2010年09月13日

Coffee Break21 もう一度天地創造



 Coffee BreakCには、読者の方からのいくつかの質問をご紹介しました。

 ここで、その2番めにあったご質問、「天地はほんとうに六日間で出来たと信じている?」に対してお答えします。
 大変、重要なことがらですので、今一度、このブログのおすすめサイト・ペンテコステ宣教学・やさしい神の国講座2章から、佐々木先生の文章をお借りしたいと思います。サイトをご覧になればプロフィールがありますが、佐々木先生は、長く宣教師をされ、今は日本で教会を牧会しておられる経験豊かなベテラン牧師です。難しいことをやさしく解説するテキストをいくつも書いておられます。
 

 天地創造のでき事は、聖書の一番初めに置かれている、創世記という書物の最初の部分に、物語風に記録されています。初めてこの部分を読む現代人は、つい、自分たちの合理主義的な考え方、つまり、自分の理論を大切にするものの見方を持ち込み、理科の教科書でも読むような、自然科学的な感覚で読んで、荒唐無稽な神話だと思い違いをしてしまいます。

 それに対して、これは文字通り事実であると考えるクリスチャンたちは、これもまた、現代的な合理主義に立つ自然科学の知識を駆使して、これが単なる神話ではなく、科学的な事実であると証明しようとしています。しかしどちらも、自分たちがとんでもない誤りをおかしていることに、気づいていません。

 それは、この書物が今から3500年ほども昔、まず、その当時生きていた人々に分かり易く、書かれているという事実です。21世紀の人間が、物理学の知識、生物学の知識、天文学の知識、その他、関係するあらゆる科学的知識をもってこれを調べ、納得できるように書かれているのではありません。合理主義や自然科学が発生する、3000年以上も前に生きていた人々に、最も分かり易く、最も記憶し易く、最も要点をつかみ易く書かれているのです。ですから、そこに記されていることは、現代の科学知識から判断して、正しい記述であるかどうかと議論するのは、まったく的外れの愚かなことです。あらゆる科学的知識に満ち溢れ、その知識の上に世界を創造なさった神が、3500年前に生きていた人々に、最も理解され易く、受け入れられ易い書き方をしてくださったのです。そのことを理解して読むと、逆にこの部分が、豊富な科学的知識を背景に書かれていることに、驚かされます。自然科学とは、結局、神が天地創造のときにお定めになった、自然の法則を学び、利用するものなのです。

 創世記のこの部分で、神が人間にお伝えになろうとした基本的な事柄は、多分、以下のようにまとめられることでしょう。

 @神が天地の創造者であり、すべてのものは神によって発生し、神によって存在しているという  事実。
 A創造者である神は、またすべてのものの支配者であるという事実。
 Bすべての被造物は、神がお定めになった秩序(法則)によって正しく保たれているという事実。  
 C人間も神の被造物のひとつに過ぎず、神の絶対の権威のもとに生きるように定められているという事実。
 D人間だけが神に似せて造られ、神との特別な関係を持つように造られている事実。



 私たちは子供のころ、一度は、「どうしてお空があるの」とか、「どうしてお日さまが出来たの」「お星さまはどれくらい遠くにいるの」と、大人に訊いたことがあるのではないでしょうか。
 
 もう少し、大きくなれば、自分たちが親から生まれ、その親はおじいさん、おばあさんから生まれ、そのおじいさん、おばあさんは、ひいおじいさん、ひいおばあさんから生まれと、さかのぼり、で、結局、最初の人間はどうして生まれたんだろうと、思ったことはないでしょうか。
 私たちが鳥類なら、まだ、親たちも、答えやすかったでしょう。ニワトリはたまごから生まれるんだ。たまごはニワトリから生まれるんだ、と、例の、ニワトリ・たまごのたとえで、冗談にしてしまうこともできるからです。

 それでは、納得できなくなる頃に、学校で、「正式」な答えを用意しているのです。
 おおざっぱに「進化論」と呼ばれるものですが、それでも、高校生になると、もう、先生に食い下がる生徒がいました。
「それでは、最初の単細胞生物はどこからきたのですか」
 私たちの生物の先生は正直な方でした。
「最初の、単細胞生物がどうしてできたか、まだ、わからないんです。作ってみようという試みは、いろいろあるようだけど。まあ、原始の地球と同じ環境を作るのは、実験室では無理だから、無理だというあたりかな」


