2010年10月03日

Coffee Break41 契約 




 神様は四度目、アブラムを祝福されたとき、さすがのアブラムも神さまに質問をしました。すると、神様はカナンの土地を下さる。子孫を空の星のように増やしてその地を与えてくださると、約束してくださいます。
 それを信じたアブラムは、それを彼の義と認められた。のです。
 加えて、
主は仰せられた。
「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたと連れ出した主である。」


 アブラムは、また、主にお尋ねするのです。

「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」


 神様は、三歳の雌牛、三歳の雌ヤギ、三歳の雄羊を、犠牲として捧げるように言われました。

 このあとの場面は、ちょっと怪奇な雰囲気です。
 アブラムは主の命じられたとおり、三頭の動物と山鳩の親子を捧げます。大きな動物を縦に真っ二つに切って向かい合わせに置きました。
 血の臭いを嗅ぎつけて、猛禽が舞い降りてきます。もちろん、当時のことですから、一羽や二羽ではないでしょう。それを追い払うアブラム。太陽は西に落ちて、地は刻一刻と闇が降ってくるのです。
 
 神様への犠牲(のささげ物)を、猛禽に取られまいとするアブラムは、突然睡魔に捉えられ、同時に、「暗黒の恐怖が彼をおそった。」のです。

 この場面、ここまで主を信じてきたアブラムが、しつこく聞きただすことに、主はお怒りになったのかもしれない、とわたしは思います。これまで、主は祭壇を築いたアブラムを喜ばれましたが、ご自分から犠牲を捧げるよう要求されたことはないのですから。


 ここで初めて、神は彼の子孫が増えるということが、具体的にどういうことか明かされるのです。
 それは、アブラムの子孫が四百年にわたって異国で寄留者となり、奴隷となって苦しむ。しかし、神が、そこから多くの財産とともに連れ出してくださる。出エジプトの予告でした。(もちろん、アブラムには「出エジプト」の名前はわかっていません。)
 アブラム自身は、長寿をまっとうして平安の内に死に、先祖のもとに帰っていく。
 


 神が告げておられる間に、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。(創世記15章17節) 


 神の現れのクライマックスです。

 神はアブラムと契約を結んで、仰せられるのです。


「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。
 ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、ヘテ人、ペリジ人、レファム人、エモリ人、カナン人、ギルガシ人、エプス人を。」(18節〜21節)
 


 神様から、これほど具体的に、自分と自分の子孫の将来像を告げられたアブラムの心境に大きな変化が起こったのは、事実でしょう。
 アブラムは、それでも、自分の一番聞きたかったことに、答えていただけませんでした。深い眠りと恐怖の中では、神様の声を恐れを持って聞くばかりだったのです。
 アブラムの一番の疑問、「私には子がありません。」という反問に、神様はまだ、お答えにならなかったのです。


 アブラムは、自分の体験を妻サライに話したことでしょう。
 サライは夫の苦悩を理解しました。子どもが生めない自分を責めたでしょうか。当時の習慣では、妻に子どもが生めない場合、妻は自分の召使を側女として夫に差しだしたようです。妻に子どもがあってさえ、男が妾を持つ一夫多妻の社会でした。

 サライは、自分の召使の女ハガルを夫に差し出しました。ハガルは男の子イシュマエルを産みました。
 
 これが、アブラハム(アブラム)の大きな過ちだったと言う解釈を、本で読んだことがあります。イシュマエルの子孫がアラブ人で、アラブ人は現在イスラム教徒でクリスチャンと対立しているからと言うのが、その理由です。

 しかし、わたしはそうとばかり言えないと思います。
 聖書の神は、全知全能の神様です。アブラムやサライが、どのように振舞うか、すべては織り込み済みだったのではないでしょうか。
 
 神様はハガルから生まれたイシュマエルも祝福されたと、聖書に書かれています。

 イシュマエルは父アブラハムの埋葬にも立ち会いましたし(創世記25章9節)、アブラハムの息子イサク(サラから生まれた息子)の長男エサウは、イシュマイルの娘と結婚しています。(創世記28章9節) 血縁の親戚としての付き合いもあったのです。



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2010年10月04日

Coffee Break42 サライとハガル




 ノンクリスチャンの友人が、「サムソンとデリラってどんな話なの」と訊きます。
 久しぶりに会っておしゃべりをしていたときです。先方はクリスチャンの私に、たまには聖書についての質問もしないと悪いと思ってくれたのかもしれません。それで、どこか記憶に残っていた聖書の話を持ち出したのでしょう。

「サムソンはね。神様から与えられた怪力の持ち主で、その力で、弱いイスラエルの人たちのために敵をやっつけて働くんだけれど・・・」と、わたしは茶飲み話っぽく語ります。
「彼は女性に弱かったのね。女の人を好きになると、ぞっこんになるの。敵をやっつけに行ったのに、女の人に騙されて逆にとらえられてしまうの」
「なあんだ」
 友人は言いました。
「聖書にも、そんな女たらしみたいな人が、出てくるの」
「そうよ。聖書だからって、聖人列伝ではないのよ」

 
 この友人は、自ら「好奇心が強い」「物知り」を自認している人です。キリスト教にも理解のあるほうです。ときには、どこかの教会の催しに出かけたり、私の所属している教会へ来てくれたこともあります。それでも、聖書は、ぜんぜん知らないようです。
 そうだとしても、笑えないでしょう。わたしも、まったくキリスト教を知らないときは、同じだったのです。

 聖書と言うと、聖人君子のような人(もしかして、イエス・キリストのイメージ)がでてきて、論語のように倫理の規範が延々と述べているか、荒唐無稽な昔話の羅列か、神様と悪魔がどこか遠い宇宙で闘っているか、神秘的な意味不明のご託宣が書いてあるか。と思っている人が多いのです。


