2010年09月03日

Coffee BreakJ 楽園追放(創世記3章)


 創世記3章は、すでにご存知のように、人間が神に対して罪を犯して、楽園を追放される話です。罪は神に対して犯されたのです。食べてはいけないという神の命令に背いた罪です。
 ここで、夫が自分の行為を妻の差し金であったと、妻のせいにしたことは、少なくてもなんの情状酌量の余地にもなっていません。妻も同じです。蛇のせいにしたところで、罪一等減じられるわけでもなかったのです。さらに、エバは夫に対して、思ったに違いありません。

 どうしてあたしのせいにするのよ。悪いと思うなら、初めに木の実に手を伸ばしたとき、あなたは止めてくれるべきよ。少なくとも、最初神さまから、「食べてはいけない」と言い聞かされたのは、あなたよ。
 エバは神さまにも、楯突きたかったことでしょう。
 神さま。蛇がそそのかしたのです。神さま、神さまはこの蛇もお造りになったんでしょう。
 第一、こんな魅力的な実のある木を、いつでも目立つ園の中央に植えたのは
 神さま、あなたでしょう。どうして、そんな危ないものをおいて置かれたのですか。


 これは、私の読みすぎかもしれません。じっさい初めて聖書を読んだ方からこういう声を聞くのです。読者の方はどう思われるでしょう。

 エバやアダムのために、私は、私たちは、弁護したくなるのです。罪が人に入って、それが今も、自分のこの人生にも影を落としていると言われては、黙っていられないのです。

 もっとも、ここで、人が神さまに謝罪していたとしたら、神は赦してくださったでしょうか。「ごめんなさい。二度としません」
 残念ながら、赦していただくのは無理だったでしょう。神の判決の理由は明確です。
 

 神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。(3章21節)
 神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」(3章22節)
 そこで、神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。(3章23節)


  人の目が開けて、神の一員であるかのように、善悪を知るようになった。この上、永遠に生きるかもしれない。そうならないように、追放。
この判決理由は、すんなりと承服できません。神のようになることができるなら、それは、神様にも喜んでいただけることかもしれないのにと、最初、凡庸な私は思いました。
 じっさい、「あの人は神さまみたいだ」と言った褒めことばが、俗に通用しています。

 私が納得したのは、また、聖書の原則に帰ったときです。聖書では、神が主役です。人は神に並び立つことができないのです。神と肩を並べた、対等になったと、頭で思っても、神にはなれないのです。じっさい、「神さまのような人」に失望させられるのが人間の世です。

 人の目が開け、知恵がつき、善悪を知って、神さま気分でいられるのは、楽園にいてこそです。
 神の保護のない世界に出て行った人間は、すぐさま自分の限界を思い知ることになります。それが、4章からの物語です。
 失敗続きの人間の物語です。
 神さまは、人間を見捨ててしまわれたのでしょうか。

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2010年09月04日

Coffee BreakK 聖書の成り立ち(創世記1章〜3章)



 創世記の最初の3章は、小説のプロローグと言ったものではありません。小説では、プロローグは物語の全体のテーマや雰囲気を提示し、この先何が語られるかを読者が推測し、期待できるように、いわば書き手の手の内を少し見せるところです。読者に先を期待させ、つぎのページをめくらないではいられなくさせる、それが小説家の腕の見せ所です。

 文学史上でも非常に新しい形式である近代小説は、あらゆる技巧をこらして、読者を物語の世界に引き込み、楽しんでもらおうとする作家の「意欲」で、発達してきたのでしょう。「小説」という形式ができる前は、物語は、「叙事詩」または「戯曲」と呼ばれる形式で語られました。叙事詩も戯曲も、それを歌ったり、語ったり、演じたりする人間が必要でした。完全に独立した文学ではなかったのです。もちろん、例外はあります。源氏物語をはじめ、少数の物語文学は古くからあります。

 よくできた小説では、作家でさえ、物語の影に隠れています。作家が何を言っているのか、どういう人間であるのかなど、問題ではなく、その中に登場してくる人物や世界に読者の関心は入り込むのです。作家が語り手となって登場している場合でも、ナマの作家が登場しているわけではありません。それもまた、テクニックの一つなのです。「わたし」という語り手がいた方が、よりリアリティをもって、物語の世界に読者を引き込めるなら、その方が良いのです。至れり尽くせりの手配が整った世界なのです。

 どんなに作者が立派──この意味はいろいろありますが──であっても、書かれている世界がおもしろいはずであっても、読者が途中で投げ出せば、作者の負けなのです。もちろん、小説にも、さまざまなジャンルの、硬軟あらゆる表現のものがあります。読み手にもさまざまな人がいます。Aさんが顔をしかめたからと言って、つまらないなんて決め付けられません。Bさんは、その噛み応えを喜ぶかもしれません。「ハッピーエンディングはつまらない」人もいれば、「やっぱりハッピーエンディングでなくちゃ」の人もいます。