 星がまたたき始めた草原で、大家族が集まって夕食を食べています。
 麦粉だの、木の実、干し肉など、食べ物は粗末なものです。汚れた手で食べている子どもに、おじいさんが話しています。
 
 神さまはね。最初に光をお造りになった。神さまが「ひかりがあれ」と命じられると、光が現れたんだよ。神さまはひかりをご覧になって、「良し」と言われた。それから、ひかりと闇を分けられた。それで、夜と、朝が区別されるようになったんだ。一日目のことだ。

 子どもたちは目を輝かせて、おじいさんの話を聞いています。
 そんな光景が浮かぶ、創世記の天地創造物語です。


 創造が六日間で終わっているのは、実際的な意味もあったようです。
 奴隷状態が長かったイスラエル民族に、リズミカルな生活、六日間働いたら、七日目には休むよう教える必要があったのです。

 イエス様もおっしゃっています。

「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。
人の子(イエス様)は安息日にも主です。」(新約聖書マルコ2章27節28節)


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2010年09月14日

Coffee Break22 箱舟(創世記6章7章8章)



 そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、私の前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。(創世記6章13節)
 あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟に部屋を作り、内と外とを木のやにで塗りなさい。(6章14節)
 それを次のようにして造りなさい。箱舟の長さは三百キュピト。その幅は五十キュピト。その高さは三十キュピト。(6章15節)

 聖書を読んだことがない方でも、ノアの箱舟(方舟)の話をご存知の方は多いのではないでしょうか。「ノアの箱舟」または「箱舟」だけで、慣用句のように使われることもあることばです。
 この箱舟の物語は、創世記6章、7章、8章と、三つの章を費やして語られています。これは、聖書のテーマ「神の人類救済史」の中で、とても、大きな意味を持つ話なのです。
 
 
 アダムとエバの背きに、「追放」という罰を下された神は、彼らの長男カインの殺人に対しても、「追放」にされました。
 同じ追放でも、もちろん、その意味は格段に違います。アダムとエバは楽園「エデンの園」から追い出されたのです。カインは、すでに楽園の外にいて、住み慣れたはずの場所から追放されただけでした。
 カインが泣きついたので、神さまはカインに「しるし」を下さって、ほかの者が彼に害を加えることがないようにして下さいました。いのちの保障はあったわけです。
 
 神さまはけっきょく、最初に背いたアダムとエバの夫婦も、その子どもも、命まで奪われるような罰は下さなかったのです。ご自分が直接、愛をこめてお造りになったアダムやエバ、その最初のこどもを、やはり、愛しく思われたのでしょう。
 聖い神からご覧になったら、その聖さで本来は、一瞬にして焼き滅ばされても仕方のない人間たちのいのちを、神さまの愛が、救われたのでした。

 しかし、そのような、「出来事」は、その後に生まれる人間に伝えられたのでしょうか。聖書によると、アダムとエバの夫婦も、カインも、たくさんの子どもを残しました。何代も代を重ねるうちに、人間は増え広がりました。

 アダムから10代目の子孫が、ノアです。彼は直系のまたその直系の子孫ですから、傍系の子孫を含めると、相当人口が増えていたことでしょう。
 「産めよ、増えよ。地に満ちよ。」と、神さまが願われた人間でしたが、増え広がった人間は、神さまの目にどのように映ったのでしょう。

 主は、地上に人の悪が増大し、その心の計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。(6章5節)
 それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。(6章6節)

 
 そして、ついに、

 主は仰せられた。「私が創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはう物、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」(6章7節)


 神は大洪水を地上に起こして、地上のすべてを消し去ろうと決心されたのです。
 そして、ノアには箱舟を作り、家族とともに、その中に避難するよう命じられたのです。
 どうしてノアだったのでしょう。




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2010年09月15日

Coffee Break23 ノア(創世記6章7章)


 そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、私の前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。(創世記6章13節)



 絵本が好きな方は多いでしょう。わたしも好きです。図書館の児童書コーナーには、絵本がたくさん展示されています。絵本が一冊一冊、表紙を見せて展示されている前にはベンチがあって、手に取ったものを、その場で腰を下ろして読むことが出来るのです。
 創作絵本は別として、絵本になる物語は案外良く知られているものです。物語にひかれて読むのではなく、やはり、絵を楽しむものかなあと、自分の嗜好を考えています。
 古典的な良く知られたお話、たとえば、赤頭巾とか、白雪姫、かぐや姫などの絵が、自分の子供のころとずいぶん変わってきました。みんなとても上手で、個性があります。

