者は蔑まれていました。サマリヤ人などの異邦人も、見下されていました。
 差別したり見下したり蔑んだりしていたのは、律法学者・ファリサイ人などの、宗教的エリートでした。彼らはイエスが、このような弱い人たち、罪びとと食事を共にしたりするのを非難しました。

☆☆☆☆

 イエス様がこれほど厳しい基準をお示しになったのは、当時、自分たちは完全に律法を行なっている「正しい人間だ」と自惚れていた宗教的エリートたちに、本当の「神の基準」を示されたのだと言われています。

 じっさい、このように神の基準の網の目を細かくされて、エリートたちは大いに自尊心が傷ついたのでしょう。福音書の物語では、彼らがだんだんイエス様にに敵対していく様子が、よくわかります。
 
 彼らは決して自分たちの醜さには、思い至りませんでした。そのため、やがてイエス様を捕らえ、訴え、十字架に架ける主導者となるのです。

             つづく




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posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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