 気高い理想をもって苦難の人生に立ち向かう主人公に寄りそい、涙を流し、義憤に駆られ、読み終わった後もその体験が読者を駆り立てている、そんなカタルシスを求めて物語を読む人がいます。反対に、犯罪事件や人生の敗残者の記録のよう物語もあります。せっかくの、ホッと一息のプライベートタイムに、どうしてわざわざ息苦しくなるような主人公と付き合うの、など、大きなお世話なのです。

☆☆☆☆

 さあ、聖書です。
 聖書は、もちろん、小説ではありません。近代になって書かれたものではありません。2000年前から3600年くらい昔に、1600年くらいの間に書かれたものです。作者、いわゆる聖書記者と言われる人も何十人もいます。はっきりわかっている作者、名前も立場も特定できない作者もいます。

 聖書記者が一同に集まって編集会議を開き、全体のテーマを相談して、持ち場を決め、書いたというようなものではありません。
 それどころか、互いに顔も知らない、生きた時代も違う、活躍した場所も違う人たちが書き残したものが、結果的に、一冊になったのです。ところが、ふしぎなことに共通したテーマが全体を貫いているのです。
 それは、「神と人との関係」「楽園を追放された人間を、もう一度神が手元に戻して下さろうとする計画」です。ある意味、現実を超越した世界です。

 初めに、神が天と地を創造した。

 ここには、いきなりまばゆいフラッシュを当られたような衝撃はありますが、どうぞどうぞ、続きをお読みくださいといった「媚び」はありません。
 私たちは、それでも、なんとか、3章まで読むことができました。
 私は、ひとりのクリスチャンとして、何度読んでも感慨があり、行きつ戻りつ語ったので、もう、先に行ってしまわれた方もいるかもしれません。

 足の速い方はどんどん先に進んでください。でも、時々、振り返ってくださると助かります。


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2010年09月05日

Coffee BreakL 天地創造の神の性質・愛と聖


 神のご性質について、念を入れておきたいと思います。
神に背いたということで、楽園から追放するなんて少し厳しすぎる。いくら神は唯一絶対の権威をもっているといっても、違反すれば厳罰を下す「怖い」存在なのと、聞く人がいます。

 
 神は創造者であると、何度も書きました。人間は被造物に過ぎない。でも、人間は神にとって特別な被造物だったと。なぜなら、人は神の愛の対象として、神とお話ができるように特別な「心をもった」生き物として造られたのだから。

 そのような「愛の神」がどうして、楽園追放というような厳しい罰を下したのか。
 それは、神のもう一つの性質「聖」(きよさ)を認識しないとわかりません。
 神はとても聖い方です。違反や不正を激しく憎まれるのです。愛にせよ聖にせよ、神の持つパワーは限りなく強く大きいものです。
 それで、神が怒り、悲しみ、憎むとき、そのパワーも強いのです。

 ここで、このブログのおすすめサイト、ペンテコステ宣教学・やさしい神の国講座(神の国の大河ドラマ)から、簡潔で行き届いた説明をお借りすることにします。



 罪を犯してしまった人間を、神がご自分の前から追放されたのは、 神の聖さだけではなく、愛の性質のためでした。
 神の絶対の聖さは、汚れたものが近づくと、それを焼き尽くさないではいないからです。それはちょうど燃え盛る火のようです。(ヘブル12:29)
 燃え盛る火に飛び込んでくる虫は、一瞬のうちに焼き尽くされてしまうように、絶対に聖い神に罪あるものが近づくと、たちまち焼き滅ぼされてしまうのです。
 そこで神はその愛の性質のために、罪を犯した人間がご自分に近づいて滅んでしまわないように、ご自分の前から追放し、もどって来られないように、厳重な警戒を敷かれたのです。そのようにした上で、神は人間に救いの道を準備してくださったのです。(創世記3:23−24) 



 私たち人間は、神の聖さを、意識しないでも知っているのではないでしょうか。ですから、どんな人にも、「良心」というものがあります。神の聖さに、自分を照らして見る本能があるのです。だから、なかなか「正しく」生きられないことに、苦しみます。平気な顔をしている人でも煩悶します。

 私の愛犬ジョンは、とても忠実でした。教えられたことは良く覚え、守りました。悲しそうにしているときもありました。でも、煩悶しているようには見えませんでした。そもそも「良心」に照らして何かを判断するような「本能」に欠けていたからです。古くから言われているように、人間は「万物の霊長」です。




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2010年09月06日

Coffee BreakM 聖書に見る罰(創世記3章)



