2010年08月24日

Coffee Break@二度目のごあいさつ



二度目のごあいさつ

 七月十九日からブログに投稿を始めて、一ヶ月以上が経ちました。この間、連載した分量は、「ワシュティ」「つむじ風の谷・アビガイルとダビデ」「ルツ」を合わせて、400字詰め原稿用紙に換算して、四百五十枚くらい。ハードカバーの本一冊分にはなるでしょう。

 聖書そのものは、いまも世界でもっとも多く出版されている本です。世界中で、これほど多くの読者を持つ書物はないでしょう。
 じつは、キリスト教徒がとても少ない日本でも、聖書は十人に一人がもっているのと言われています。幼稚園から大学までのミッションスクールの卒業生も、毎年30万人になるそうです。一度は聖書に触れた方は意外に多いのです。
 
 とはいえ、連載を始める前、聖書物語のような地味なジャンルで、まったく無名の「作家」が書くものを読んでくださる方がいるだろうかと、心配しました。しかし、この一ヶ月間、確実に毎日一定の方が、ブログを訪問してくださいました。友人、知人の方々はもちろんですが、私のまったく存じ上げない読者が、毎日、決まった時間に待っていて読んでくださるとわかって、大変励まされました。
 あらためて御礼を申し上げます。

 いま、読者の方から、聖書物語の背景などについて、いくつかのご質問をいただいています。
 ここで Coffee Break の時間をもうけ、そのようなご質問にも、お答えできたらと考えています。

 毎日、おいしい葡萄をひと粒ひと粒味わうようなページになればと思っています。

                       たくさんの感謝とともに
                             さとうまさこ

posted by さとうまさこ at 06:22| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月25日

Coffee BreakA 神様はいる?



「神様がいるなら、何をしているのかしら」
 腹立たしそうに言ったKさんの声を忘れることはできない。ふっくらした大柄な人が、Bちゃんを見なが ら言ったのです。
 私たちは、その施設で障がい児の担当として働いていました。そこに来ているのは、重度の障害をもった子供ばかりでした。全員、小学生です。

 Bちゃんは、知的障害、身体障害、難病の三重の障害を負っていました。移動するのも、トイレも、食事にも──小さなおせんべい一枚口にもっていくにも──介助を必要としました。ほとんど言葉はでてきません。意欲はあり、立ち上がって目を引くものの方へ歩くのですが、いつ転ぶかも知れず、介助にあたるものは、片時も目をはなすわけにはいかない子どもです。 


 夕方まで、Bちゃんの担当だったKさんは、疲れていたのでしょう。私は自分の担当の子供が帰ったので、少しの間でも、Kさんと交代して上げようと、そばに行ったのです。そこでは、手の空いたものが互いに助け合うルールでしたから。

「神様は何をしているのかしら」
  彼女は繰り返しました。

 その日の日記に、つぎの短歌があります。



    片時も 手足心の定まらぬ子
                「神様!」と言って 今見つめあう



 私も、体力も技術も足りなくて、疲れるといらいらするような職員でした。Bちゃんのときは、やはり、自分の限界を知らされるのです。
 そんな時、せめて、見詰め合えれば、せめて私を見て笑ってくれればと、祈ったものです。
 
 ある時、「神様!」と言って、Bちゃんの両手を取って握りました。ふしぎなことに、めったに視線の合わないBちゃんが、しっかりと私の目を見てくれたのです。

 その瞬間、二人の間に流れた温かさと平安を、今も眼前のことのように思い出します。
 
 信仰がだんだん、ゆるぎないものとなっていった頃でした。
 Bちゃんのことばかりではありません。

 祈り、祈り、祈って、いろいろな場面を乗り越えていったからです。

 神様は、働いてくださっているのよ。ここに、いらっしゃるわ。

 わたしは、Kさんにそう言うべきだったでしょうか。今なら、言えるでしょうが、その頃はただ、笑っているだけでした。




posted by さとうまさこ at 04:16| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月26日

Coffee BreakB あかし(神様はいます!)