 「女性に弱い」英雄が出てきて、しかも、その人が、その弱さにも関わらす、神さまに用いられているという矛盾を抱えた物語だと聞いて、びっくりしてしまうのです。
 ダビデが人妻と不倫をして、その女性の夫を殺してしまうとか、ダビデの宮廷の中で兄の王子が妹の王女を犯したとか、ロトの二人の娘が父に酒を飲ませて眠らせておいて、交わるとか。
 正視しがたい事件が次々起こる、それを、いったいどのように観たものか、どのように解釈したものかと惑っている人たちが、現に教会の中にも、聖書の学びのときにもいます。

 まして、聖書は、聖なる書物だから、聖いことしか書いていない、だから、わたしはとても近寄れないし、近寄る気がしないと言うノンクリスチャンの人が、突如聖書を読むと驚くのです。



 アブラハムの物語でも、アブラハムを聖人などと思っていると、たちまちつまづいてしまいます。アブラムは、神様が何度も、「あなたを祝福する」と言ってくださった選びの民の始祖となった人です。ところが、とても、弱いところがあります。旅の途中で、自分の命惜しさに妻を妹と偽る事件が二回ありました。
 妻が女奴隷ハガルを勧めてくれたら受け容れるのは、仕方がないのですが、妊娠したハガルと妻の関係が悪くなり、サライから責められると「彼女はお前の奴隷だ。お前の好きなようにしなさい」と、ハガルのことはまったくかばってあげません。もめごとから逃げています。

 この、弱い人、ある意味卑怯ともいえるアブラハム。彼が、それでも、救いの器として選ばれたのは、神様に対する確かな信仰でした。

 ハガルを夫に勧めたのは、もともとサライです。嫌ったのもサライです。ちょっと、サライもひどい女性だと思えなくもありません。
 しかし、この物語は人間の醜さだけを語るものではないようです。

 追放されることで、アブラハムの神への信仰が、エジプト女のハガルにも及んでいくのです。

 明日は、砂漠を放浪するハガルに、神様が現れてくださる場面を、見たいと思います。



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2010年10月05日

Coffee Break43 ハガル


        

 ハガルをアブラハムに勧めたのは、妻のサライ(サラ)でした。ハガルは、エジプト出身の女奴隷でサライに仕えていました。たぶん、エジプトのパロから贈られた男女の奴隷(創世記12章16節)の一人だったのでしょう。

 サラがアブラハムにハガルを勧めた理由は、夫が子どもを欲しがっているのが、痛いほどわかったからでしょう。神様が何度もアブラムに、「あなたの子孫を地のちりのように、空の星のように増やし、祝福しよう。あなたの子孫にこの地を与える」と約束されたのです。ところが、二人の間に子供が与えられる様子はありませんでした。アブラムもサラもだんだん年をとっていきました。サラが子どものできない体であるのは、確実であるように思われました。

 そんな時、当時は、妻は自分の女奴隷を夫に与えて、子どもを生ませたのです。サラはそのような社会のモラルに従ったのでしょう。
 けれども、建前と本音の感情は別です。夫がほかの女を迎えて、その女に子供ができて喜ぶ妻はいないでしょう。
 また、ハガルにしても、アブラハム・サラ夫婦は主人でしたが、ひとたび、アブラムに迎えられ子どもができると、それまでの気持ちが変わるでしょう。主人の子どもを生むのです。奥さんと対等な気分になってきます。奥さんに出来なかった子どもをあたしが生むと思ったときに、しぜん、傲慢になったのでしょう。
 
 二人の女は、たちまち対立状態になります。



 そこでサライはアブラムに言った。「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。主が私とあなたの間をお裁きになりますように。」(創世記16章5節)
 アブラムはサライに言った。「ご覧。あなたの女奴隷はあなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい。」 それで、サライが彼女をいじめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。(16章6節)


 女として、サライの身になってみると、サライの嫉妬はわかる気がします。けれども、ハガルの身になってみると、主人の望みどおりみごもって、どうしていじめられなければならないのと、たまらない気持ちになったことでしょう。衝動的に、夫婦から離れて、荒野へ飛び出したのかもしれません。とはいえ、荒野は着の身着のままの女が、ひとりで旅をするには危険な場所です。行き倒れても、猛獣や盗賊に殺されてもふしぎではありません。
 
 アブラムがハガルの家出を、いつ知ったかわかりません。この危なっかしいハガルの逃避行を、すぐに気にかけて下さったのは、神様でした。



 主の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、
「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか」と尋ねた。彼女は答えた。「私の女主人サライのところから逃げているところです。」(8節)
 そこで、主の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」(9節)
 また、主の使いは言った。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数え切れないほどになる。」(10節)



 それから、主の使いは、ハガルが男の子を産むこと、その子をイシュマエルと名づけるること、イシュマエルは野生のロバのようなたくましい人になること、などを告げます。
 
 主の使いの顕現は、ハガルにはどれほどの衝撃だったでしょう。ハガルがもともと住んでいたエジプトの神ではないのです。
 

 彼女は、自分に語りかけられた主の名を、「あなたはエル・ロイ」と呼んだ。それは、「ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは」と彼女が言ったからである。(13節) 

 エジプトの神は太陽だったり、蛙だったり、牛だったりと、名前も形もある偶像です。主の使いとの出会いは、彼女にとって驚くべきことだったでしょう。
 ハガルは主の使いが去っていかれるその後姿を見ました。
そして、「これほどはっきり、神様が自分を気にかけて現れてくださった。それなら、こんなところにいてはいけない!」と、気がついたのです。