 人を前(みまえ)から追放された神は、それをよしとされたでしょうか。追放の理由が、神の愛の性質ゆえなのです。とても、悲しいことだったと思います。たとえば、何か問題があったために、子どもを叱る親の気持ち、親友とあえて別れなければいけないとき、人は怒りとともに、怒りによって相手と引き裂かれる痛みを覚えます。できるなら、赦して、適当なところで折り合いをつけて、これまでどおりの関係を続けて生きたい──。
 じっさい、人の場合は、完全に親子の関係を断つなんてことは、できないのですが、神さまはちがいます。許すと、愛する人が火に飛び込む虫のように一瞬にして、滅んでしまうのですから。

 人にとっては、もちろん、神の保護を失うことは怖ろしい結果をもたらしました。


 女にはこう仰せられた。
「わたしはあなたのうめきと苦しみを大いに増す。
あなたは苦しんで子を産まなければならない。
しかも、あなたは夫を恋い慕うが、
彼はあなたを支配することになる。」(創世記3章16節)

 また、人に仰せられた。
「あなたは妻の声に聞き従い、
食べてはならないと
私が命じておいた木から食べたので、
土地はあなたのゆえにのろわれてしまった。
あなたは、一生
苦しんで食を得なければならない。(3章17節)

土地はあなたのために、
いばらとあざみを生えさせ、
あなたは、野の草を食べなければならない。(3章18節)

あなたは、顔に汗を流して糧を得、
ついに、あなたは土に帰る。
あなたはそこから取られたのだから。
あなたはちりだから、
ちりに帰らなければならない。」(3章19節)
 

 これは、なんと厳しい!
 というより、あまりに、人が置かれた状況そのものなのではないでしょうか。
 私は、最初これを読んだとき、むしろ、この刑罰にとても驚きました。
 今、私たちが、生きるためにしなければならないもろもろの労苦、女性が子どもを産むことが、一つの大きな「事業」のように、心身の負担を伴うこと。また、夫と妻の関係などが、この時、神によって「刑罰」として宣告されたものだった!!

 アダムとエバは、自分たちの犯した罪が、このように、彼らの子孫に永遠に及ぶとは、考えたでしょうか。


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2010年09月07日

Coffee BreakN 因果応報とサタンと



 人は生まれながら罪を負っている。


 子どもの時、私はこのような考え方を、周辺の大人からしばしば聞かされました。人が人生でいろんな苦難に遭うのは罪のためだ。
 しかし、当時、私の周りに、クリスチャンはひとりもいませんでした。日常的に聖書を読んでいる人も知りません。
 
 私の育った宗教的環境は、いわゆる日本の伝統宗教です。寺の檀家であり、同時に神社の祭礼があればそれにも参加するような宗教的混合社会でした。実際の生活では、葬式と死者の弔い・祀りを行なう寺を中心とする絆が極めて強い地域でした。
 仏教の「教え」がしっかり語られていたのでもなさそうでしたが、生活の苦労や病気の人を慰める精神的な支えは、やはり「お寺さん」にあったようです。

 檀家寺のお坊さんは、毎月決まった日にきちんと訪問してくださって、仏壇にお経を上げて下さるのです。それはとても大切な日で、その日は新しい花や果物、菓子を仏壇に供え、特別の座布団を仏壇の前に用意して、お坊さんをお迎えしました。子どもたちは親とともに、お経を上げるお坊さんのうしろに並んで正座し、神妙な顔でお経を聞いていたものです。お経が終わると茶菓でおもてなしをし、子どもはお茶や菓子を運び、ふたたび座ります。子どもが誕生日だとか、ちょっと良いことをしたときなど、母がそれをお坊さんに報告し、するとお坊さんは手を私たちの頭に置いて、時には短い経文を唱えてくださるのです。
 親が何か相談事をお坊さんにするときは、あらかじめ言い聞かされているので、子どもは座を外しています。でも、そのつもりなら、襖越しに聞こえます。そんなに難しい話をしているわけではありません。近所づきあいや親戚づきあい、主婦としてのちょっとした愚痴。お坊さんも大体予定している時間がありますから、最後には、「いや、生きるのは苦です。人は生まれながら苦を負っているんですな。生まれながら罪があるんです」というあたりで、打ち切られます。

 「生まれながら苦を負っていて、罪がある」というのが、どういう意味かは、じつは、大人の世間話のうちに含まれていて、しぜんに得心していったことでした。
 それは、いわゆる生老病死という人間の四つの苦から始まっています。生きること自体が罪を犯しているのです。私たちの命は、ほかの命の犠牲のもとに支えられている。毎日の食事、着る物、家屋、土地を耕すこと、すべては、ほかの生き物の命と引き換えに得ているものだというのです。これは、ある意味とてもわかりやすい理屈です。食べる物で生きていなかったものなどひとつもないのですから(たとえ、米や野菜であっても生命のあるものです)、生きることは本源的に罪を作る事なのかと子どもながら納得します。挙句に、人の一生は老いに向かっており、必ず病を得て最後は死ぬのです。