 ノアの箱舟の物語は、クリスチャンになるずっと以前から知っていましたから、最初は、このような絵本で読んだのかもしれません。
 大きな大きな箱舟を作って、そこにノアさん一家とたくさんの動物たちが入ったあと、神さまがノアのうしろの戸を閉じられた。雨が降り出し、大洪水になり、水かさがしだいに増して、地上が海のようになります。その上にぷかぷか浮いている箱舟のお話しは、子どもには目を瞠るような刺激的なメルヘンです。

 けれども、もともとの「ノアの箱舟」の話はメルヘンではありません。これはとてもシリアスな物語です。
 神さまが増え広がった人間だけでなく、地上のあらゆる生き物を滅ぼすのです。肉なるものと言われていますから、植物は滅ばされる対象ではなかったのです。また、もともと水の中に暮らす魚も除外されたようです。
 とはいえ、滅びの対象になったものは滅びます。神さまが決心されたら、どんなことでもお出来になるのです。

 
 こうして、主は地上のすべての生き物を、人をはじめ、動物、はうもの、空の鳥に至るまで消し去った。それらは、地から消し去られた。ただ、ノアと、彼といっしょに箱舟にいた者たちだけが残った。(創世記7章23章)
 水は、百五十日間、地の上にふえ続けた。(7章24節)

 
 箱舟がどんなに大きかったとしても、閉ざされた箱の中でした。ガラス窓などはありませんでした。酸素がどうなっていたのかなどという問題は、神さまが解決してくださったのでしょう。けれども、まったく外が見えない空間、揺れる箱舟の中、閉じ込められたノアとノアの妻と子どもたちは、どのような気持ちだったでしょう。夜はちゃんと眠れたのでしょうか。神様のご命令どおり積み込んだ、たくさんの食料は喉を通ったでしょうか。 


 昔、宇宙開発が始まったばかりの頃、地球最後の日に、選ばれた人たちがスペースシャトルに乗って宇宙へ出発すると言う話が、まことしやかに書かれていたことがあります。
 宇宙開発が将来の箱舟として考えられていたかどうか、真相はわかりませんが、宇宙船に乗る宇宙飛行士の資質として、「ただの人」は先ず無理だと、いまでも言われています。宇宙に行くまでいろんな訓練をするのです。長期間宇宙空間で仕事をする飛行士は、肉体が壮健なのはもちろんですが、何より、精神的に強いことが求められていると聞きます。狭い空間で、孤独に耐えて、自分をコントロールしてさまざまな仕事をするのです。彼らは、もちろん、宇宙船を支えて地上で働く人たちを信頼しているのです。しかし、究極の不安を克服させるものはなんでしょう。

 

 ノアの一家は、閉じられた箱舟の中で何をしていたでしょう。たぶん、一日中、神に祈っていたのです。
 神を信頼し、神のご命令なら、必ず、いつか洪水は収まり、箱舟から出られる日か来ると信頼して、その時を待っていたのでしょう。


 ふえ続けたアダムの子孫の中で、ノアとその妻と息子たちだけが滅びを免れた理由は、
「正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。(6章9節)」からでした。




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2010年09月16日

Coffee Break24 さいわい(創世記6章)




 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。(創世記6章11節)
 神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でそれを乱していたからである。(6章12節)

 創世記6章には、神さまがご覧になって、地上の人の悪がどれほど目に余るものであったか、繰り返し語られています。その中で、ノアは、正しい人であって、その時代にあっても全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。と、強調されているのです。

 大洪水を起こして、地上のすべての人間を滅ぼそうと決心された神が、ノアを助けられたのは理由のあることだったのです。

 わたしたちは、このような状況、大部分の人たちが滅ぼされるときでも、自分と自分の家族だけは助かりたいと思います。99.99999%の人が滅びても、0.00001%でありたいのです。
 
 しかし、よくよく読むと、ノアの基準で助かるのは自分には不可能だと、わたしには思えます。正しく、神とともに生きるだけでも大変ですが、人とまったく違う道を行くのは並みの意志ではできません。すべての人が悪に傾き、暴虐を行なうときに、自分だけを聖く、正しく保てるのか、確信がもてません。
 
 誰かが苛められているときに、「君たちは間違っているよ」と弱い一人ぼっちのクラスメートをかばってやるのが、どんなに大変かわかるでしょう。
 みんなで噂話をしているときには、つい、その話題の中に引きずり込まれるのは、だれもが経験しているでしょう。自分が噂話の対象になっていたとわかると、自分も言い返したりします。
 クリスチャンのなかには、仏式の葬式には出ない人もいると聞きます。けれども、これも、信仰を守ると言う意味があっても、それで、遺族との間に誤解が生じたら、「良いこと」だとばかり言えるでしょうか。神さまはわたしたちに「隣人を愛しなさい」と命じておられるのです。

