2011年01月10日

Coffee Break140 契約の血(出エジプト記24章、マタイの福音書26章28節)





 それから、彼はイスラエル人の若者たちを遣わしたので、彼らは全焼のいけにえをささげ、また、和解のいけにえとして雄牛を主にささげた。(出エジプト記24章5節)
 モーセはその血の半分を取って、鉢に入れ、残りの半分を祭壇に注ぎかけた。(出エジプト記24章6節)

 そこで、モーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った。「見よ。これは、これらすべてのことに関して、主があなたがたと結ばれる契約の血である。」(出エジプト記24章8章)


 シナイ契約は、ノア契約やアブラハム契約とは比べ物にならない大がかりなものです。ノア契約やアブラハム契約は、それぞれ、ノアやアブラハムと、神との対話のような形で結ばれています。けれども、シナイ契約は神と全イスラエルの民との間に結ばれたのです。また、聖書の出エジプト記に出てくるシナイ山が、どの山なのか、今では正確に特定することができないそうですが、契約をした場所の名前が出てくるのも、ノアやアブラハムのときとは違います。

 時間的な経過も長いものです。イスラエルの民がシナイの荒野に着いてから三日目に、神は十戒とそれにともなう細則をくださったのです。そのあとまた、神はモーセを山に招きます。(24章15節)それから、四十日四十夜、モーセは山にこもるのです。

☆☆☆☆

 シナイ契約が、ノア契約、アブラハム契約と異なるもうひとつの大きな違いは、シナイ契約では犠牲になった動物の血が契約のシンボルとなっていることです。
 聖書では、血はいのちを表します。はじめて神様がノア(人類)に、肉食を許された時、神様は、「肉はそのいのちである血のあるままで食べてはならない。」(創世記9章4節)と仰せになっています。じつはこのすぐ後の、5節「わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血を要求する」とも仰せなのです。
 私たちは自分の罪のためには、本来自分自身をささげなければいけないのです。けれども、神様は、祭壇にささげるものとして、牛か羊でよいと言って下さったのです。そして、わたしたちの命の代わりに彼らのいのちが犠牲になった印に、血が祭壇と人の双方に注ぎかけられたのです。

 しかし、どんなに傷のない犠牲の動物を捧げても、動物の方が私たちより価値があるはずがないのです。自分より劣った犠牲しかささげることができない人間は、いつまでたっても、神様の前に贖いを済ませることはできませんでした。

 新約の時代になっても、イエス様がおいでになっても、神殿では毎日のように犠牲の動物がほふられ、血が流されていました。

 まさに、そのような血なまぐさい光景に、しかし、神様みずからピリオドを打たれたのです。
 以下の聖書箇所は、イエス様と十二弟子たちの過ぎ越しの食事の場面です。
 この「契約の血」が、どれほど大きなものだったか、まだ、このとき、この場にいた弟子たちでさえ、わからなかったのですが。

 彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体です。」(マタイの福音書26章26節)
 また、杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。(27節)
 これはわたしの契約の血です。罪を許すために多くの人のために流されるのです。(28節)


 人間の不完全さを憐れにお思いになった神様が、とうとうご自分の血を流してわたしたちを買い取ってくださったのです。




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posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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