2011年08月01日

Coffee Break331 聖書の世界(ヨハネの福音書9章1節〜3節,創世記9章)




 また、イエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。(ヨハネの福音書9章1節)

 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。
「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」(2節)

 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」(3節)


 このイエス様のお答えは、画期的だと思います。ここから推測するに、聖書の世界を生きる人たち──当時のユダヤ人も、障害や病気を、因果応報的な罪の結果だと思っていたのがわかります。
 本人が何か悪いことをしたからだ。それとも親が悪いことをしたのだ。こういう発想は、とても簡単です。しかし、まさに、それゆえ、弱いものいじめではないでしょうか。
 障害を負って生まれただけでも苦しみなのに、その上、「罪がある」と言われるのです。
 仏教的土壌なのかどうか、私たちの子ども時代には、「前世に悪いことをしたから」と、前世からの因縁まで持ち出す人がいました。

「神のわざがこの人に現れるためです」の解釈はむずかしいのですが、イエス様は、この盲人に負わされた重い「くびき」をおろして上げたのです。

 事実、このあと、イエス様は盲人の眼を癒して、見えるようにして上げたのです。

 ☆☆☆☆


 聖書の意味するのろいは、神のさばきです。ですから、個人的な人から人への、のろいはありません。

 箱舟から出てきて、新しい生活を始めたノアにも、油断がありました。
 ある日、ノアは葡萄酒を飲んで酔い、天幕の中で裸で寝てしまいました。これを見たカナンの父ハムは、外にいる兄弟セムとヤベデに告げ口しました。ふたりは父の着物を取って後ろ向きに父に近寄り、着物をノアの体に掛けました。目が覚めて、ハムが父親を笑い者にしたことを知ったノアは、ハムのことを怒って言いました。

 「のろわれよ。カナン。
 兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」(創世記9章20節〜26節)
 

 このような場合でも、ノアが「のろわれよ。カナン」と言ったのは、ノアがのろいを与えるのではなく、神がのろいをくださるようにと言う意味なのです。
 このあたりは、聖書の示す「のろい」と、人から人へと呪う、「わら人形に五寸釘」の呪いとは、まったくちがいます。

☆☆☆☆


 聖書の世界は、霊であられる神の支配する世界です。みつかいと呼ばれる天使がいて、悪魔やその手下の悪霊も働いています。
 しかし、人が人をのろったり、たたったりすることはないのです。

 普通、巷でささやかれるような守護霊だの、背後霊だのはいません。宇宙と私たちをお造りになった全知全能の神さまが、私たち一人一人の、髪の毛の数まで知っていてくださるのです。(マタイの福音書10章30節)

 「私の目には、あなたは高価で尊い。
 わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43章4節)

 と言ってくださる神さまです。 

 前世の因縁や、ミミズを踏んだかもしれないことで、気に病む世界ではありません。
 もちろん、不必要に動物をいじめたり、自然を破壊してはなりません。すべて、神さまがお造りになったものなのですから。





【関連する記事】
posted by さとうまさこ at 00:27| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。