 現代の複雑な社会では、慈善的活動でさえ、「正しいことをした」と言い切れないことがあります。街頭募金の箱にお金を入れたら、それが、反社会的な活動をしている団体の資金になったと言うこともありえます。
 開発途上国に支援物資や支援金を送るのは良いことですが、その途上国から、強い円で、資源や生産物を買い叩き、結果的に搾取になっているのです。買い叩いた食べ物や衣類のお陰で飽食ぜいたくをしながら、少しばかり支援している事実は変わりません。

 いったい、「正しい」とはどういうことなのでしょう。
 わたしたちもノアのように、「神とともに歩む」ことなど、できるのでしょうか。

 聖書の神さまは、聖であると同時に、愛の方だと書きました。
 聖くないものを忌み嫌われるのです。同時に、間違いを犯したものを赦して下さろうとする方です。
 アダムとエバ、カイン。そして、ここでは、全人類を滅ぼしたいと思われたにもかかわらず、ノア一家に目を留めて救い出されたのです。

 さて、

 さいわいなことに、わたしたちは全員、そのノアの末裔なのですが・・・。


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2010年09月17日

Coffee Break25 ノアの末裔(創世記6章7章8章)


 水は、百五十日間、地の上にふえ続けた。(創世記7章24節)
 神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた。それで、神が地の上に風を吹き過ぎさせると、水は引き始めた。(8章1節)


 大分前のことです。ある雑誌が、結婚生活についての問題点の特集をしていました。その中で、お名前は忘れたのですが、ある評論家の方が、「もつれてどうにもならなくなった夫婦関係を、もう一度リセットしてやり直すことはできないものだろうか」と、書いていました。そのことばが出てきた状況がどのようなものかはわかりません。「どこの夫婦も」と一般化した書き方でした。長く結婚生活をしている人には、ははあと思い当たるこの「結婚生活のもつれ」を、「リセット」という言葉と結びつけているのが、印象に残りました。

 長い結婚生活では、お互いの重荷や欲求を担い合うなかで、いろんなきしみが生まれてきます。「こんなやつだと思わなかった」「こんなヘンなところがあったんだ」
 貸し借りが積み重なってもつれにもつれた夫婦関係をリセットできないだろうか。
 この評論家は、リセットを結婚の初期状態に戻す意味で使っているのであって、離婚を意味しているのではなさそうです。
 なるほど、ですが、パソコンをクリアするみたいにリセットできるかしらと、その時、思ったものでした。お互いに悪い思い出を水に流し、許しあって、一からやり直すのは、ある意味、人間関係の理想だけれど、それがなかなか出来ないのが人間でしょうと。
 それよりは、裁ちばさみでばっさりと切り分けて、右と左に分けてしまうほうがずっと手っ取り早い?
  

 神さまが、地上の人間の悪をご覧になって、「人間を造ったことを悔やむ、これらを滅ぼす」と言われたとき、神さまは、人間の絶滅を考えておられたのでしょうか。でも、そのなかで、ノアとその家族を選び出し、もう一度人間との関係をやり直そうとされたのです。

 洪水で徹底的に洗い直された地上を思い浮かべるとき、私は、先の評論家の「リセット」という言葉を思い出しました。神さまは、人間との関係をばっさり切ることもできたのですが、悪いものを消し去って、やり直そうとしてくださったわけです。0.00001パーセントの「正しい人」に目を止めて、洪水の後ノアとその家族が暮らしていけるように、あらゆる動物をペアで、また食料やささげ物になる動物は7つがいずつ、箱舟に避難させるよう細かい指示もされて、ともかく、もう一度、ご自分が造った人間と語り合いたいと思ってくださったのです。



