2011年06月10日

Coffee Break284 「わいろを取らず」(申命記10章17節〜20節)

 


 私たちは不公平に対して、とても敏感に反応します。親は子どもを公平に扱っているつもりでも、たいてい、子どもは不公平に扱われたと記憶しています。学校の先生も同じです。会社(仕事場)になると実績が物を言うように見えますが、やはり、「不公平に扱われた」と思う者がいるのです。

 罪に満ちた私たちの社会は、たとえを使えば、「椅子取りゲームの社会」です。機転と俊敏さで勝負が決まるゲームの椅子取りは「恨みっこなし」。たとえ、負けても笑って済ませます。
 しかし、じっさいの社会での「椅子取り」は、さまざまな要素が絡んできて、結果的には、機会均等に勝負ができないのです。

 あの人は最初から、銀のスプーンをくわえて生まれてきたと言われるような人がいます。まさに、愛されるために生まれたとしか言いようがない「好ましい」容貌や性格、才能、知能を持っている人もいます。
 みなしご同然のところに置かれ、公平な競走にさえ参加できない人もいます。
 平均寿命が短かった時代には、結婚してもやもめになる人は今よりずっと多かったのです。
 西洋の童話や昔話を思い出してください。いわゆる「継母(ままはは)物語」が多いのは、意地悪な継母が多かったからではなく、幼い子どもを残して死ぬ母親や父親が多かったと言うことなのです。
 また、私たちの身近にも、やむを得ず、日本に働きに来て、不公平に耐えながら暮している人がいます。歴史的に見ると、他の国と地続きの中東では、このような境遇の人は珍しくなかったのでしょう。

☆☆☆☆


 現代の日本社会では、多くの不公平は人間的な努力で是正されているように見えます。弱い人たちを救う施策や福祉も、充実しているように見えます。
 けれども、たとえば、聖書の次のようなことばは、いまも生きているのではないでしょうか。

 
 あなたがたの神、主は、神の神、主の主、偉大で、力あり、恐ろしい神、かたよって愛することなく、わいろを取らず、(申命記10章17節)
 
 みなしごや、やもめのためにさばきを行い、在留異国人を愛してこれに食物と着物を与えられる。(18節)

 
 わいろは、権力のある人に贈り物をして、利益を図ってもらうことです。いまの日本では、わいろは廃(すた)れたと思いたいのですが、どうでしょう。歴史的に見れば、わいろは洋の東西を問わず、何千年も当たり前の習慣だったのです。
 すばらしい贈り物をもらって気を悪くする人はいませんから、効果的に贈り物ができる人は、えこひいきの恩恵にあずかれるわけです。すると、贈り物ができない人たちは、それだけで、競争からさえ外されてしまいます。

 三千五百年も昔の社会の人を対象に、自分たちの神、神の神、主の主、偉大で力のある神が、「わいろを取らない」神であると説明したモーセに敬服します。じっさいには、モーセは預言者ですから、これはモーセの考え出したことではなく、神ご自身が仰せになったことです。


 あなたの神、主を恐れ、主に仕え、主にすがり、御名によって誓わなければならない。(20節)

 現代人は、つい、自分の利益だけを願う「ご利益信仰」に走ります。でも、聖書の神は、「公平を旨」としておられるのです。




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posted by さとうまさこ at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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