 クリスチャンは「証し」をします。「証し」自体は、誰でもわかるやさしいことばです。一般的には、「これが、私が生きている証しです」「疑うなら、あなたに証しを立てましょう」などと使われます。証拠や証明と同じ意味に使われるケースもあります。

 でも、クリスチャンが、とくに「証し」「お証し」という場合、意味は少し異なります。「証し」とは、神様が「私」や「私達」(教会だけでなく、社会や学校や、全人類と言った大きな範疇でも)にしてくださった出来事を語ることなのです。

 クリスチャンは、しょっちゅう「証し」をします。「証し」をしないではいられない人たちです。神様が自分たちの人生や生活すべてに関わってくださり、すべて神様から与えられていると実感して暮らしているのが、クリスチャンだからです。
 
 教会ではおよそ、どんな出来事も証しになって、話されています。

 病気が癒された。仲直りができた。大切な行事のときに台風が来そうだったけれど、祈っていたら、朝には、雨がやんでいて無事行事が行なえた。一所懸命勉強して受験に合格した。仕事が見つかった。夢が実現した。大きな事業に成功した方、各ジャンルで地位を築いているような方の証しもあります。ドラマチックなものもあれば、ごくささいな出来事にしか見えないものもあります。辛い目にあったときに、神様とお話しして、慰められ、立ち直ったといった告白もあります。

 昨日ご紹介した「出来事」、あれも小さな「証し」の一つです。


 
「聖書は神の霊感によって書かれた誤りのない神の言葉である。だから、信仰をもって読まなければならない」
 などと言われると、もう、「ついていけない」と思われる人もいるでしょう。

 でも、これは、もっとシンプルに言い換える事もできるのです。
 聖書は、「神様がおられる」と言う前提で書かれたものなのです。だから、神様の存在を前提にして読まなければ、どうにもならないのです。先ず、ドアが開かないのです。

 ハリーポッターをご存知でない方は、あまりおられないでしょう。あの小説は、魔法使いの世界を書いたものです。魔法使いがいて、魔法を使うという前提で読まなければなりません。魔法使いなんているものか、と頑なに、横を向いていては、いくらハリーが可愛くてかわいそうな境遇の、愛すべき少年でも、白けてしまうでしょう。
 恋愛小説を読む人は、人と人が愛し合う事を信じているのです。少なくともそういう事実がある事は認めているのです。


 もちろん、わたしは、神様と魔法使いを同列に置くなんてつもりはありません。聖書と恋愛小説も比べられないものです。
 聖書の神様は、天地万物をお造りになった全知全能の神です。魔法使いも、人間同士の愛も、元はといえば神様がお造りになったのです。「魔法」や「魔術師」は、聖書にも登場しますが、神様がおできになるわざ(みわざ)とは比べ物にならない、小さな「ふしぎ」に過ぎないのがわかります。

 
 読者の方から、いくつか質問をいただいています。
そろそろ、本題に入ります。
でも、今日は、質問と答えの半分を申し上げたようです。



  
posted by さとうまさこ at 06:29| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月27日

Coffee BreakC 天地創造(創世記1章)


 初めに、神が天と地を創造した。

 長い長い聖書の最初の文書・創世記の書き出しです。
 もう、最初の一行で、主役が神であることがわかります。

 
 初めに、ショーバンが家を建てた。

 こんなふうにある文章が始まっていたら、誰でも、ああ、ここではショーバンが主役なんだと思います。ああそうか。どこに建てたんだろう。いつ頃建てたんだろう。なぜ建てたんだろう、どんな家だろう、と思いながら、つぎの行に心が移っていきます。

 創世記の方は、どうでしょう。「神」「天と地」「創造」。三つともよく知っている言葉なのに、このように組み合わされると、ちょっとひるんでしまいませんか。ああそうか。神様が、天と地を造ったというんだ。なるほど、どこに、いつ頃、なぜ造ったんだろう、どんな天と地だろう、と、軽く反応するでしょうか。

 そして、つぎの行──。

 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。
 神は仰せられた。「光があれ」すると、光があった。
 神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。
 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。