 アブラハムに現れて祝福してくださった神、天地万物を創造されたアブラハムの神は、こうして、異教徒であるハガルにも憐れみをかけてくださり、祝福を下さったのです。

 ハガルはアブラハムのところに戻って男の子を産み、神の使いがお示しになったように、その子をイシュマエルと名づけました。






      Coffee Breakも43回になりました。
      いつも読んでくださって、ありがとうございます。
      数が増えたので、ふりかえって読み直すためにも
      小見出しがあったほうがよいとの、
      ご提案がありましたので、
      ナンバーとともに、小見出しをつけました。
      これからも、よろしくお願いします。

      なお、ここで使っているのは、新改訳聖書です。
      ほかにも、新共同訳、リビングバイブル、現代語訳
      口語訳聖書などがあります。





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2010年10月06日

Coffee Break44 「サラ・ハガル」関係


 
 神はアダムに対し、一人の女性しかお与えになりませんでした。アダムもそれを喜んだのです。神がエバをアダムに引き合わせたときの、アダムのよろこびの声──これこそ、私の骨の骨、肉の肉。(創世記2章23節)を思い出してください。


 ずいぶん前ですが、ある生物学者が新聞に書いておられたことに、なるほどと思ったものです。その方は、聖書を引用していたのではありませんが、男女の始りを、「もともと一つの生命体であったものが、大昔に離れ離れになったので、その相手を求めて男女は引き合うのだ」と書いていたのです。むしろ、「科学的」な、その説明に、当時、クリスチャンでなかったわたしは、妙に得心したのです。そうか。男と女はもともと一つだったのだ。
 この説明は、人間以外の雌雄の存在にも適用されていたので、聖書とは意図が違うかもしれません。人間の男女が交わるのは、生殖だけが目的ではないからです。


 私たち人間は、同時に、この本来あるべき男女の姿を、逸脱して来たのだということも知らなければなりません。
 
 聖書物語を読んだ方の反応のひとつに、「性」の問題がありました。
 たとえば、「清く正しく、信仰深い」ユダヤ娘エステルが、後宮の複数の妃の一人であったと言う設定に、抵抗を感じる方がいました。
 アビガイルにプロポーズするとき、ダビデにはすでに二人の妻がいたと、わざわざ書いてあるのも、気に障る・・?
 ルツの姑ナオミが、嫁にレビラート婚を勧めることは、「麗しい」嫁思いの行為であるという意見もあります。でも、男性が一人で寝ているところに忍び入っていく場面を「麗しい」と、今の私たちは思えるでしょうか。
 私たちが認めるのは、当時はそのような行動を取っても、亡き夫の家を継ぐ息子を設けようとすることが美談だったということです。それが社会的習慣で、それに従うのはよいことだった。
 神様は、そのような間違った習慣のなかにいる不完全な人間をも用いて、人類を救おうとされたということではないでしょうか。



 神様の創造の意図に従って、一夫一婦制を守ってきた時代や国は、たぶん世界中捜しても、どの時代を切り取っても、ないでしょう。
 個人的には、一人の妻、一人の夫を生涯守った人はたくさんいると思いますが、社会全体としてみれば逸脱していました。


 アブラハムの時代、妻に子どもが生まれなければ、妻は自分の召使を夫に差し出すのは当たり前の風習だったようです。妻に子どもがいてさえ、妾や側女を持つ人はたくさんいたのです。
 ダビデもソロモンもたくさんの奥さんと側女がいました。小説にも書きましたが、これは、王さまが好色だからだとばかり言えないのです。政治的な駆け引きから、互いの娘や姉妹を相手の王様に贈るのは、当たり前だったのです。日本でも、戦国大名などそのようにして、複数の妻、多数の子どもを持ちました。江戸時代の大名などは、跡継ぎがいないと、将軍家から家を取り潰されたのですから、あと継ぎを生むのは、至上命令でした。

 政治的な必要以外に、好色な男性のために、生活力のない女が身を売る売春も歴史とともに始まったのでしょう。もちろん、みずから、身を売るような淫らな女性もいたかもしれません。
 

 問題は、このような「男女関係」がもたらしたものです。もともと、一夫一婦であるように造られているのですから、二人、三人の妻の間に、葛藤や相克があるのは当たり前です。それに、子どもの問題が絡みます。どの妻の子供も対等な権利というのでは秩序が乱れます。歴史的には、多くの場合、母親の血統、正式な結婚ほどその子供の地位が高かったのです。けれども、生まれてくる子どもにしたら、そんなことは「不公平」です。


 たとえば、日本では、戦前の法律では、嫡出子、庶子、私生児と、戸籍にも区別がありました。嫡出子とは、正式な結婚関係で生まれた子ども、庶子は妾の子ども、私生児は父親の認知のない子どもです。
 これは、戸籍に記され、その差別は、単に家庭内に留まらず、就職、進学、結婚など、人生の重大な岐路で影響したのです。どんなに父親が名門の出でも、本人が優秀でも、庶子や私生児の人生は差別された厳しいものでした。

 
 「サラ・ハガル」関係は、主人である男が、正妻の子どもを跡継ぎと決めることで、社会的に容認され、成立していたとも言えます。


 聖書では、むしろ、ハガルのほうが被害者なのですが、それでも、私たちの中に、ハガルを排斥する気分があるのは、結局、正妻サラ、その子どもイサクに肩入れする思想があるのかもしれません。
 アブラハムの信仰が試される最高の山場、神のご命令に一言も逆らわず、アブラハムが、モリヤの山で、イサクを全焼のいけにえとして神に捧げようとする場面(創世記22章1節〜14節)は、とても感動的でもあります。

 しかし、神様が、ハガルとイシュマエルの二度目の危機的な場面で(創世記21章9節〜19節)、また、ハガルに現れてくださったのは、何を意味するのでしょう。

 ハガルに対する神様のお取り扱いは、とても、意味深い箇所です。


 神様の心は、人の思いよりはるかに高く広いと知らされます。


 
 
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2010年10月07日

Coffee Break45 サラの出産(創世記21章1節〜3節)