 また、大いなる水の源と天の水門が閉ざされ、天からの大雨が、とどめられた。(8章2節)
 そして、水は、しだいに地から引いていった。水は150日の終わりに減り始め、(3節)
 箱舟は、第七の月の十七日に、アララテの山の上にとどまった。(4節)
 水は第十の月まで、ますます減り続け、第十の月の一日に、山々の頂が現れた。(5節)
 四十日の終わりになって、ノアは、自分の造った箱舟の窓を開き、(6節)
 カラスを放った。すると、それは、水が地からかわききるまで、出たり、戻ったりしていた。(7節)
 また、彼は水が地の面から引いたかどうか見るために、鳩を彼のもとから放った。(8節)
 鳩は、その足を休める場所が見当たらなかったので、箱舟の彼のもとに帰って来た。水が全地の面にあったからである。彼は手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の自分のところに入れた。(9節)
 それから、なお七日待って、再び鳩を箱舟から放った。(10節)
 鳩は夕方になって、彼のもとに帰って来た。すると、見よ。むしりとったばかりのオリーブの若葉がそのくちばしにあるではないか。それで、ノアは水が地から引いたのを知ったのである。(11節)
 

 創世記8章のこの場面は、たくさんの絵にも描かれています。とても、迫力のある場面で、ビジュアルであるだけではなくて、感動的です。
 鳩がオリーブのもぎ取ったばかりの若葉を口に戻ってくるところでは、誰しも、深い安堵感を覚えるのではないでしょうか。
 新しい大地と新しい世界。神が、地上をリセットしてくださったことが、はっきりした最初のシーンです。
 
 もちろん、地上のリセットは、神ご自身のためではなく、わたしたち人間のためでした。なぜなら、神は、万物の創造主、神さまにとって、もう一度、宇宙や地球、人間を初めから造りなおすなんてことは、簡単なことだからです。

 神さまは、わたしたちを愛しく思われ、憐れんで下さったのです。


 それからなお、七日待って、彼は鳩を放った。鳩はもうかれのところに戻って来なかった。(8章12節)

 わたしたちは、このノアの末裔なのだと、改めて思うのです。




☆☆☆ 佐々木正明先生のブログをリンクしました。☆☆☆
     文化のはざまで (エッセイ集/文化論)
     聖書を読むぞー (聖書通読のための手引きです。分厚い聖書をどのように読むか、
                  やさしく解説してくださっています。)
     クリスチャンとして日本で生きる
     ペンテコステ宣教学
                    


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2010年09月18日

Coffee Break26 洪水のあと(創世記8章)


    
      雨きれて プールの水に 秋の空


 今年はとりわけ猛暑でした。東京でも日中34度を超える日が続くと、もう秋はこないのかしらと、自然の法則を疑いそうになりました。ところが、ここ数日、夜半に雨が降り、あっという間に秋の気配です。
 冒頭の句は、三年ほど前の今ごろのものです。自慢できるような出来栄えではありませんが、三年前のある日、朝のうち激しく雨が降り、午後から雲が切れて晴れ渡った空が広がったときの、すがすがしさを思い出すのです。
 当時、ある小学校の施設で働いていたのですが、ふと、窓から外を見ると、眼下のプールに青空が映っていたのです。

 梅雨の晴れ間。
 台風一過の後の青空。
 まだ、遠くには少し残っている入道雲の中から、空を横切ってかかる虹。

 
 気持ちのいい情景ばかりです。
 雨上がりに、「虹が出てるよ」と言われて外に飛び出すのは、子どもだけでしょうか。


 ノアの物語のクライマックスは、です。

 天の水門が開かれ、大雨が四十日四十夜降り続き、水はその後も百五十日間地上にふえ続けたというのです。第二の月の十七日に降り始めた雨がやみ、それから洪水の水が引き始め、やっと山々の頂が現れたのは、第十の月の一日だったというのですから、想像を絶する大雨です。翌年の
第一の月の一日になって、水は地上からかわき始めた(8章13節)のです。翌月の第二の月の二十七日、地はかわききった。(8章14節)
 そこで、神はノアに告げて仰せられた。(15節)
「あなたは、あなたの妻と、あなたの息子たちと、息子たちの妻といっしょに箱舟から出なさい」(16節)



 なんと、ノアたちは、一年と十日のあいだ箱舟に入っていたのです。


 ノアは箱舟から出て最初に、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちからいくつかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。(20章)のです。


 箱舟から解放され、晴れた空とかわいた土の世界に出てきた喜びは、どれほどのものだったでしょう。


 主は、そのなだめのかおりをかがれ、主は心の中でこう仰せられた。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、はじめから悪であるからだ。わたしは決して、再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。(21章)
   地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、
   寒さと暑さ、夏と冬、
   昼と夜とは、やむことはない。」(22章)


 それから、神はノアたち人間に対して、さらにたくさんの約束をしてくださるのです。
 
 その約束のしるしとして、を立てられたのです。

 そのクライマックスの美しい光景については・・・明日。



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2010年09月19日

Coffee Break27 虹・ノア契約(創世記9章)



