2011年01月07日

Coffee Break137 罪(出エジプト記21章、マタイ5章)

 


 人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない。(出エジプト記21章12節)
  ただし、彼に殺意がなく、神が御手(みて)によって事を起こされた場合、わたしはあなたに彼の逃れる場所を指定しよう。(13節)
 しかし、人が、ほしいままに隣人を襲い、策略をめぐらして殺した場合、この者を、わたしの祭壇のところからでも連れ出して殺さなければならない。(14節)



 十戒の第6戒「殺してはならない」の細則です。このような細則は、つぎのレビ記にもさらに、申命記にももう一度記されていますが、これをみると、神様がほんものの殺人と、過失致死を区別しています。
 たとえば、申命記には、「木を切るために斧を手にして振り上げたところ、その頭が柄から抜け、それが隣人に当たってその人が死んだ場合、その者はこれらの町の一つにのがれて生きることができる。(19章5節)」とあります。これは、先の13節に対応する「逃れの町」のことです。過失で人を死なせてしまった人の、いわば駆け込み寺です。
当時は、誰かを死なせればその一族によって、すぐにあだ討ちされる恐れがあったので、神様はこのような規程を作ってくださったのです。

 カインに、「怒りを治めなさい。そうでないと、罪は戸口でおまえを待ち伏せしている」と言われた神は、同時に、このような裁量を示される愛の神様なのです。


 それから1500年後、イエス様はおっしゃいました。

 腹を立ててはいけません。怒りやののしりを治めなさい。相手が、じっさいに殴ってきたら、反対の頬を出しなさい。服を取られたら、さらに与えなさい。さらに、その加害者を愛し、迫害するもののために祈りなさい。(マタイの福音書5章)
「それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。」(5章45節)
 


 ☆☆☆☆


 Coffee BreakSで、私は、カトリーヌ・アルレーの「わらの女」(1956年発表のミステリー小説)に触れました。
 敗戦国ドイツ生まれの主人公ヒルデガルデという女性は、第二次大戦における連合軍のハンブルグへの激しい空襲のため、親兄弟、友人、財産のすべてを失い、翻訳をしながらその日暮らしをしていました。たぶん、ひどい虚無の中にいたのでしょう。彼女は、自分の失ったものを穴埋めするのは、富しかないと思い込むようになります。単に豊かな生活ではなく、途方もない富を持つ男と結婚する夢をもつのです。結婚相手は富豪。金持であれば、どんな年寄りでも、どのような見かけでも、性格でももう問題ではないと思い込んでいました。
 これは、一見大きな野心、場合によっては夢に見えます。けれども、その心を探れば、彼女は自分がもっていたはずのすべてを奪った、「運命」を呪っていたに違いありません。
 憎しみと怒りが、荒唐無稽な夢となって、彼女の心で成長していったのです。富豪と出会い、億万長者夫人となることさえできれば、彼女はいくらか社会に復讐することができたのです。

 こういう屈折した野心を抱く人は、いくらでもいるかもしれません。ですが、ヒルデガルデの場合は、「妄想」に過ぎませんでした。なぜなら、彼女は客観的には、(当時の基準では)婚期を逸した貧しい孤独な女に過ぎませんでした。富豪と出会う手ずるも、それにふさわしい自分の財産も身分も、特別な美貌もありません。

 彼女が当てにしていたのは、新聞の「求婚広告」でした。今で言えば「婚活」でしょうか。欧米の新聞には、求婚広告の欄があったようです。
 ヒルデガルデは、毎日、新聞の求婚広告欄を丹念に読んでいました。彼女にふさわしい条件の広告は、一顧だにしませんでした。チマチマとまじめに生きている「よい男性」など、問題外だったのです。
 そんなある日、とうとう目指す広告に出会います。「当方莫大な資産あり、良縁求む・・・」
 それは大きなワナでした。ヒルデガルデ自身、その広告の不自然さに気がついていたのです。何かウラがある・・・。

 長い小説なので、筋書きをぜんぶ述べることはできません。その発端と同じように、話はどこか現実離れした雰囲気の中で、展開して行きます。
 すべてを奪った社会や時代に対する怒りの中で、悪魔が彼女を占領し、ささやき続けたのです。「これこそが、おまえの取るべき道だ」──そうして、やがて、破滅してしまうのです。


☆☆☆☆


 読み終わって見ると、この小説には、あまりリアリティがないのです。と言うのも、主人公の一途さが、極端だからです。悪魔の部屋に通じるとしか思えないトンネルを、まっすぐ進むのです。そして、また、作者が、そのような悪魔に魅入られた主人公に対して、じつに、容赦がないのです。
 たまたま、ここでは、一作しか例に挙げられないのですが、欧米の心理サスペンスには、このように容赦のない物が多いのです。日本の作家なら、もう少し主人公にシンパシーを見せるか、主人公のよい性質の部分が、最後には、彼女(彼)を救うかするのでは、と考えたりするのです。


 イエス様はもちろん、厳しい倫理基準を示されたのですが、それは「救い」と表裏になっているものです。自分はとうてい神のお示しになる基準に届かない者だと自覚して、悔い改めて赦しを乞えば神様は救ってくださるのです。

 1920年代生まれのアルレーは、そのようなことは百も承知だったと思います。その上で、神の御心に反し、「入り口」で待ち伏せしている罪(悪魔)に従う人間を、徹底的に突き放して書いたのです。
 天地を創造された神様・その神様の大きな「犠牲」が、「悪女書き」と言われたアルレーの念頭から、離れなかったのではないでしょうか。


 もちろん、異論のある方もいらっしゃるでしょう。
 これは、初めて「わらの女」を読んだ時から、三十年、胸に持ち越していた私の個人的な結論です。



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posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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