 このように、淡々と、神が宇宙を造っていくプロセスが語られていくのです。
 告白すると、初めてここを読んだとき、私にとっては、大変な上り坂でした。何度も何度も立ち止まって読み返さなければならなかったのです。

 あなたも試してみてください。最初の2ページほどです。聖書は持っていないし、もし、あとあと読まなかったら、買うのはもったいない。
 そのとおりです。ご心配要りません。どこか知り合いの家に眠っている聖書があるかもしれません。クリスチャンの友人がいたら貸してくれるかもしれません。一人で10冊くらい持っている人は珍しくないですから。図書館に行くのもいいですし、教会には、確実に聖書が置いてあります。旧約聖書と新約聖書が一冊になったものを、「差し上げますから、もって行っていいですよ」と言ってくださるところは少ないと思いますが、でも、2ページなら、立って読んでも疲れることはないと思います。もちろん、教会の方は言ってくれるでしょう。
「まあ、ここにお掛けになって、ごゆっくりお読みください」
 


 そうそう、読者の方からのご質問と友人(ノンクリスチャン)の注文を、要約すると以下のようになります。

 1、聖書に書いてある出来事は、事実でないと言われているけれど。
 2、天地が6日間でできたと信じている?
 3、聖書物語は、歴史小説ですか。時代がよくわからないのですが。
 4、神様とイエス様はどう違うのですか。教会に行ったら、神様の御子イエスさまと話していましたが、神様が二人いるという意味ですか。
 5、聖書物語の題材になった箇所を、提示して欲しい。

 まず、(5)にお答えします。
 「ワシュティ」は、旧約聖書のエステル記。「つむじ風の谷・アビガイルとダビデ」は、旧約聖書サムエル記T(または上)25章。ルツは同じく旧約聖書ルツ記が原典です。
 今は、旧約聖書の記事から物語を書いていますが、今後は、小説を掲載したとき、末尾に聖書箇所を記したいと思います。



posted by さとうまさこ at 05:07| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月28日

Coffee BreakD 聖書の鍵穴(創世記1章2章)



 神である主(シュ)は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。(創世記第2章7節)

 創世記の天地宇宙の創造は、人間の創造で締めくくられています。
 造ったのは、神である主です。何もなかったところから、宇宙とそこにあるもの、地上とそこにあるもの、昼と夜といったカレンダーまで、ことごとく、神が造ったと、創世記は書いています。
 聖書は、それを読む人に、最初から、神を認めなければ、ならないと気づかせるのです。Bで述べたように、神が主役であると認めることが、聖書の世界に入る扉の鍵なのです。

 このことに、気がつかない私は、扉の前で長い時間右往左往していました。扉が開いていないのに入ろうとしていたのです。そこに、鍵穴がある事も気がつかなかったのです。


 理由ははっきりしています。すべてを神が造り、神が支配し、神の摂理が世界を生成流転させているといった考え方に、それまで接したことがなかったので、思いも及ばなかったのです。
 自分は無神論者である、と、自覚があったわけでもないのです。「神様のようなものはいるかもしれないなあ」くらいの想像はするのです。でも、神様が私の生活の主役であるなど、思いも及びません。 
 
 宇宙の創生から人間の誕生まで、たった6日なんてナンセンスと、片付けるのは簡単です。ビッグバンだとか、膨張し続ける宇宙だとか、さまざまな化学物質だとか法則だとか、反論するための知的知識の道具は、星の数ほどあるのです。これらは、一見説得力がありますし、たいていの人は膨大な専門的知的知識にはついていけないから、そっちの方が「理屈に合う」ような気がします。


 天地創造の物語は、とても平易なことばで書かれています。


 神は仰せられた。「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」
 神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。そのようになった。
 神は大空を天と名づけられた。夕べがあり、朝があった。第二日。


 子供でもわかる語彙で、子供でもわかる具体的な説明。
 でも、この単純さは、「稚拙」と読み替えてしまうことができます。3500年も昔の人間の考えたことだ。科学のカの字も知らなかった人間が考えだしたことだ。彼らに何がわかるだろう。まともな、天体望遠鏡も、電波望遠鏡もなかったろう。第一、まだ、存在もしなかった人間に、どうして宇宙の始りがわかる? 
 