 それで、神はノアとその息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。
「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。(創世記9章1節)
 野の獣、空の鳥、──地の上を動くすべてのもの──それに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。(2節)
 生きて動いているものはみな、あなた方の食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。(3節)


 箱舟から出てくることができたノアは、神に、祭壇の上で全焼のいけにえをささげました。
 神はそのなだめのかおりを喜ばれ、心の中で、わたしは、決して再び人のゆえにこの地をのろうことはすまい。決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。と思われ、冒頭の言葉を仰せになったのです。


「あなたには希望がありますか」と訊ねられたら、私はもちろん「あります」と答えます。自慢でもなんでもありません。このブログを読んでくださっているあなたも、「あります」とお答えになるでしょう。
 将来の希望、良い仕事を持つ希望、好きな人との結婚の希望、子どもへの期待、車がほしいとかコンサートに行くとか、海外旅行とか留学とか、誰かと食事に行く、大小さまざまな希望があるでしょう。

 人間の歴史を見ると、けっこう悲惨に見えます。戦争、災害、飢餓、伝染病、国々の盛衰、抑圧。
 今この日本では、人々は平等で当たり前、人格を尊重されて当たり前、子どもが大切にされて当たり前、男女は平等で当たり前、貧富の差は埋められて当たり前。お腹いっぱい食べて当たり前。でも、このような当たり前は、わずか50年前までは、日本でも存在しなかったものです。

 このように泰平繁栄の世の中に生きて、最高の医術と最高の栄養と良好な生活環境で生き延びているように見えるわたしたちも、個人的にはきつい坂道を上るときもあるのです。頑張って、這いつくばって、耐え忍んで生きて、いつかは死ぬのです。それを、直視しないまでも、「知らない」人はいないのです。


 ひょっとして、わたしたちの心には、希望を持つ、楽観的になるDNAがあるのではないでしょうか。
 
 ノアの話は、神が一度、地上を滅ぼされたことをわたしたちに教えてくれます。
 
 ところが、選ばれて箱舟に避難させてもらったノアは、新しい地上に出てきたとき、神さまに祝福していただいています。
 神は、最初の人間アダムをお造りになったときと同様に、ノアとその家族、選ばれて生き残った動物たちに、おっしゃったのです。

「生めよ。ふえよ。地に満ちよ──」

 そして──。

「さあ、わたしはわたしの契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや、大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」(11節)
 さらに神は仰せられた。「わたしとあなたがた、およびあなた方といっしょにいるすべての生き物との間に、わたしが代々永遠にわたって結ぶ契約のしるしは、これである。(12節)
 わたしは雲の中に、わたしのを立てる。それは、わたしと地との間の契約のしるしとなる。(13節)


 が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべての肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。」(16節)

 わたしたちがを見たときに感じるなんともいえない喜び、明るい気持ちは、このとき、私たち人類を再生してくださった神さまの、この約束のことばが、わたしたちの魂に刷り込まれているからではないでしょうか。

 ノアの子孫であるわたしたち全員の心に、あの時、神さまはを刻印してくださったのではないでしょうか。
 わたしたちは、神様に愛されているという記憶を!




ここでは、新改訳聖書を使っています。
聖書については、このブログのリンク「佐々木先生のサイト」→「聖書を読むぞー19」→「聖書の読み方」→「Bどの聖書が良いか」をご覧下さい。さまざまな翻訳の聖書が紹介されています。




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2010年09月20日

Coffee Break28 救い(創世記8章21節詩篇23章)



 ノアの物語は、わたしの心に、二つの相反する感情を呼び起こします。
 神さまは、悪に満ちた地上をリセットしてくださって、人を滅ぼしつくさず、わたしたちを、初めての人アダムを作ったときのように祝福してくださったのです。
 その子孫であるわたしたちは、そのとき神さまが、「二度と滅ぼすまい」と、約束してくださった人間だから、神さまは、愛をもって私たちを再生してくださったのだから、わたしたちは、それを喜び、感謝し、大いに楽天的になって、明るい希望をもって生きていける・・・。

 同時に、釈然としない思いが残るのです。



 わたしは決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることははじめから悪であるからだ。わたしは決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすようなことはすまい。(創世記8章21節)