 罪のもう一つの由来は、「因果応報」として語られていたように思います。いわゆる、前世の因縁、先祖からの因縁、本人の過去の行動からの因縁。
 不幸が続くのは、前世で悪いことをしたからだ。先祖が悪いことをしたからだ。知らない間に罪作りなことをしているのだ。挙句に、先祖の供養が足りないから、ご先祖が怒っていらっしゃるのだ。

 お断りしておかなければならないのですが、私はこれらが、仏教の正しい解釈から来た教えであるかどうかは、今もって知りません。
 たぶんに俗耳に入り、巷間、人々にわかりやすく解釈されていった「仏教的罪の由来」かもしれません。
 しかし、いまでも、これらの考えは、結構生きていないでしょうか。先祖の供養が足りないから、水子供養をしないから、親の行いが悪かったからというのは、まだしも。若い女の子が、「あたしね。前世では、クレオパトラだったんだって」などと電車の中で大真面目にしゃべっているのを聞くと、ただ、びっくりしてしまいます。
 
 なんといっても、上の二つの罪の原因と、創世記3章が意味する罪の由来は、まるで違うものだとわかります。

 聖書では、罪は「神に対して」犯されたものです。神を敬わないのはもちろん罪です。アダムとエバのように神の命令に背くのは罪です。しかし、同時に、人と人の関係に過ぎないと思えるようなこと、盗みや殺人、親への反抗や嫉妬や姦淫(不倫)、困っている人を助けないことも罪なのです。なぜなら、そのようなことはすべて、神がいとわしく思われるからです。神は人に、隣人を愛するようにと命じておられるのです。その命令に背くのは、罪なのです。

 では、もろもろの苦難や不幸はどのように考えればいいのでしょう。まだ、何の罪もないはずの赤ちゃんが、戦争発生地帯に生まれたばかりにひどい怪我をする、生まれてすぐ親を失ったなどという場合、原因は何なのでしょう。

 それは、私たちの生きているこの世それ自体が、罪の世界である、サタンが支配する世界であるからというのが、聖書の教えです。

 エデンの園から追い出されたというのは、神の祝福と守りの中から追い出されたことなのです。人は、神の保護のない、悪魔が支配する世界に入れられてしまったのです。

 ただ、それでも、神は、私たちを心にかけておられ、なんとか元のように私たちをみもとで愛したいと思っておられ、そのご計画を、実行しておられると言うのが、私たちクリスチャンの希望です。

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2010年09月08日

Coffee BreakO 目が開かれるということ(創世記3章)


「主(神)を恐れることは知識の初めである。」(箴言1章7節)


 箴言は、39巻ある旧約聖書の20番目にある文書です。格言とも言うべき、諭しのことばです。「知恵文学」と呼ばれています。「神の救いの歴史」とはまた別のカテゴリで書かれているので、「創世記」を読みながらでも、興味を持って読むことができます。

 子どもの頃の宗教的環境を思い出したのは、因果、因縁で不幸が巡っているような考え方が正しいのかどうかを、問題にするためではありません。
 その考え方が、間違っているにせよ、世俗の人々が考える中途半端な思弁にせよ、あの頃は、もう少し人が「霊的事実」に向き合っていた時代でした。
 男は、家族を養うため、文字通り顔に汗して働くもの。女はそのような夫に従い、家族を一所懸命支える──そういう伝統的な生き方の名残が、まだまだ人に枠を嵌めていました。
 何か、わからないけれど、目に見えない力が自分たちの目に見える人生に働いている、そのような自分の力が及ばないものへの恐れは、今とは比べ物にならないほど強かったのではないでしょうか。
 
 いまは、どうでしょう。人は目に見えないものと、目に見える自分の力とを区別できているでしょうか。
 幸せで当たり前、ほしいものを手に入れて当たり前、欲求は満たされて当たり前。それも、すべての人がそうあって当たり前。隣の人が持っているものは、自分の手にも入るもの。力ずくでも手に入れるもの。手に入らないのは、誰かが悪いのだ!
 