 
 聖書を読んでいると、どうしても「ついていけない」と思わされる箇所に出会います。
 クリスチャン用語では、「つまづく」のです。たとえば、創世記に出てくる人たちの並外れた寿命の長さとか(すでにご存知だと思います)。私たちの常識では、承服しがたいことを述べている箇所とか。

 さて、創世記16章で、ハガルはアブラムの子を産みました。これが、神の目からご覧になると、間違ったことであっても、人間の常識に従って起こったことでした。イシュマエルが生まれたとき、 アブラムが八十六歳の高齢であったとしても、認められなくはありません。



 ところが、それから十三年後、アブラム九十九歳のとき、主はアブラムに現れて告げられたのです。



 「わたしは全能の神である。
 あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
 わたしは、わたしの契約を、
 わたしとあなたとの間に立てる。
 わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」(創世記17章1節〜2節)

 「わたしは、この、わたしの契約を
 あなたと結ぶ。
 あなたは多くの国民の父となる。
 あなたの名は、
 もう、アブラムと読んではならない。
 あなたの名はアブラハムとなる。
 わたしがあなたを多くの国民の父とするからである。」(4節〜5節)


 この時から、アブラムは、アブラハムと呼ばれるようになるのです。

 さらに、主(神)はこのあと、アブラハムとアブラハムの子孫との間に、永遠の契約を立てること。また、カナンの全土を、アブラハムとアブラハムの子孫に永遠の所有地として与えること。だから、アブラハムとアブラハムの子孫は、代々、神との契約を守らなければならないこと。
 そのしるしとして、アブラハムとその子孫、一族の男たちは、しもべに至るまで、割礼を受けなければならないと、仰せられた。(7節〜14節)

 主は、サライの名前も変えてくださるのです。


 また、主はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。(15節)
 わたしは彼女を祝福しよう。たしかに彼女によって、あなたに一人の男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出てくる。」(16節)
 アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」
そして、申し上げた。「どうか、イシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」(17節)


 アブラハムが、心の中で神のお言葉に反論したのは、信仰的には良くないことだったでしょうが、人間の常識としては当たり前のことです。

 そして、何より、驚くのは、じっさい、サラは九十歳で男の子を産むのです。
 (神に不可能はないと思っていて全知全能の神の存在をお認めして読み進めている私の、この「不信仰」を神様にお詫びしつつ書いているのですが)、イシュマエルが生まれて、14年目に、アブラハムにもう一人の息子イサクが、正妻サラとの間に生まれるのです。

 待ちに待った子どもでした。

 アブラハムとサラも驚いたでしょうが、だれよりも驚いたのは、ハガルだったかもしれません。
 神の奇跡は、ハガルの運命を変えてしまったのです。



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2010年10月08日

Coffee Break46 井戸を見つけたハガル



 16章でハガルがイシュマエルを生んだとき、アブラムは八十六歳でした。次の17章で、アブラムが九十九歳のとき、主はアブラムに、「サラが男の子を産む」と仰せになって、翌年、イサクがうまれるのです。この十三年間のアブラハム、サラ、ハガルについては、聖書に記録がありません。
 サラにいじめられて、一時的に家出をしたハガルですが、アブラムのもとに帰り、子どもを産みました。その後は、サライとの確執があったとしても、アブラムの一人息子の母親として、アブラハムの家で確固とした地位があったのではないでしょうか。

 サラもある程度、その立場を認めなければいけなかったでしょう。



 ある日の午後、主の使いがマムレの木のそばのアブラハムの天幕を訪れて、
「サラには来年男の子ができている。」と予言したのです。
 うしろの天幕の中で、それを聞いたサラは、笑ったのです。


「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」(18章10節)

 主が、サラの心を見られて、「なぜ、笑うのか。」と咎められたとき、サラは怖しくなって、「私は笑いませんでした。」と打ち消しました。サラ自身が、子どもをもつ可能性など、まったく信じていなかったという描写です。

 ところが、21章でサラは、主の約束どおり、みごもり男の子を産んだのです。イサクの誕生です。
 サラがどんなに誇らしく、喜んだかは、21章の6節7節に書かれています。
 
 自分に子供がいれば、正妻サラにとって、ハガルとイシュマエルは目障りな存在です。なぜ、奴隷女とその息子に我慢しなければならない! そんな気になったのでしょう。

 イサクが乳離れの日の祝宴で、イシュマエルが弟をからかっているのを見たサラは、夫に言ったのです。


「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。」(10節)

 サラがイシュマエルとハガルを14年間、いやいやながら受け容れていたのがわかります。我慢できない存在だけれど、自分が子どもを生めないのだから仕方がない! そんなところでしょうか。

 イサクを産み、無事乳離れするまでわが子が育ったのを見たとき、そのような我慢に限界がきたのでしょう。
 イシュマエルがどのようなからかいをしたのかは、書かれていませんが、アブラムは、自分の子のことなので、非常に悩んだ。ところを見ると、何が何でも追放しなければいけないほどの、悪質なものではなかったでしょう。

 ハガルとイシュマエルは、翌朝早く、追い出されるのです。アブラハムが彼らに持たせたのは、パンと水の皮袋だけでした。
 ハガルと子どもは、ペエル・シェバの荒野をさまよい歩くことになります。やがて、パンも水も尽きました。二人は、荒野で、餓死するしかないところまで追い詰められていました。


 皮袋の水が尽きたとき、彼女はその子を一本の潅木の下に投げ出し、(15節)
 自分は、矢の届くほど離れた向こうに行ってすわった。それは、彼女が「私は自分の子どもの死ぬのを見たくない」と思ったからである。それで、離れてすわったのである。そうして、彼女は声を上げて泣いた。(16節)


 子どもイシュマエルも泣いていたのでしょう。

 神は少年の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで言った。「ハガルよ。どうしたのか。恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。(17節)
 行って、あの少年を起こし、彼を力づけなさい。わたしはあの子を大いなる国民とするからだ。」(18節)

