2011年05月05日

Coffee Break250 カナン取得の条件(民数記33章50節〜56節) 




 エリコに近いモアブの草原で、主はモーセに告げて仰せられた。(民数記33章50節)
「イスラエル人に告げて彼らに言え。
 あなたがたがヨルダンを渡ってカナンの地に入るときには、(51節)
 その地の住民をことごとくあなたがたの前から追い払い、彼らの石造をすべて粉砕し、彼らの鋳造をすべて粉砕し、彼らの高きところをみな、こぼたなければならない。」(52節)



 カナン入りを目前にして、神は、その目的を明確に示されます。
 イスラエルの民は、「その地の住民を、ことごとく追い払わなければならない」のです。また、「彼らが祀り、拝んでいる石造や鋳造物、それらを据えている高台をことごとく壊せ」。

 イスラエル人たちは、カナンで、「乳と蜜が流れる土地に住めさえすれば良い」のではありません。契約や駆け引きや、婚姻を結びながら、現地のカナン人と同化したとしても、住むことはできるかもしれませんが、神はそのようなやり方を勧めておられません。

 モアブの娘たちと性的関係をもったことが、ただちに、偶像礼拝に結びつき、イスラエルの守りを危うくした記憶は、まだ生々しいのです。
 対決姿勢で、戦いをもって、カナンの住民を追い払わないかぎり、またしても、イスラエルの民は偶像礼拝の過ちを犯すでしょう。

「あなたがたはその地を自分の所有とし、そこに住みなさい。あなたがたが所有するように、わたしがそれを与えたからである。(53節)
 
 もし、その地の住民をあなたがたの前から追い払わなければ、あなたがたが残しておく者たちは、あなたがたの目のとげとなり、わき腹のいばらとなり、彼らはあなたがたの住むその土地であなたがたを悩ますようになる。(55節)
 そして、わたしは彼らに対してしようと計ったとおりをあなたがたにしよう。(56節)」

 
 カナン人を追い払い、偶像を徹底的に破壊したあとは、そこに住みなさいと主は言われるのです。 理由は、そこに、イスラエル人を住まわせるのが神のご計画だからです。
 人類を救いに入れるというご計画のために、神はアブラハムを召され、アブラハムの子孫にカナンを与えると約束されたのです。その約束がいよいよ成就するところなのです。

 神は、念には念を入れて命じられます。カナン人の追放は徹底したものであること。もし、いい加減なところで妥協したなら、イスラエルの民はその残っている民から悩まされ続ける。

 そればかりか、神の命令を完遂しないで、いい加減なところで妥協したなら、神ご自身が、イスラエルの敵にしようと思っていることを、イスラエルに報いると言われるのです。

 
 ☆☆☆☆


 それにしても、ここで、どうして神様はイスラエル人にカナンを与えるために、今、カナンに住んでいるカナン人を追い払うようなことをされるのだろうと、思われるでしょうか。
 徹底的に追い払われるカナン人はどこへ行くのか。彼らにも生活があるではないか。偶像礼拝が悪いというが、信教は自由ではないか。
 現代の民族対立、宗教対立などを思い浮かべると、神が片方の民族を生かすために、もう一方を滅ぼすのは、理不尽な気さえします。

 また、キリスト教を初めとして、さまざまな宗教を、同列に並べ「宗教」と呼んでひとくくりにすると、イスラエルの神と同じように、バアルの神も尊重されるべきだというような理屈になってしまいます。


 このような疑問を解く鍵は、ひとつです。

 私はCoffee BreakDで、聖書の主役は神であると書きました。聖書の世界に入っていくその鍵穴は、主役が神であると認めることです。それも、「はじめに天地万物を創造した」神さまです。
 神と呼ばれていても、だれか人間が想像し、手で刻み、鋳造し、それがいわしの頭でも信じれば神と言われるような「神」ではありません。
 また、昔話にあるような、「一番えらいのは、お日様だ、いや、雲だ、風だ、壁だ。やっぱり、ネズミだった」と頭でひねり出すようなものではありません。

 
 創世記1章1節から読んできた私たちは、天地を創造した神が人をお造りになり、楽園に置かれ、しかし、人が神の命令にそむいて楽園を追放され、それから罪に罪を重ねてきたことを知っています。
 
 神がアブラハムを召し出された目的は、彼の様子がなんとなく神の「お気に召した」からではありません。
 アブラハムの子孫を増やすのも、祝福されるのも、ある一族が「気に入った」というようなことではありませんでした。

 神は罪にまみれた人間を、何とかふたたび、楽園に連れ戻そうとするご計画のために、アブラハムの子孫を用いようとされているのです。
 それだけに、選ばれたアブラハムの子孫は、荒野の四十年の苦難を味わいました。神に従う民として、徹底的に厳しく鍛えられたのです。

 当時の地上のほとんどの民は、まことの神を知らず、とくに、豊かなカナンでは偶像礼拝がさかんでした。
 偶像礼拝には、子どもを犠牲としてささげる習慣や、乱交などの性的頽廃がありました。ソドムとゴモラを滅ぼされたとき、その地の男たちの間に、同性愛と無法があったことが記されています。(創世記19章4節〜10節) 
 そのような民を、神は追い払えと言われたのです。

 神はアブラハムにカナンをお見せになって、「この地をあなたの子孫に与えよう」と言われたとき、すでに、五百年後のイスラエル人がカナンで戦わなければならないことを、想定しておられたのです。

 聖書の歴史物語は、「神の人類救済の歴史」だということを、改めて念頭に入れたいと思うのです。




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posted by さとうまさこ at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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