 誰かが悪いと数え上げ始めると、いくらでも出てきます。道を歩いていて、わき道から自転車が飛び出してきても、バスが急ブレーキで止まっても、小さな段差で自分がつまずいても、「自分以外のもの」に腹を立てることができます。親、兄弟、家庭、国。社会や行政や学校制度。学校の先生、福祉、町内会、隣人。机を並べて仕事をしている同僚、上役。友人、仲間。ショッピングセンターの店員の応対。楽しそうに歩いている見知らぬカップル。

 自分を取り巻くものは、自分を支えてくれるだけではありません。自分の幸せや平穏を乱す原因にもなります。
 
「人差し指で人を指差せば、ほかの3本の指は自分を指しているんだよ」
 ある時、指を指された子どもがいいました。小学生でも、知っている事ですから、大人が知らないはずはないでしょうが、指差し合戦はけっこう蔓延しています。

 悪いものを正す必要があるのは事実でしょう。それができるのも、また、神に造られた人間です。 しかし、指差した後、もう3本の指に自分を指されて、落ち込むことはないでしょうか。落ち込んで、「うつ」の診断を受けて、薬を処方してもらえば解決でしょうか。お酒で気晴らしすれば解決でしょうか。気分が良くなれば、解決でしょうか。

 
「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3章5節)と、蛇はエバにささやきました。
 それまでも、善悪の知識の木は、おいしそうな実をつけて、そこにありました。また、食べるものは園の中にいくらでもありました。それなのに、エバは禁じられている実に手を伸ばして、取って食べたのです。
 サタンは、人の思いあがりの心に付け込みます。何一つ、申し分なく平穏な者にさえ、ささやくのです。
「ほら、あれに指を差してご覧。あなたは、彼らより上になるのだ」

 神の祝福の中から追い出されて、人間がどのような運命を辿るのか。創世記4章ではアダムとエバの二人の息子が、いきなり人類最初の殺人事件を起こすのです。家庭内殺人です。裁判になっていたら、裁判官は首を傾げたことでしょう。動機を、明らかにするのは、とてもむずかしいからです。


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2010年09月09日

Coffee BreakP 人類最初の家庭内殺人(創世記4章)


 人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た」と言った。(創世記4章1節)
 彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕すものとなった。(4章2節)
 ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげものを持ってきたが、(4章3節)
 アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持ってきた。主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。(4章4節)
 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。(4章5節)


 楽園を追放されたアダムとエバですが、神を敬い、慕う気持ちはなくならなかったようです。長男を得たエバは、「私は主(神)によって一人の男子を得た」と、感謝しています。
 楽園の外の生活は厳しいものであったとしても、二人は、神が宣告した刑罰に従っていました。アダムは額に汗を流して働き、エバはお産の苦しみを経験して、それでも、生き抜いていきます。


 彼らの子どもたちは両親を見て、人は生まれたときから働いて糧を得るものと学んだのでしょう。カインは土地を耕し、アベルは羊を飼うものとなったのです。
 収穫があったときに、それを「神にささげる」と、だれが教えたのでしょう。神を礼拝しないではいられないという本能が、しぜんにそのような行動を取らせたのでしょうか。じっさい、厳しい自然環境の中で、収穫があった喜びは格別だったでしょう。

 二人は仲良く、同じ時、同じ場所で、自分の得たものを献げたのです。
 ところが、神は、アベルの捧げ物──初子の羊を──喜ばれて目に留められ、カインの、──たぶん、これも収穫物の中では一番良いものであったのでしょうが──収穫物には目を留められなかったと言うのです。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。

 今風に言えば、「深く傷ついた」わけです。今風に、彼の立場を理解してあげると、「傷つくのはもっともだ」となるでしょう。
 神様に献げる行為も、その動機も褒めてもらえるようなことです。神は、肉がお好きで、植物はお好きではなかったなどと解説する向きもあるようですが、そんなことはカインにとって、「知ったこと」ではありません。彼は農耕者なのですから、農産物をささげる以外なかったのです。アベルは牧畜業なので、子羊を捧げたのです。この比べようもない二つのものの一方を、神は目を留められた、つまり、評価されたように、カインには思えたのです。
 
 この場面は、人の怒りと嫉妬について、いろいろなことを教えてくれます。
 
 先ず、審判者が自分の信頼している方である場合、その怒りは信頼に比例して強くなります。親や教師は公平に扱ってくれるものと思っているので、親や教師が不公平だと思うとき、その失望と怒りは強いのです。神は彼らにとって、親よりもっともっと高い存在でした。
 自分の行動の動機が良いと思えるとき、人はそれを無視されたり、評価されないと、怒りが湧きます。
 さらに、精一杯のことをしているのに、評価されないとがっかりします。
 比べられる相手が、自分と近い人間である場合、関係の遠い他人と比べられるより怒りも嫉妬も強くなります。
 つまらない例ですが、ミスコンに出て、ひな壇に並び、ルックスやスタイルや歩き方を露骨に採点され、たとえ入賞しなかったとしても、あまり怒りは湧かないかもしれません。それが、同じ姉妹同士、並んでいるときに比較評価されたら、頭にくるのではないでしょうか。だから、意地の悪い人間は、親友同士のつながりを切るのに、一方だけを褒めたりします。
 
