2011年08月21日

Coffee Break351 モーセの詩(詩篇90)




 「神の人モーセの祈り」と題された詩が、詩篇に収録されています。
 これが収録されている詩篇第四巻は、バビロン捕囚からの帰還後(紀元前538年以後)に編纂されたようです。そうだとするとモーセの死後1千年ほども後のことです。必ずしもモーセの作とは限らない、だれかが、荒野の旅をするモーセの気持に仮託して、捕囚以後の苦しさを歌ったとの説もあります。

 確かなことは、1千年経っても、イスラエルの民はモーセを見上げ、頼っていたことではないでしょうか。荒野のイスラエルの民が、モーセを通して神の御声を聞き、みわざを見たように、イスラエルの民が律法に立ち返ろうとする時代、モーセは律法そのものとして、生き返っていたのではないでしょうか。


☆☆☆☆


 詩篇90 神の人モーセの祈り


 主よ。あなたは代々(よよ)にわたって
 私たちの住まいです。
 山々が生まれる前から、
 あなたが地と世界とを生み出す前から、
 まことに、とこしえからとこしえまで
 あなたは神です。         (1節2節)


 この神認識は、まさに、「始めに天と地を創造した」神と重なります。永遠から永遠までを統べておられる全知全能の神への呼び掛けです。

 あなたは人をちりに帰らせて言われます。
 「人の子らよ。帰れ。」
 まことに、あなたの目には、
 千年も、きのうのように過ぎ去り、
 夜回りのひとときのようです。
 あなたが人を押し流すと、
 彼らは眠りに落ちます。
 朝、彼らは移ろう草のようです。
 朝は、花を咲かせているが、また移ろい、
 夕べには、しおれて枯れます。  (3節〜6節)


 仏教の無常観をも髣髴させるような「はかなさ」。
 しかし、これこそ、聖書の世界の被造物の運命です。
 「あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」と創造者である神は、楽園を追放されるアダムに仰せになりました。(創世記3章19節) 
 神の世界のスパンでは、1千年も昨日のことのようなのです。

 まことに、私たちは
 あなたの御怒りによって消えうせ、
 あなたの激しい憤りにおじ惑います。
 あなたは私たちの不義を御前に、
 私たちの秘めごとを御顔の光の中に置かれます。
 まことに、私たちのすべての日は
 あなたの激しい怒りの中に沈み行き、
 私たちは自分の齢(よわい)をひと息のように終わらせます。(7節〜8節)



 このような神の怒りも、アダムとエバの「そむき」と「その後の人類」を視野に入れずには理解できません。神が何故、お怒りになるのか、激しく怒って人の命さえ、一瞬に終わらせられるのか。それがわからなければ、聖書における「人間の罪」も、神からの理不尽な言いがかりに思えたりするかもしれません。

 私たちの齢は七十年。
 健やかであっても八十年。 
 しかも、その誇りとするところは
 労苦とわざわいです。
 それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。(10節)
 だれが御怒りの力を知っているでしょう。
 だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。
 その恐れにふさわしく。(11節)
 それゆえ、私たちに    
 自分の日を正しく数えることを教えてください。
 そうして私たちに
 知恵の心を得させてください。(12節)


 10節もまた、心に落ちてくるところです。じっさい、これはこのまま、現代に通じます。確かに寿命は伸びていますが、健やかに活動できる期間はどれほど延びているでしょうか。

 モーセは八十歳で召命を受けたのですから、世俗の言葉を使えば、「破格の取り立て」です。神はモーセの「破格の可能性」をお見通しだったのでしょう。モーセのように、神がお選びになり、選ばれた者が神と向き合って神の言葉を聞くとき、「人の世の取り決め」など簡単に超越してしまうのですね。モーセは、百二十歳で、目はかすまず、気力も衰えていなかったのです。(申命記34章7節)


 帰って来てください。
 主よ。いつまでこのようなのですか。
 あなたのしもべらを、あわれんでください。(13節)
 どうか、朝には、あなたの恵みで
 私たちをみち足らせ、
 私たちのすべての日に、喜び歌い、
 楽しむようにしてください。(14節)
 あなたが私たちを悩まされた日々と、
 私たちがわざわい会った年々に応じて、
 私たちを楽しませてください。(15節)

 あなたのみわざをあなたのしもべらに、
 あなたの威光を彼らの子らに見せてください。(16節)
 私たちの神、主のご慈愛が
 私たちの上にありますように。
 そして、私たちの手のわざを
 確かなものにしてください。
 どうか、私たちのてのわざを
 確かなものにしてください。(17節)



 13節から17節までは、祈りのことばそのものです。
 神といつでも語り合うことができたモーセでさえ、このように祈る時があったのでしょうか。六十万の民の飢えや渇きを目の前に、モーセにできたことは、やはり祈りしかなかったのでしょうか。
 「私たちの手のわざを確かなものにしてください。」と二度も繰返しています。
 手のわざとは、労働です。労働の成果が、ほぼ確実に賃金で払われる時代ではなかった古代。働いても働いても報われないことも多かったのでしょう。

 ひからびた荒野を見つめてつぶやいている悲しげな民を前に、モーセはきっと、声を限りに叫んで祈っていた──と、思えるのです。





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posted by さとうまさこ at 00:00| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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