 神さまはわたしたちを「完全だ」「もう大丈夫」と思って、二度と滅ぼさないと憐れみをかけてくださったのではありません。「人の心の思い計ることははじめから悪である」と知りながら、約束してくださったのです。
 事実、ノアの息子もたちまち、罪を犯してしまうのです。
 ノアの話の次には、有名なバベルの塔建設の話が出てきます。
 天にも届く塔を立てて、自分たちの名を残そうと言い始める人間。
 そのため、主は人間の言葉を混乱させるという非常手段を取って、塔の建設を断念させられました。
 
 それから、どれくらいの歳月が経ったのか・・・。
 人は、あまりの地上の混乱と苦しみに、自家中毒を起こしたような状態に陥りました。悪に満ちた人間世界で、人自身が、「神さま、何とかしてください」と、祈らないではおれない状態になりました。




    主はわたしの羊飼い。
    わたしは、乏しいことがありません。
 
    主は私を緑の牧場に伏させ、
    いこいの水のほとりに伴われます。
 
    主は私のたましいを生き返らせ、
    御名のために、私を義の道に導かれます。
 
    たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
    私はわざわいを恐れません。
    あなたが私とともにおられますから。
    あなたのむちとあなたの杖、
    それが私の慰めです。

    私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、
    私の頭に油を注いでくださいます。
    私の杯は、あふれています。

    まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと
    恵みとが、私を追ってくるでしょう。
    私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
                  (旧約聖書・詩篇23章1〜6節)
 




 ほとんど、伝承の雲にさえぎられているようなノアの時代。そこからはるか下った紀元前1千年頃、出来上がったばかりのイスラエル王国の二代目の王ダビデは、このような祈りと賛美の詩を書いています。

 人間の世界は、神が知っておられるとおり悪と苦しみに満ちていました。
 そして、神ご自身がお選びになった王でさえ、苦難の中にいたのです。
 この詩は、以後、いまも、たくさんの人の祈りの言葉となり、たくさんの人の心の叫びとなっています。

 このような、人の真摯で切実な祈りを聞かれるとき、愛の神さまは思ってくださるのではないでしょうか。
 もう、「箱舟方式」では、人は救えない。つぎの「救いの時」には、すべての人を救いに入れよう。
 

 いま、現在、私たちに、ほんとうの希望があるとするなら、その「新しい救い」が訪れているからなのですが。



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2010年09月21日

Coffee Break29 ぶどう



 箱舟から出てきたノアの息子たちは、セム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。(創世記9章18節)
 この三人がノアの息子で、彼らから全世界の民は分かれ出た。(19節)

 

 箱舟から出たノアに与えられた契約はすばらしいものでした。
 この時点で、神さまはエデンの園の門を開けて、もう一度人間を園に戻してくださるようなことはありませんでした。しかし、毛ごろもを着せられただけのすがたで荒地に出てきたアダムと、箱舟から出てきたノアの状況は違っていました。
  
 神さまに造られた最初の人間アダムが、ある意味ナイーブな子どもの心をもったままであったのに比べ、ノアは、たしかに救っていただいたと言う自覚があったのでしょう。ノアは、すでに神を畏れ敬うことを知っていました。祭壇を築いていけにえの動物をささげたのです。
 そのようなノアを、神さまは祝福されました。

 
 それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。
「生めよふえよ。地に満ちよ。」(9章1節)

 生きて動いているものはみな、あなた方の食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。(3節)



 これはなんというお恵みでしょう。神はアダムにも、「園のどの木から取って食べても良い」(創世記2章16節)と言われましたが、ここで、肉食が許可されたのです。
 もちろん、「肉は、そのいのちである血のままで食べてはならない」(4節)という戒めがついていましたが。

 さて、ノアは、ぶどう畑を作り始めた農夫であった。(9章20節)


 ノアには、すでに、農業の経験もあったのでしょう。その経験とぶどうの栽培が結びついたのです。

 ぶどうは祝福された農産物です。聖書の中には、「ぶどう」が何度出てくるか数え切れないほどですが、ぶどう、ぶどう酒、ぶどうの木、ぶどう園、干しぶどうなどの言葉をひっくるめて、ぶどうが聖書に出てくる植物のトップです。


 このサイトに発表している私の小説、「聖書物語・つむじ風の谷」でも、ダビデに贈り物を届けるナバルの妻アビガイルが選んだ食料の中に、干しぶどう百ふさ、ぶどう酒を入れた皮袋2袋が出てきます。(Tサムエル記・25章18節より取材)