 ふつうに考えれば、カインが怒る理由は揃っていたのです。
 
 ただ、これはふつうの話ではないのです。彼らがささげ物をした相手は、王でもなければ、高貴なお客様でもありません。神さまだったのです。

 ここで、「神は、目を留められた。」「目を留められなかった。」とあるので、私たちはつい、二人の若者とそれをご覧になっている神さまとを思い浮かべてしまいます。
 しかし、聖書の基本にもどれば、神とは、霊なのです。人間のような目鼻がついた方ではないのです。私たちの中に生まれながら備えられた、神と語る空間──心や魂を通して神は語りかけてくださり、見つめて下さり、必要なら励ましなぐさめてくださるのです。神が喜ばれるすがたも、私たちの心に映るのです。
 
 神がカインのささげ物に目を留めてくださらず、アベルのささげ物に目を留めてくださったと、カインはどうして思ったのでしょう。なぜ、彼の心や魂は、神が自分を無視し、弟を評価されたと、取ったのでしょう。


 そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。(4章6節)
 あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」(4章7節)


 神は至高の方、絶対者ですから、仮に、神がカインのささげ物をお喜びにならなかったとしても、カインは怒ってはいけなかったのです。いかなる場合にも、神に従う、それが被造物としての在り方だからです。
 しかし、カインは、どうしても「自分をおさめる」ことができませんでした。
 

 しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」 そして、二人が野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。(4章8節)
 主はカインに、「あなたの弟アベルはどこにいるのか」と問われた。カインは答えた。「知りません。わたしは、自分の弟の番人でしょうか。」(4章9節)


 痛ましい、何か恥ずかしいような話です。これが、人間の姿なのだと、でも、認めているような気もするのです。
 神が人と契約を結ばなければならない、戒めを与えなければならないと、お思いになったのは、この時からかもしれません。



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2010年09月10日

Coffee BreakQ カイン


「あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」(4章7節)


 カインがひどく怒って顔を伏せたのをごらんになった神は、こう言われました。反抗的な膨れ面は、神への罪なのです。それで、神は、カインに注意を促したのです。悔い改めるようにと。
 悔い改めないなら、
罪は戸口で待ち伏せしているとは、なんとこわい状況でしょう。しかも、罪は罪を犯した人間を、恋い慕っている

 カーッとなって、我を失い、肩怒らせて出て行く人間を、戸口で迎えるサタン。サタンは満面に狡猾な笑みを浮かべて、怒っている人の手を握り、「よくやった」と、彼を連れ出す。そんな光景が目に見えるようです。

 だれでも、一度や二度は思い当たる場面ではないでしょうか。たびたび!という人もいるかもしれません。
それを治めるべきであると、神が言われるまでもなく、こんな時、怒りに駆られている自分を「制御したい」と人は思います。落ち着いて、落ち着いて! クールダウン! 深呼吸して。とりあえず、ここは我慢して・・・。

 でも、心の底から、「自分を治める」ことが、できるでしょうか。

 
 カインはどうだったのでしょう。
 小説なら、ここは作家の想像が羽ばたくところです。


 カインはあえぎながら、こぶしを握り締め、弟を睨みつけていました。弟のささげ物も自分が持ってきたささげ物も蹴散らしたい衝動を、必死で抑えていました。さすがに、主の目の前で、怒りを爆発させることは出来ませんでした。
 何も気づかないアベルは、兄を見て言いました。
「どうしたの。兄さん。顔が真っ赤だよ」
 戸口で待っていた罪が近寄ってきて、カインの肩を叩きました。
「あの余裕を見てみろ。この上、お前は、弟の笑いものになるのか」


 正しく行なう暇も与えません。サタンは抜け目がないのです。

 カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」 そして、二人が野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。(4章8節)
 カインを、私たちは断罪できるでしょうか。私たちも似たような者なのです。ひとたび、罪に囚えられたら、自分の力だけでそこから抜け出すのは、容易ではありません。
 
 やがて、人間は、祭壇を築き、犠牲(自分の罪を身代わりに負う動物のいけにえ)を献げて、神に罪の赦しを乞い、その御心を聞くようになりました。自分で治められない自分を、神に委ねようと気がついたのです。でも、それは、カインからずっとずっと後の時代の話です。

 カインは、その上、過ちを尋ねられて、開き直り、しらを切りました。罪の上塗りをしたのです。
 

 主はカインに、「あなたの弟アベルはどこにいるのか」と問われた。カインは答えた。「知りません。わたしは、自分の弟の番人でしょうか。」(4章9節)

  

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2010年09月11日

Coffee BreakR ひれ伏す心(創世記4章、ルカの福音書12章7節)


 秋口になると、シャンプーするたびに、髪の毛が大量に抜け落ちます。まめに掃除機を掛けていても、部屋の中には、髪の毛が落ちています。毎日どれほどの髪の毛が抜け落ちているにせよ、抜けるばかりでなく、きっと新しいのが生えているのです。
 いったい、その増減はどのようになっているのでしょう。日ごとに会計簿で、お金の出入りを細かくチェックする人でも、血圧や脈拍、体重などをチェックする人でも、髪の毛ばかりはチェックの対象になりません。