 神が、ハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで行って皮袋に水を満たし、少年に飲ませた。(19節)


 とても意味深く、感動的な場面です。ハガルの目が開けたとは、じっさいの視力のことではなくて、心の目でしょう。神が母子を気にかけてくださったのを知った時、ハガルの心の目が開かれたのです。神は、かつて、ハガルが荒野をさまよったときにも現れてくださいました。神に信頼してまわりを見回したとき、ハガルは井戸を見つけることができた・・・。(目が開かれると言うことについて、聖書には他にもとても興味深いお話が載っています。列王記U6章8〜18もお読みください)

 この場面は、そのまま、現代の私たちの生き方にも、適用できそうです。


 荒れ野でパンも水も尽きて、もうだめだと力尽きてしまう。その時、神が声を掛けてくださる。目を開いてくださる。
 神の愛は大きく、あなたがクリスチャンでなくても、この愛は体験できるのです。聖書の主役・天地創造の神様は、もちろん、後にイエス・キリストとして、地上に降誕してくださるのですが、その二千年も前に(今から四千年も前にも)、ハガルやイシュマエル、アブラハムやサラに現れてくださったのです。

 図書館の棚に並んでいる自己啓発の本を、たくさん読むより、聖書のこの箇所は、私たちを力づけてくれないでしょうか


 それにしても、そもそも、どうして、神はハガル母子にこんな困難をお与えになったのかと、疑問に思われるでしょうか。
 サライがアブラハムにハガルを勧める前に、サラに子どもが与えられていたら、こんな問題は起きなかったではないか。

 それについては、明日、考えてみたいと思います。




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2010年10月10日

Coffee Break48 アブラハムからイサクへ




 サラの一生は百二十七年でした。
 アブラハムはヘテ人から、マムレに面するマクベラある畑地とそのほら穴を買い、サラをその中に葬りました。

 主が、アブラハムをあらゆる面で祝福しておられたので、アブラハムの財産はますます増え、平安で豊かな老後を迎えていました。気がかりは息子イサクの結婚問題だけでした。
 当時の社会習慣から、アブラハムは息子を同じ氏族の娘と結婚させたいと思っていました。つまり、アブラハムの父テラにつながる一族です。

 アブラハムがベエル・シェバに住み着いた頃、アブラハムは親戚の消息を伝え聞きました。
「ミルカもまた、あなたの兄弟ナホルに子どもを産みました。」(22章20節)
 ミルカとはアブラハムのすぐ下の弟、ナホルの妻です。アブラハムは、もともと父テラ、ふたりの弟ナホルとハラン、その一族といっしょに、メソポタミアのカルデアのウルで暮らしていました。そのとき、すでに、下の弟ハランは死んだのですが、息子ロトと娘ミルカを残しました。

 その後、テラの一家は、カルデアのウルから出て、ハラン(アブラムの兄弟ハランと同じ名前)の地に出てきたのです。

 アブラムの父テラが死んだとき、主がアブラムに現れてつぎのように仰せられたのは、すでにご存知のとおりです。。



「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」(創世記12章1節)

 アブラハムの召命の箇所ですが(Coffee Break34をご覧下さい)、そこでアブラムは、ロト、妻のサライを連れ、同族の者たちと別れてカナンに向けて旅立ったのです。

 系図を見るとアブラハムの弟ナホルとミルカは伯父、姪の関係です。当時はそのような結婚も許されていたのでしょう。日本でも古代には例がないわけではありません。そのナホルとミルカの間にできた八人の息子の一人ベトエルにリベカという娘が生まれたと、伝わってきたわけです。
 ペエル・シェバは、地図で見ると、死海の南端の西側、地中海との中間くらいの位置になります。一方、当時、アブラハムの弟ナホルの一族の住んでいるハランはユーフラテス川の上流、北西メソポタミアの町ですから、アブラハムのいるペエル・シェバからは八百キロほども北に旅する距離でした。それでも、アブラハムは、イサクのために同族の娘をめとりたいと思いました。



 そのころ、アブラハムは、自分の全財産を管理している家の最年長のしもべに、こう言った。「あなたの手をわたしの腿の下に入れてくれ。(24章2節)
 私はあなたに、天の神地の神である主にかけて誓わせる。私がいっしょに住んでいるカナン人の娘の中から、私の息子の妻をめとってはならない。(3節)
 あなたは私の生まれ故郷に行き、私の息子イサクのために妻を迎えなさい。」(4節)
 
 しもべは彼に言った。「もしかして、その女の人が、私についてこの国へ来ようとしない場合、お子をあなたの出身地に連れ戻さなければなりませんか。」
 
 アブラハムは彼に言った。「私の息子をあそこに連れ帰らないように、気を付けなさい。(6節)
 私を、私の父の家、私の生まれ故郷から連れ出し、私に誓って、『あなたの子孫にこの地を与える』と約束して仰せられた天の神、主はみ使いをあなたの前に遣わされる。あなたは、あそこで私の息子のために妻を迎えなさい。(7節)
 もし、その女があなたについてこようとしないなら、あなたは、この私との誓いから解かれる。ただし、私の息子をあそこへ連れ帰ってはならない。」(8節)


 郵便や電話といった(もちろんEメールなんて!)通信手段がない時代のことですから、ずいぶん、不確かな嫁探しだと、今の私たちには思えます。アブラムハムとしもべとの誓いでは、目的の娘がリベカであると明確には述べられていないのですが、アブラハムの念頭では、甥ベトエル(イサクのいとこ)の娘に当たるリベカは、イサクの嫁の一番候補だったのでしょう。

 しもべは十頭のらくだと、主人のあらゆる貴重な品々をもって出かけました。花嫁になる娘に贈る品々です。とうぜん、何十人ものキャラバンだったでしょうが、神が先導してくださるとの信仰による旅でした。
 主がイサクに、同族の娘を与えてくださるおつもりなら、少々の困難があってもそれは実現する!