 こうして、すべての創造の主人公が神であるのは、あえて見落としてしまうのです。
 
 土地のちりで作った人間の鼻から息を吹き込むと、生きたものになった・・・。
 これは、とてもこわい話です。主語が神でなければ、この文章はナンセンスではないでしょうか。神以外のだれが、ちりから形造ったものに、「いのちの息」を吹き込むことができるでしょう。

 そこで人は生きものとなった。のです。

 生きていて死んだものが、生き返ったのではなくて、ちりが生き物になったのです。



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2010年08月29日

Coffee BreakE 高価で尊い


 神は仰せられた。「さあひとを造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて、かれらが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように」(創世記1章26節)
 そう決意された神は、人をちりから形造り、鼻からいのちの息を吹き込まれた(2章7節)のです。

 生まれたばかりの赤ん坊を見ると、誰でも畏敬の念に打たれます。小さい、可愛い、あどけない。そういうことばは、文字通り、小さい、かわいい、あどけない、ものへの賛嘆の気持ちでしょうか。犬や猫の子どもだってかわいい。カブトムシの幼虫だって「かわいい」という人もいる。でも、ひとの赤ちゃんはたしかに、見かけのかわいさをほめているのではない。なにか、犯しがたい威厳、清らかさ、可能性を感じさせるのです。
 もちろん、赤ちゃんよりいくらか大きくなった子どもでも、中高生でも、大人でも、病気の人でも、からだが不自由になっても、人には不思議な威厳があります。不思議な能力があります。
  

 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された(1章27節)
 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚。空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ」(1章28節)


 初めて、ここを読んだとき、私は、ひとのようなかたちをした神の姿を思い浮かべました。神様にも、目鼻があり、手足があり、そして、両手を広げて私たちに何かおっしゃっているような姿です。
 もちろん、神様ですから、どの人間より見目かたちはうつくしく、りっぱで、神々しさに輝いています。その神様が、右手を上げて、どんな素晴らしい役者でも出せないような厳かな声で、「地をはうすべての生き物を支配せよ」と言われている姿。

 ある日、これは大きな間違いだったと気がついたのです。
 神様が私たちに似ているとは、どこにも書いていない。私たちが「神様に似せて」と書かれている・・・! 
 神様が主役だとわからなかったときのことです。
 私たちは、神様の姿かたちなどわからないのです。でも、神様は、ご自分に似せて人を造って下さったのです。どこを似せて造られたのでしょう。

 
 わたしは犬や猫が大好きです。子供のころは、ジョンと言う名前の犬が──雑種の茶色い犬でしたが──、うちにいて、ほんとうに賢くて可愛くて家族の一員、五人兄弟の六番めのように、いっしょに暮らしていました。猫もたくさん飼いました。どの猫も、いっしょにいるときは、家族でした。人間のことばもわかれば、我を通して色々やっかいなことをしでかして、その後始末をするときでさえ、家族なんだからと思いました。
 彼らは、いつもわたしになつき、わたしが呼ぶと走ってきて、わたしが撫でると幸せそうに尾を振ったり、目を閉じたりするのです。
 子どもだったわたしは、自分たち人間はじっさい、なんと、犬猫に似ているんだろうと思いました。ちゃんと、手足があるし、目鼻もついているし、耳もあれば、口もあって、嬉しいときには嬉しそうだし、叱られると悲しそうだし。違いは、彼らが全身毛で覆われている事、尾っぽがあること、四つんばいであること。手を使わず物を食べること。

 さて、神様はわたしたちを神のかたちに似せて造られました。
 神のかたちとはどのようなものでしょう。

 聖書のなかでは、「初めに、神は天地を創造した」ような方です。これだけで、神が人間のようなかたちではないことがわかります。どれほど巨人であっても宇宙万物を創造するほど大きな巨人はありえません。
 じっさい、神が土木工事のようなことをされたとは、どこにもありません。
 神はおおせられた。のです。
 「ひかりがあれ。」「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」「天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現れよ。」そのようになった。のです。