 聖書には、
あなた方の頭の毛さえも、みな数えられています。(新約聖書・ルカ12章7節)とあります。
 聖書の神は、「天地万物を創造された神」であると同時に、「全知全能の神」です。地球上に約69億人(2010年度・国連による推計)の人がいても、そのすべての人の、刻々と変わる髪の毛の数までご存知の方です。神を畏れるとは、このような神のご性質を思うとき、しぜんに人間の心に湧き上がってくる畏敬の念ではないでしょうか。

 弟を殺しておいて、神からその所在を尋ねられると、「知りません。わたしは、自分の弟の番人でしょうか。」と答えたカインは、あまりにもナイーブに見えます。
 神を畏れることは、知識の始めである。のだとしたら、彼はまだ、始めにも、立っていなかったのです。神が、カインの弟殺しをご存じないはずがない、と思い至らないのですから。

 神はすかさず、仰せられます。
「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。」(創世記4章10節)
 そして、宣告されるのです。
「今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。(4章11節)
 それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じはしない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」(4章12節)

 これを聞いたカインは、一転、弱気になって、神さまに泣きつきます。

「わたしの咎は、大きすぎて担いきれません。(4章13節)
 ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔(みかお)から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで。私に出会うものはだれでも、私を殺すでしょう。」(4章14節) 


 カインは、神がすべてをお見通しであることに驚き、刑罰の重さに驚き、身も世もないほどうろたえているのです。この、幼児並みの弱気な反応に、神は言われます。

「それだから、だれでもカインを殺すものは、七倍の復讐を受ける。」 そこで主は、彼に出会うものが、だれも彼を殺すことがないように、カインに一つのしるしを下さった。(4章15節)
 

 エッと、思うところです。何の罪もない弟を問答無用で殺したカインが、命乞いをすると、神は即座に減刑された? カインは、新しい土地で生きることを許されるのです。

 たとえ、大きな過ちを犯したあとでも、罪を認め、神の前にひれ伏すなら、神は憐れんでくださる──!! 
 間違いばかりを繰り返す人間にとって、このような、神さまの愛は、なんとなぐさめでしょう。大切なのは、神さまの前に、ひれ伏す心であると、この箇所は教えてくれます。

 クリスチャンはいつも祈ります。教会で礼拝しますが、自分ひとりでも祈ります。
 あんなに熱心に、何をお祈りしているの。ノンクリスチャンの友人に聞かれたことがあります。何のお願いをしているの。
 もちろん、クリスチャンもいろいろ願いがあり、その願いを叶えてくださるようにと祈ることもあります。
 でも、まず、神様の前でひれ伏すのです。神さまを畏れ、悔い改め、神さまの大きさ、高さ、深さ、広さ、全能さ、聖さ、愛を賛美するのです。そうすることが、けっきょく、神さまの愛に触れることだと、だんだんわかってくるのです。聖書の、その初めから記されているように。




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2010年09月12日

Coffee BreakS カトリーヌ・アルレーの世界(創世記3章4章)


 カインの殺人事件は、Coffee BreakOで書いたように、「裁判になっていたら、裁判官は首を傾げた」ことでしょう。
 動機を明らかにするのは、とても難しいからです。
 客観的にだれかが見たら、カインがアベルを殺すほど嫉妬する理由は見当たらなかったのではないでしょうか。今とは、比べようもない自然条件の中で、二人はそれぞれの仕事と格闘しなければなりませんでした。けれども、どちらも、同じ時期に、一定の成果を上げ、その収穫を神さまに感謝し、ささげ物を神様の御前(みまえ)に持ってくることができるようになったのです。それまでに、二人の間に利害の対立などあったでしょうか。二人は、まったく違う仕事をしていたのです。


 カインの言い分──「神さまは、弟の方のささげ物に目を留められて、自分のささげ物には目を留められなかった。それで、カッとなって・・・」は、はたして、法廷で認められるでしょうか。
 神さまが、兄弟を依怙贔屓したと証明することは難しいでしょう。もちろん、神さまを法廷にお呼びすることはできません。
「なぜ、弟を殺したんだね」と、裁判官。
「腹が立ったんです。やつがおれを侮辱したから」。
 また、
「やつはなにもかもうまく行ったんだ。羊は順調に育って、子羊を何匹も産んだ。やつは、毎日おいしい乳を飲んで、肉を食べていた(聖書的にはノアの時代以後ですが)。それにひきかえ、おれは一所懸命働いたのに、小麦が全部イナゴでやられちまって・・・。大変だったんだ。やっとそれでもいくらか獲れたものを、神さまに持ってきたんだ。やつは、それを軽蔑の目で見たんです」