 ここでも、アブラハムとしもべたちは、彼らの神、主を信頼したのです。



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2010年10月11日

Coffee Break49 イサクの結婚




 アブラハムは、風の便りに「故郷ハランに弟の孫娘がいて、適齢期らしい」と聞きました。その主人の命を受けて、アブラハムの家の最年長のしもべは、はるばる八百キロの道のりをらくだの編隊を組んで旅に出ることになりました。今なら、新幹線で四時間の道中も、当時は、道も悪く、危険極まりないものだったでしょう。まして、宝物を載せているのですから、同行する者たちは腕っぷしの強い、しかも信頼できる人間でなければなりません。

 いったいどれくらいの時間がかかったのかしら、夜はどこで泊まったのかしらと想像する二十一世紀の読者である私など、ちょっとロマンチックな、うらやましいような旅行を思い浮かべるのです。月の砂漠をはるばると〜♪、子供のころ好きだった歌を思い出します。 


 聖書の物語の要点は、旅の困難やスリルを書くことではないので、創世記24章10節で、出立したしもべとその一行の話は、すぐ、11節で、目的地ナホルの町に到着しています。ナホルの名前が町の名前であることからして、ナホルは有力な族長だったのでしょう。
 夕暮れ時でした。
 日中、炎暑の砂漠地帯では、女たちは朝と夕方の涼しい時間に水を汲みにやってくるのです。

 しもべは町の外の井戸のそばに、らくだを伏させ、もちろん同行してきた者たちを休息させ、神に祈り始めます。


「私の主人アブラハムの神、主よ。きょう、私のためにどうか取り計らってください。私の主人アブラハムに恵みを施してください。(24章12節)
 ご覧下さい。私は泉のほとりに立っています。この町の人々の娘たちが、水を汲みに出てまいりましょう。(13節)
 私が娘に『どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください』と言い、その娘が『お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう』と言ったなら、その娘こそ、あなたがしもべイサクのために定めておられたのです。このことで私は、あなたが私の主人に恵みを施されたことを知ることができますように。」(14節)
 
 こうして彼がまだ言い終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せて出てきた。(15節)

 この娘は非常に美しく、処女で、男に触れたことがなかった。彼女は泉に降りて行き、水がめに水を満たし、そして上がって来た。(16節)

 しもべは彼女に会いに走って行き、そして言った。
「どうか、あなたの水がめから、少し水を飲ませてください。」(17節)
 すると彼女は、「どうぞ、お飲みください。だんな様」と言って、すばやく、その手に水がめを取り降ろし、彼に飲ませた。(18節)
 彼に水を飲ませ終わると、彼女は、「あなたのらくだのためにも、それがのみ終わるまで、水を汲んで差し上げましょう」と言った。(19節)


 最初に井戸にやってきた美しい娘リベカは、しもべの期待通りにふるまうではありませんか。
 しもべは固唾を飲んで、リベカを見つめていました。あまりに祈っていたとおりなので、目を疑ったかもしれません。すぐさま、金の飾り輪と腕輪を二つ取って、リベカに差しだし、彼女の父親の名前と、そこに宿泊できるかどうかを訊ねました。
 彼女の答えは、また、しもべの期待した通りでした。


「私はナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘です。」(24節)
 そして、言った。「私たちのところには、わらも飼料もたくさんあります。また、お泊りになる場所もあります。」(25節)


 しもべは、またすぐにひざまずいて神に祈りました。

「私の主人アブラハムの神、主がほめたたえられますように。主は私の主人に対する恵みとまこととをお捨てにならなかった。主はこの私をも途中つつがなく、私の主人の兄弟の家に導かれた。」(27節)


 リベカがすぐに家に戻って、しもべのことを告げたので、リベカの兄ラバンが走ってきて応対し、しもべの一行を家に案内しました。
 家にはリベカの両親もいて、しもべは彼らの親族アブラハムの現在の暮らしぶり、豊かな生活、ひとり息子イサクのこと、その花嫁を親族から迎えたいと願う主人の気持ちを、みんなに語りました。
 そして、何より、この花嫁探しの旅に神が同行してくださって、ここまでくることができたのだから、
「それで今、あなたが私の主人に、恵みとまこととを施してくださるのなら、私にそう言ってください。そうでなければ、そうでないと私に言ってください。それによって、私は右か左に向かうことになるでしょう。」(49節)

 ラバンとベトエルは答えて言った。「このことは主から出たことですから、私たちはあなたによしあしを言うことはできません。(50章)
 ご覧下さい。リベカはあなたの前にいます。どうぞ、連れて行ってください。主が仰せられたとおり、あなたの主人のご子息の妻となりますように。」(51章)



☆ ☆ ☆

 あらかじめ縁談を打診していたわけでもなく、見合い写真の交換もない時代ですから、このプロポーズと、その結果は、あまりに唐突に感じられるかもしれません。今の時代から見ると、当のリベカを差し置いて兄と父だけで決めて、答えているのも腑に落ちない気がします。


 しかし、これが、神が「主の選びの民の一族」をお造りになる、決定的瞬間でした。

 このリベカとイサクの間の子どもが、エサウとヤコブ、そして、ヤコブが神様からイスラエルと言う名前を賜り、彼の十二人の息子たちが、イスラエル十二氏族の始祖となって、イスラエル民族を形作っていくのです。
 それゆえ、アブラハムを選び出された天地万物を創造された聖書の神は、アブラハム・イサク・ヤコブの神と言われるようになります。その子孫の家庭に、イエス・キリストが降誕されるのです。