 神はすがたをもたない存在。見えないけれど、万能の力と権威をもっていて、何でもできる方。人間の想像をはるかに超えた方らしいと思わざるをえません。

 神は霊です。私たちが神に似せて造られたというのは、神の霊的な部分をいただいたということです。神はご自分の愛の対象として、ご自分と対話するものとしてわたしたちを造られたのです。わたしたち人間は神を礼拝するように造られているのです。だから、どこの国のどんな民族であっても、僻地や山奥にすむ小さな部族であっても、宗教をもっています。

 学びによって、このような解説を知るまでは、私は、それに気がつきませんでした。──おすすめサイト(ペンテコステ宣教学・やさしい神の国講座参照)
 どんなにかしこくて可愛くて、家族の一員であっても、動物は神さまを拝むことはないでしょう。

 人間だけが、なにか威厳があり、たがいに憎みあったり喧嘩をしているときであってさえ、相手に見えない何かを感じます。
 人間だけが、神さまに似せて造られているというのは、とても特別なことです。
 人間だけが、神さまと同じ霊的なかたちをもち、神さまと会話できるとは。


 わたしの目には、あなたは高価で尊い。(イザヤ43章4節)
 
 有名なこのことばは、このような事実があるから、心に響いてきます。


posted by さとうまさこ at 06:35| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月30日

Coffee BreakF アダム


 人は神にとって、特別な対象だったのです。
 神は、ほかの生き物は、言葉だけで造っておられます。

 「水には生き物が群がれ。鳥が地の上、天の大空を飛べ」というように。

 しかし、人間は手ずから造っておられるのです。
 土地のちりから形を造り、鼻にいのちの息を吹き込み・・・
 この表現では、神がちりを集めて形をつけているところ、鼻に息を吹き込んでいるところが、あたかも人間が作業をしているように目に浮かんできます。


神である主は東の方エデンの園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。(創世記2章8節)
神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。(2章9節)
神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。(2章15節)


 神は人に対して、仕事を与えておられます。園を耕し、守りなさいと。
エデンの園では、人は、そこに住む主人として置かれたのです。すべての管理を任された大変大きな権限を持つ管理人だと、いえるでしょう。

 ただ、不思議なのは、こうして、愛を持って特別に造られた人を、最初一人しか造らなかったことです。
神は、人を造る前に、また造った後にも、たくさんの鳥や獣、地をはうものを造っているのですが、たぶん、わざわざ書くまでもなく、すべて雌雄であったと推測できます。なぜなら、神は、何度も、「生めよ。ふえよ。地を満たせ」と祝福されているからです。つまり、神にとっては最初から、生き物を雌雄一対のものとして造ることは、ごく簡単だったでしょう。

 けれど、人の場合は、最初ひとりだったのです。

 ところが、
「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼のふさわしい助け手を造ろう。」と、エバを造られるのです。

 有名な箇所です。

 また、神は、アダムを深い眠りに陥らせ、アダムのあばら骨を取ってエバを造った。

そして──。

人は言った。
「これこそ、今や私からの骨、
私の肉からの肉。
これを女と名づけよう。
これは男から取られたのだから。」(2章23節)
それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、二人は一体となるのである。
(24節)


アダムは大喜びでした。しかし、それが、ワナになったのです。

何か、じりじりと胸が灼けるような箇所、それがこのあとの3章です。



posted by さとうまさこ at 05:46| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月31日

Coffee BreakG エバ


 神さまがお造りになった最初の人アダムは、エデンの園の管理人でした。

 神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。(2章15節)

 アダムは、仕事をしながら、一日中、神さまとお話ししていたのではないでしょうか。
 彼の肉体は土地のちりでできたものでしたが、心には神さまが吹き込んでくださった「命の息」が満ちていました。


「神さま。おはようございます。今朝はこの赤い実を朝食にいただきます。それはそうと、昨日は初めて、ヘンな形の大きな鳥と出会いました。ぼくたちはお互いにあいさつしました」

