2011年08月10日

Coffee Break340 いのちを選びなさい(申命記30章19節)




 私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。(申命記30章19節)
 
 申命記を通して、モーセがイスラエルの民に繰り返し語っているのは、「いのちを選びなさい」に尽きます。いのちの反対は死、滅びです。神へのそむきは「滅び」にいたる道であると、何十回も警告しています。


☆☆☆☆ 
 
 聖書は、人の死について、あまり感傷的に扱っていません。死の記録のほとんどは、「死んだ。」と記されているだけです。埋葬された記録がある人のほうが少ないのです。(アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、ミリアム)。神に取られたエノク(創世記5章24節)や、たつまきに乗って天にのぼったエリヤ(U列王記2章11節)は異例です。

 時代が下るにつれ、残虐な殺され方をした王の記録など、死の痛ましさや苦しみ、悲しみも書かれます。
 けれども、申命記までを考えると、モーセの死でさえ、どこか現実離れした世界です。六十万の同胞を、エジプトから連れ出し、四十年間、まさに献身的な民のリーダーであり続けたのに、その墓の場所もわからないと記されているのです。

 聖書は、子孫繁栄を大切にする世界です。モーセも、ミディアン人の妻チッポラとの間に息子ゲルショムを儲けています(出エジプト記2章22節)。シナイでは、息子はふたりになっています。(出エジプト記18章6節) ところが、その後の彼らの消息は、聖書に出てきません。

 アロンは、祭司の職を代々子孫に伝えることができましたが、モーセはきっちり一代かぎりで、役割を終えて、何一つ権力の痕跡を残していないのです。


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 聖書は、いのちについては、死に比べて多くの字数を割いています。
 神は、天地創造の時に、たくさんの動物と男女一対の人間をお造りになり、「生めよ。ふえよ。地を満たせ」と祝福してくださったのです。

 人は、その妻エバをしった。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た」と言った。
 彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。(創世記4章1節2節)


 このあと、長い系図が何度も出てきますが、これは死による代替わりの記録ではなく、生まれてきた者の記録、一族のいのちの記録として書かれています。


 アブラハムとサラが、息子イサクを得るまでの長い物語。ヤコブの妻たちが競うように子どもを儲ける様子も、主がアブラハムにお約束になったようにイスラエルの民が増え、カナンでさらに栄えるまでのシナリオであったのでしょう。

 イスラエルの民が、「いのちを選び取る」のは、神の人類救済計画のために、絶対必要でした。

 モーセがそのような、壮大な神の御心の全貌を理解していたかどうかは、わかりません。
 ここでも、彼が稀有な予言者だったことを示すことばが残っています。

 隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現されたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、あなたがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。(申命記29章29節)






posted by さとうまさこ at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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