 
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2010年10月12日

Coffee Break50 対面



 イサクとリベカの結婚は、今の時代から見ると夢のような物語です。
 まだ、会ったことも見たこともない二人の男女を結び付けようと、たくさんの宝物をもって、はるばる旅する話は、ずいぶん不確かな行動です。花嫁候補ははるか遠いところにいる親類の娘、その娘との縁談をまとめてくるようにと主人に命じられるしもべは、もちろん、それが先方の都合でまとまらない場合は、その任を解かれるとの約束ですが、大任にプレッシャーは感じていたでしょう。
 主人とその息子のために、最高の花嫁を連れて帰りたいと願い、祈りながら旅を続けたのです。
 リベカという名の娘はいたけれど、親が遠くに嫁にやるのに反対だとか、器量がひどく悪いとか、すでに婚約者がいるなんてことがありませんように・・・、仲人をするものは、縁談がまとまればいいのではなく、最高の縁談をまとめたいのです。

 たとえば、コンピュータで、希望にかなった、相性の合う相手を見つけるといった現代風お見合い機関に頼る人でも、最終的な目的は、ただ相手を見つけることではなく、「最良の相手」であることでしょう。

 リベカは、「とても美しく」「機転が利き」「背景になる家族は、アブラハムの親類(テラの一族)で信用が置ける」のですから、今で言えば、容姿、性格、家系のよい信用の出来る娘と言うことになります。
 一方、リベカ側から見ると、やはり、イサクは、親類で、大金持ちで、父親に縁談を委ねるようなまじめな──当時はとくに、親の権威を尊ぶのはとても大切なモラルでした──むこです。


 話は、たちまち、まとまったのですが、リベカの両親と兄は出発まで十日ほど、リベカを手元に置いておきたいと言い出しました。一度別れたら、二度と会えるかわからない距離です。無理もありません。
 一方しもべは、この慶事を一日でも早く主人に報告したいと、気がはやります。
 そこで、一晩歓待を受けると、翌朝、そのことをリベカの両親に告げました。


 しもべは彼らに、「私が遅れないようにしてください。主が私の旅を成功させてくださったのですから。私が主人のところに行けるように私を帰らせてください」と言った。(創世記24章56節)
 彼らは答えた。「娘を呼び寄せて、娘の言うことを聞いてみましょう。」(57節)
 それで彼らはリベカを呼び寄せて、「この人といっしょに行くか」と尋ねた。すると、彼女は、「はい。参ります」と答えた。(58節)
 


 この時、リベカの父親たちが確認したのは、「別れる前に、しばらく親や兄と名残の時間を持つか、それとも、今すぐ出発してもよいか」だったでしょう。

 リベカは、「はい、参ります」と即答しました。この箇所は、クリスチャンには高く評価されています。リベカが親兄弟への心残りと言った個人的な情より、新しい運命を受け容れ、それをすぐに行動に移そうとしたからです。この新しい運命は、「神がお決めになったもの」との前提です。
 リベカは神の意思を悟り、それに従おうとしたのです。

 
 そんなわけで、リベカは乳母と召使を連れ、らくだを仕立て、実家をあとにして、アブラハムのしもべと、ベエル・シェバに向かいます。
 見送るリベカの家族は、祝福します。



   「われらの妹よ。
   あなたは幾千万にもふえるように。
   そして、あなたの子孫は
   敵の門を勝ち取るように。」(60節)



☆ ☆ ☆


 こうして、リベカはアブラハムのしもべといっしょに、ベエル・シェバにやってきました。イサクは、当時、ベエル・シェバの南の方、ネゲブのベエル・ラハイ・ロイで自分の羊を飼っていましたが、そのとき、父親のもとに戻っていました。

 夕方、野に散歩に出かけたイサクがふと目を上げ、見ると、らくだが近づいてくるのが見えました。
 そのとき、リベカの目にもイサクの姿が映ったのです。


 リベカはすぐ、らくだから降り、しもべに尋ねた。
「野を歩いてこちらのほうに、私たちを迎えに来るあの人は誰ですか。」 しもべは答えた。
「あの方が私の主人です。」
 そこでリベカはベールを取って身をおおった。(65節)


 ここも、とても想像力をかき立てる美しい場面ではないでしょうか。
 夕暮れ時です。長い旅を終えたしもべとリベカの一行が、残照の残る野原に姿を現したのです。父から、結婚相手がまもなく戻ってくるはずだと聞かされていたイサクは、待ちきれなくて野原を見に行っていたのかもしれません。 

 一方、はるばると砂漠や荒野を越えて、まだ見ぬ人と暮らすために見知らぬ土地にやってきた若い娘──今と違って、十代半ばが結婚適齢期だった時代です──、リベカも、野原に男の姿を見て、それが結婚相手のイサクだと知り、息を飲むほど緊張したでしょう。。
 イサクを見て、ベールで顔も体もおおうその仕草から、彼女の恥じらいと期待と決意が見て取れます。


 しもべは自分がしてきたことを残らずイサクに告げた。(66節)
 イサクは、その母サラの天幕にリベカを連れて行き、リベカをめとり、彼女は彼の妻となった。彼は彼女を愛した。イサクは母のなきあと、慰めを得た。(67節)


 リベカとイサクの対面、イサクがリベカを母サラのテントにいざなう様子までが、この聖書箇所で浮かび上がってきて、これ以上、解説の入る余地がありません。どこかおとぎ話の中の王子様とお姫様のラブストーリーのエンデングのようでいて、じっさいに、深い安堵と祝福の気持ちを覚えるのは、私だけでしょうか。

 もっとも、この清純なリベカが、じっさいに結婚生活を始め母となったとき、思いがけないどろどろした一面を見せるのですが。




 
 