 楽園・エデンの園では、木にはいかにもおいしそうなあらゆる実が稔り、花々が咲き、鳥が美しい姿で空を飛び、魚が水の中を泳ぎ、動物が森の中を闊歩していたり、みずみずしく繁った青い木の陰でうとうと眠っていたりしました。気候は温暖で、裸でいても何の差しさわりもない。死はなく、永遠に生きるはずであるアダムは、神さまに命じられたとおり、園の管理の仕事をまじめに行なっていたはずです。

 何の不足もなさそうな最初の人アダムを見て、神さまは言われるのです。


 人がひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、かれにふさわしい助け手を造ろう。(創世記2章18節)
 神である主は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れてこられた。人が生き物につける名はみな、それがその名となった。(2章19節)
 人はすべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけた。しかし人には、ふさわしい助け手が見つからなかった。(20章20節)


 これはとても興味深い箇所です。
 
 神さまは、人に伴侶を選ばせるため、とても広い相手から選択させているのです。家畜、空の鳥、野のあらゆる獣です。ここは、人が動物に命名したと言う歴史的証拠として出されているのではないでしょう。

 ここに連れてきた動物は、神さまの「ことば」ではなく、土から造られています。少しでも「土のちり」で造られた人の相手としてふさわしいものをと、お考えになったのでしょうか。

 ある名前が、伴侶なのです。神さまはその名前を期待しているのです。
 

 人のあばら骨から神が造られた女に対して、人は言いました。


 「これこそ、今や、私の骨の骨、
  私の肉からの肉。
  これを女と名づけよう。
  これは男から取られたのだから」(20章23節)
 

 日本語では判りにくいのですが、ヘブル語で、男は、「イシュ」、女は「イシャ」。男は自分の呼び名に一番近い呼び名で、女を呼んだのです。
 そのはずです。二人はそっくり同じ材料から作られていました。神様の息が満ちた心も同じものでした。

 彼らは、いま私たちが作れるかもしれないクローンではありません。クローンは元の生き物にそっくりだけれど、そもそも、造られる必然性がないのです。神さまが「必要だ」と思ってくださっているでしょうか。


 神さまは、満ち足りているように見えるアダムに、何かが足りないのをご覧になったのです。平たく言えば「さびしそう」だったのでしょう。アダムの心は神さまと結び合わされていました。でも、ちりに過ぎない体をもった人は、それだけでは満ち足りなかったのです。

 神は男に女を娶わせました。


 それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。(2章24節)

 これは、聖書の中の男女関係の原則です。アダムとエバには「肉としての親」はいませんでしたが。



posted by さとうまさこ at 05:38| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月01日

Coffee BreakH サタン


 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは園のどんな木からも食べてはならない、と神は、本当に言われたのですか」(3章1節) 

 第3章は、痛みと悲しみ、悔しさなしには読めません。神の創造の最後に造られた人とその妻はめでたくカップルとなり、これから幸せな生活が続くはずでした。
 ところが、とつぜん、狡猾な生き物が現れ、エバにささやきます。「神の命令に背くように。」


 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです」(3章2節)
 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたはそれに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」(3節)
 そこで蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。(4節)
 あなたがたがそれを食べるそのとき、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです」(5節)
 そこで女が見ると、その木はまことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くすると言うその木はいかにも好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。(6節)


 無邪気に神の命令を思い出している女に、蛇はその命令が「たいした事ではない」「それどころか・・・」と思うように、誘導しています。「決して、死なない。それを食べるとあなたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」

 エデンの園では、人は特別あつかいの被造物でした。人だけが神と話ができ、人だけが、神の特別の配慮を受けていました。人がもし、なにかの欠けを感じるとすれば、それは彼らが「神のようでない」ということだったでしょう。
 神は全知全能でどのような事もできるが、人はその神によって、造られ保護されて存在を許されているものに過ぎません。
 彼らはなにかもどかしい思いをしていたのでしょうか。園の管理人の仕事が案外きつかった? 何か、神の操り人形のように、神の意のまま動かされているような気分になることがあった?
「エデンでは自分たちに並ぶ生き物はいない。必要はすべて満たされている。自分より上に君臨するのは、神だけだ。その神に自分たちが並び立てる? なんてすばらしい! そうなれば、パーフェクトではないか」
 満足の極地でも足りないものを思い、相手が神であっても同等になりたい、これが創造の最初から人間に付随した本能みたいなものだったのかと、気づかされる箇所です。