 イエスさまがカナの婚礼で、水をぶどう酒に変えられた奇蹟。(ヨハネ2章1〜12節)
 また、ぶどう園に雇われる労働者のたとえ話。(マタイ20章13〜16節)
 ぶどう酒と皮袋の関係。(マルコ2章22節)(ルカ5章37〜39節)
 神さまがぶどうの木で、人はぶどうの枝だと言うたとえ。(ヨハネ15章1〜27節)

 まだまだありますが、

 なにより、大切なのは、「最後の晩餐」で、イエスご自身がパンをそのお体。ぶどう酒をイエスの血と宣言なさって、弟子たちに分け与えたことです。(マタイ26章26〜29節、ルカ22章31〜34節、54〜62節)


 この晩餐が、今日も教会で、聖餐式としてパンとぶどう液をいただく理由です。もちろん、ほとんどの教会はぶどう酒ではなく、ぶどう液です。
 

 ぶどうの栽培を始めたノアは、ぶどう酒も作り始めました。この箇所には書かれていませんが、たぶん、干しぶどうも、ぶどう菓子も作ったことでしょう。

 肉とぶどう酒、この現代の、レストランでも最高とされている組み合わせが生まれたのです。

 なんというぜいたく、なんという悦びの晩餐だったでしょう。それがほとんど、人間の歴史とともに始まっていたのです。

 けれども、ぜいたくや悦びに、すぐ気が緩むのが人間です。ノアほどの正しい人でもぶどう酒で失敗をするのです。




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2010年09月22日

Coffee Break30 ゴシップ好き



 ノアがぶどうの栽培を始めて以来、何千年が経ったのでしょう。

 ちなみに、ノアが箱舟に入った年は、「ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日」となっています。
 
 いずれにしても、昨日ご紹介したように、聖書とぶどうはとても関係が深いのです。


 ある日、ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。(21節)
 カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいる二人の兄弟に告げた。(22節)
 それでセムとヤペテは着物を取って、自分たち二人の肩に掛け、うしろ向きに歩いていって、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。(23節)
 ノアが酔いから醒め、末の息子が自分にしたことを知って、(24節)
 言った。
「のろわれよ。カナン。
 兄弟たちのしもべとなれ。」(25節)

 
 外では、役職や地位があるりっぱなお父さんでも、家ではくつろいでソファでうたた寝したり、テレビを見ながらこっくりこっくり居眠りを始めることもあるでしょう。髪が乱れ、眼鏡がずれ、衣服は乱れて、外では見せない姿を見せてしまう。つい飲みすぎて帰宅して、玄関を上がるなり倒れて、奥さんの手に合わないので、ネクタイだけ外してあげて毛布を掛けてあげたなんて話も、ときどき聞きます。
 どんなりっぱな人でも、いつもいつも自分を繕っていることなど、たしかに不可能です。

 この時、ノアはわざわざ「裸になっていた」と聖書に記されるくらいですから、見苦しい格好だった? 全裸だったのかもしれません。
 たまたま父親の天幕に入っていったハムは、酔って裸で寝ている父の姿を見てしまいました。
 

 父親としてあまりにだらしのない格好なので、つい、ハムはそれをほかの兄弟に知らせに行ったのです。それが、父親を怒らせたばかりでなく、息子をのろうほど怒らせたのです。神さまもノアの怒りをお認めになったのでしょう。ですから、ハムの子どもカナンは「兄弟のしもべとなれ」と言われ、そうなったのです。


 聖書を最初の一行から、ここまで読んできた私たちは、人間が、その創造の最初から、ほんとうに「どうしようもない」性質をもっていたのだと気づかされます。


 まず、神さまの命令に背きました。
 悪魔の誘惑に負けました。
 神さまと対等になろうとしました。
 咎められると、ほかのもののせいにして謝りませんでした。(アダムとエバ)

 神さまに対して膨れ面をしました。
 罪のない弟に嫉妬して殺しました。
 ここでも、すぐに罪を認めないで、しらばっくれました。(カイン)



 ノアの息子ハムは父親のはだかを見て、兄弟たちに告げ口しました。
 これは、「親を敬いなさい」という律法(当時は、まだ、十戒や律法は与えられていませんでしたが)に反することです。その上、人の醜態をほかのものに告げ口して笑いものにしたのです。

 ノアの着物を、自分たちの背中に掛けて後ろ向きに近づいて、父親の裸を覆ったセムとヤペテに、私たちは教えられます。人のミスや罪を知ったら、覆ってあげなければいけない・・・。

 自分はそのようにできているだろうかと思うとき、私も、うなだれてしまいますが。




 
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