 そんな証拠もたぶん、出すのは難しかったでしょう。


 わたしはかつて、ミステリーのファンでした。自分でも書いてみました。本として出版されたようなものはありませんでしたが、犯罪事件を物語に組み立ててみるのは、人間や人生について考えさせられることでした。
 ます、事件を起こす必然性、いわゆる、動機です。人間の目で納得できるためには、いくつかの、非常に類型化されたパターンがありました。犯罪事件の原因は、お金、男女関係、怨恨、家族防衛、社会的地位や名誉の獲得競争、保持などでした。
「でした」と、過去形なのは、古典的なミステリーではそのようになっている、ということです。アガサ・クリスティ(名探偵ポアロ)やコナン・ドイル(シャーロック・ホームズ)などの探偵小説を思い出してください。物語を語る手際がいいので、複雑な事件を探偵が知恵を絞って解決しているように見えますが、ナゾ自体はきわめて単純なものです。

 犯罪事件、または広い意味でミステリーな出来事が、類型化できるようなものなので、やがては飽きられるわけです。それで、魅力的な探偵を登場させたり、特殊な世界を舞台にしたり、謎解きそのものに工夫を凝らしたり──密室物など──、実話を絡ませたり、どんどんバリエーションが増えていきました。それでも、小説に書くような話は単純なのです。動機や犯罪の起こり方に、読者が納得できるものがなければなりません。

 意外性を狙い、読者のウラをかいて、最後に「アッ」と言わせるのが作家の喜びなのですが、だからと言って、最後の最後に、とつぜん、それまで、登場していなかった人物が出てきて、「じつは私が犯人だ」では、話になりません。
 同時に、犯人らしくない人物が犯人だったという意外性にも、あちこちにヒントが埋め込まれていて(伏線)、ああ、そうだったのか。あそこを読み落としていたと、読者がほぞを噛むように、また、横着な読者が飛ばし読みしないように、しっかり作るのが作家の腕です。

 ミステリーと言うジャンルのために弁護しますが、ミステリーはその後、進化発展して、じっさいには、小説のジャンルとしても幅を広げ、取材する世界、人間性の掘り下げ方、手法など、とても多様になっています。

 とりわけ、私が好きだった心理サスペンスの世界は、もう古典的な謎解きとは無縁の世界です。そこでは、動機、それも類型化された動機でなく、理由のつかない「人間の心の闇」とも言うべき世界を扱った優れた小説が、数多く生まれています。


 たとえば、──これも今では古典ですが──カトリーヌ・アルレーの「わらの女」。平凡で貧しい孤独な女が、まだ見ぬ富に憧れ、生活の変化を求めて、新聞の小さな求婚広告に応募するところから、幕が開きます。
 彼女・ヒルデガルデは、予想通り、思いがけないほどの巨億の富の世界に入っていきます。そこにいるのは、悪魔ばかりなのですが、ヒルデガルデは多少の悪には負けないと自分も悪魔の仲間入りをしたつもりでいるのです。しかし・・・。
 そのようなナイーブな悪を、本物の悪魔がひねるのは簡単なのです。膨大な長編ですので、ここでは「さわり」をお伝えするのもむずかしいのです。



 最近、私たちの身の回りに、カインのような事件がたくさん起こっていないでしょうか。他人が見たら動機がわからない、あとになると本人も説明ができないような殺人やいたずら。

 創世記の、気の遠くなるような昔の話が、かえって今の時代の事件に似ているのは、どうしてでしょう。あまりにナイーブで、神を畏れることを知らなかったカインのような人が増えているのでしょうか。
 それとも、神などいるものかと、そっぽを向いているために、カインと同じように、サタンにそそのかされるのでしょうか。



 「わらの女」の主人公は、第二次世界大戦中、ハンブルグの大空襲で親兄弟、友人をすべて失い、生活の基盤も失い、深い虚無の中にいました。そこでは、サタンの声はとても真実味がありました。金持の男と結婚するしかない、お金がすべてだとヒルデガルデは信じるようになっていました。その手段は、毎日、新聞の求婚広告を見るといったあてにならないものでしたが、悪魔がささやき続けていたのです。
 彼女はドイツ人ですから、子どものころは教会にも行ったはずです。神さまを知らなかったわけではなかったでしょう。しかし、祈るような気持ちになれないところに立っていたのです。
 悪魔の声に振り回されていくヒルデガルデは、破滅のどん底で初めて、「神さま」と叫ぶのです。残念ながら、神さまがお答えになる時間はありませんでした。彼女は同時に、意識を失くしていたからです。自殺したのです。


 それにひきかえ、まだ、生まれたばかりの人の、最初の息子、ろくに神さまのことも、祈りも知らなかったカインには、神さまが憐れみをかけてくださったのでしょう。


 
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