 結果、

 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。(7節)

 目が開かれるとはどういうことでしょう。それまでも、二人は物が見えなかったわけではありません。アダムは、神が連れてきた動物を見て、名前をつけていますし、女を見たときには、喜んだのです。
 
 とすると、これは、もう一つの目、神のような目でしょうか。
 神のような目で見ると、自分が裸であるのが見えたのです。それを恥ずかしく思ったのです。それで、あわてていちじくの葉をつづり合わせて腰を隠したのです。 


 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。
 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。
「あなたはどこにいるのか」
 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」
 すると、仰せになった。「あなたが裸であるのをだれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」


 神のように目が開かれた代償は大きかったのです。人は自分自身の姿を恥ずかしく思っただけではありません。神さまと、まともに顔を合わせるることができなくなったのです。
 もちろん、命令に背いて食べたといううしろめたさはあったでしょう。でも、それだけでしょうか。目が開くと同時に、彼らは、神と自分たちの力の落差を知ったのではないでしょうか。神は創造主であり、自分たちは被造物にすぎない。神は全知全能であり、自分たちは限定された力しかもっていない・・・。

 彼らは、この神の怒り、神からどれほどの処罰を受けるかを、恐れたに違いありません。そして、言い訳をするのです。
 それは、彼らの致命的な弱さ、不完全さを、ますます露呈するものでした。




   ※ ここで引用している聖書は「新改訳聖書」です。ほかにも「新共同訳」、リビングバイブル、現代語訳などがあります。


posted by さとうまさこ at 05:19| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月02日

Coffee BreakI 罪のはじまり(創世記3章)


 神が命令に背いた人間を咎められたときの、人の言い訳には目を覆いたくなってしまいます。

 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取ってくれたので、それで私は食べたのです。」(3章12節)
 そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたはいったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それでわたしは食べたのです。」(3章13節)

 アダムは、自分が食べた直接の責任を、なんと妻のせいにしました。そのうえ、妻を与えてくださった神のせいにもしています。
 こんな夫の言い訳を聞いた妻はどんな顔をしていただろうと思いますが、そのようなわかりきった描写をしていないのが、この場面の「すごみ」です。
 妻は、当然のように蛇のせいにします。

 二人とも、謝るということは念頭になかったのでしょうか。あまりに、良い環境におかれて、なにも思い煩う経験をしなかったし、社会的訓練の場もなかったから、違反に対して、「悪いことをした」とは思わなかったのでしょうか。

 深刻さをさとらないで、自分の責任を転嫁するのは、親や大人に甘えきっているとき、子どもが使う手です。子どもは小さな子どもでも「謝りなさい」と教えられているので、口では「ごめんなさい」と言いますが、心では得心していないなあと見える表情をします。同時に、何か言い訳を考えているのです。
 でも、それが、大人になっても同じではないでしょうか。
 より巧みになって、自分自身にさえ、卑怯だと思われないように巧妙に、自己を正当化するようになる・・・そんな気がします。

 神の命令に背いた、これだけで、とてつもない大きな「罪」である。このようなことに、人が気がつくのは、いったいいつ頃からでしょう。

 神は、刑罰を宣告し、人をエデンの園から追い出します。


 こうして、神は人を追放して、命の木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。(3章24章)

 蛇はどうなったでしょう。もちろん、読んでいただいてわかるように、蛇にも刑罰が下されたのです。
 蛇は以後、地上を這い回ることになるのです。それが、蛇にとってどういうことだったか、たぶん、蛇は、内心、ほくそ笑んでいたのではないでしょうか。そして、たぶん、巧みに人といっしょに、楽園を出てきたのです。

 人間の歴史に、執念深いサタンとの同行が始まったのです。



posted by さとうまさこ at 06:13| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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