レビ記18章23節までで、さまざまな性的な禁忌をお示しになったあと、24節で、神は、次のように仰せになっています。
, あなたがたは、これらのどれによっても、身を汚してはならない。わたしがあなたがたの前から追い出そうとしている国々は、これらすべてのことによって汚れており、(レビ記18章24節)
このように、その地も汚れており、それゆえ、わたしはその地のとがを罰するので、その地は住民を吐き出すことになるからである。(25節)
あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守らなければならない。この国に生まれた者も、あなたがたの間の在留異国人も、これらの忌みきらうべきことを、一つでも行なうことがないためである。(26節)
イスラエルの民に十戒を下さってからの、アブラハム・イサク・ヤコブの神。「わたしはある」と自己紹介された聖書の神は、次から次へと、戒め、おきて、細則を繰り出してこられるように思えます。
シナイで、神はいわば、イスラエルの民と結婚の契約をされたのですから、契約事項が厳しいものになるのは当然かもしれません。
神礼拝に関する律法、個々の民の生活を律するおきて、集団のおきて、幕屋と祭司の祭祀と制度。
出エジプト記の20章から40章まで、さらに、レビ記に引き継がれてからも語られるこれらの数多くの律法は、まだまだ、じつは、つぎの民数記、また、申命記でも繰り返されるのです。
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天地をお造りになった聖書の神は、アブラハム・イサク・ヤコブを選び出され、それぞれに個人的な成功を与え、イスラエル民族の始祖・族長として立てられました。そして、創世記の中で、彼らイスラエルの先祖に対して、幼子に対するような眼差しと面倒見の良さで、接しておられます。
四百年後、エジプトで奴隷の境涯に苦しむイスラエル民族を、モーセに命じて連れ出されてからも、シナイに到着するまでは、やはり、幼子の世話をするように民のめんどうを見ておられるのです。民の方もまるで、親に頼りきった子どものようでした。
敵が迫ってきたと言って、ヒステリックにモーセに詰め寄り、水がないと言ってわめき、「お腹が空いた」「肉が食べたい」と、言いたい放題です。そのたびに、民から突き上げられるモーセは、神様に訴えて叫びます。神様は、「わかった。わかった」とばかり、海を二つに分け、苦い水を甘い水に変え、マナを降らせ、ウズラをもたらして下さって、文字通り頼りになるやさしい「おとうさま」です。
しかし、シナイで、十戒を与えて、イスラエルの民と契約を結ばれた聖書の神は、一転、とても峻厳な「父親」に変わります。
民とお会いになる場所を決められ、お会いになる相手をモーセと祭司に限定され、その手続きを厳しく決められ、民自身がご自分と親密に結ばれることを求められます。また、民の生活規範やルールも細かく細部にわたり、それに従うことを、厳しく求められます。
モーセがシナイ山にこもっている間に、金の子牛を作って拝み、乱痴気騒ぎを繰り広げていたイスラエルの民に、神がどれほどお怒りになったかは、記憶に新しいところです。
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これら、レビ記で示された性モラル自体は、当時の中東で、厳格に守られていたのではありません。
それどころか、神ご自身が仰せのように、
──あなたがたより先にいたこの地の人々は、これらすべての忌みきらうべきことを行なったので、その地は汚れた──(18章27節)のでした。
ときおり、ネットなどで、先住民のいるカナンにイスラエル人を入れるため、先住民を滅ぼしたり、追い払ったりする「聖書の神はひどい」と、非難する意見が出るのですが、神はイスラエル人を「無条件に生かす」ために、先住の民を追い払うのではないのです。
元をただせば、神は、罪に罪を重ねる全人類をいつかご自身のみもとに引き寄せ、祝福するため、その器としてアブラハムを召し出されたのです。(創世記12章)
その子イサク、孫ヤコブ(イスラエル)を大切に育て、ヤコブの十二人の息子をエジプトという苗床に移し、そこで民族と呼べるほどまでに数を増やして、連れ出されたのです。
全人類を救いに入れるための器という神様からの使命をおびているのですから、イスラエル人は、カナンにいた他の部族や民族の人たちより、高い神意識、神との関係、生活の規範をもった「神の民」であることが、求められたのです。
そのために、性に関する規範も、厳しいのです。
あなたがたがこの地を汚すことによって、この地が、あなたがたより先にいた国民を吐き出したように、あなたがたを吐き出すことがないためである。(28節)
これらの忌みきらうべきことの一つでも行なうものはだれであろうと、それを行なうものは、その民の間から断たれる。(29節)
くどいほど、神は繰り返されます。18章の最後の30節をお読みください。
あなたがたは、わたしの戒めを守り、あなたがたの先に行なわれていた忌みきらうべき風習を決して行なわないようにしなさい。それによって身を汚してはならない。わたしはあなたがたの神、主である。
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