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2010年10月13日

Coffee Break51 選びの民の家族史




 アブラハムは多少の危険を冒しても、徒労になっても、自分の父親テラにつながる親類の娘を、息子と結婚させようと思いました。彼が、しもべをはるばるハランに送り出して、一族の娘を迎えに行かせたのはなぜでしょう。
 アブラハムが住むカナン地方にも、捜せば美しい娘がいたはずです。金持の家の娘も性格の良い娘もいたでしょう。
 
  アブラハムがこだわったのは、彼に現れ、導き続けてくださった主(神)の言葉が、心に焼きついていたからではないでしょうか。

 神は、初めてアブラハムに現れて、ハランから召し出されたとき、仰せられました。


 あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、
 わたしが示す地へ行きなさい。(創世記12章1節)
 
 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、
 あなたを祝福し、
 あなたの名を大いなるものとしよう。
 あなたの名は祝福となる。(2章)


 最初、カナンに入り、そこに先住民がいるのを見て戸惑うアブラハムに、また主は顕現され、仰せになったのです。

あなたの子孫に、わたしは、この地を与える。」(7節)

 そして、ロトに良い地を取らせ、別れて住むようになった後は、次のような言葉を下さいました。

「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。(13章14節)
わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫に、与えよう。(15節)
わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし、人が地のちりを数えることが出来れば、あなたの子孫をも数えることができよう。(16節)」



 四度目の神の祝福のことばも、同じ意味で、有名な箇所です。

 主は、彼(アブラハム)を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」(15章5節)


☆ ☆ ☆


 エジプト脱出以前のイスラエルの歴史は、聖書に描かれているとおり、ひとつの家族史である。

 P・カイル・マッカーター(聖書およびオリエント研究の学者)は、「最新・古代イスラエル史、族長時代──アブラハム、イサク、ヤコブ」(株式会社ミルトス発行、池田裕、有島七郎訳)の項の冒頭に書いています。
 学者であるマッカーターは、「聖書の中のアブラハム・ヤコブ・イサクの歴史の記述は、聖書外資料の裏づけがない。記述に対応する文書、考古学的・歴史資料はほとんどない」から、これは、アブラハムを始祖とする、ひとつの家族史であると論旨を展開しています。


 この本は、古代イスラエルの社会と歴史を、できるかぎり学術的、客観的、考古学的にも納得できる「事実」を検証し、述べようとしています。アブラハムの時代から、第二神殿崩壊までの、古代イスラエルの歴史を八項目に分け、それぞれの専門家が論説しています。旧約聖書を読む場合、古代イスラエルの様子や歴史的事実のアウトラインを知ることは、聖書の世界をよりリアルなものにしてくれます。この本は、聖書を読む私には、なかなか参考になりました。

 マッカーターの論旨は、聖書の記述と齟齬をもたらすものでもありません。この時代のこの物語で、聖書記者が伝えたかったのは、最初から、当時のカナン地方の歴史、またイスラエル国家の歴史的社会的萌芽などではなかったでしょう。のちに、民族と呼ばれるほどに数を増やし、エジプトから脱出して、カナンに移住し、やがてイスラエル王国となる「神の選びの民」、その創成を記録することだったからです。
 しかも、その創成は、人間側の営みとしてではなく、神が選んで造って行かれるという「視点」に意味があったのです。

 何度にもわたる、神の顕現から、アブラハムは自分を選ばれた神のご計画を知り、自分の信仰をより高めていったのです。彼は、自分がたくさんの子や孫に囲まれて「めでたい」と思う世俗的な家長ではありませんでした。容赦なくイシュマエルを退け、サラの死んだあとにめとった妻、妾とのあいだに生まれた子どもたちも、財産をもたせて遠くへ行かせました。
 
 アブラハムの家を、まっすぐ太い枝にするために、神は脇に伸びようとする野放図な「成長」を、刈り込む必要があったのです。
 イスラエル民族がそのようにして造られことは、のちにイスラエル民族が偶像礼拝に陥り、国家存亡の危機にあったときの、預言者たちの預言にも現れています。



 わたしは、あなたをことごとく
 順良種の良いぶどうとして植えたのに、
 どうしてあなたは、わたしにとって、
 質の悪い雑種のぶどうに変わったのか。(エレミヤ2章21節)


 そこで今、エルサレムの住民とユダの人よ。
 さあ、わたしとわがぶどう畑との間をさばけ。
 なぜ、甘いぶどうのなるのを待ち望んだのに、
 酸いぶどうができたのか。(イザヤ5章3節)



 神にとっては、アブラハムの家系と関係なく生まれてくる人々も愛の対象であるはずです。しかし、この時点では、神は、真の神を忘れてしまった当時の大多数の人の中にあって、ご自分への真の信仰のある家族を造り、いずれは全人類をご自分のもとに連れ帰ることのできる「救いの器となる民」の形成を、実行しておられました。アブラハムは選ばれた自分の責任として、自分の息子の嫁も同じ根から出たものでなければいけないと、神の御心をくみ取ったのでしょう。



☆ ☆ ☆


 結婚したとき、イサクは四十歳でした。
 さいわい、父親の選んだ妻は、彼を幸せにしました。祝福され、愛し合い、順調に滑り出した結婚生活。しかし、いくつかの陰がありました。リベカもまた不妊の女でした。イサクが祈願して、やっと子どもが授かったとき、イサクは六十歳でした。

 二十年めに授かった子どもは、双子の男の子、エサウとヤコブでした。ここで、神はふたりのうち、どちらかを刈り込まれることになるのです。

 マッカーターは、この物語を、アブラハム・イサク・ヤコブから、その子ヨセフとイスラエル十二部族にいたる「家族史」と位置づけました。けれども、聖書の主役・神からの霊感を受けてこれを書いた聖書記者は、「神の選びの民の家族史」とタイトルを付けたかったのではないでしょうか。





     ここでは、聖書のことばは、すべて新改訳聖書から引用しています。
     
     聖書を通読をしてみようと思われる方は、このブログのリンク
     「佐々木先生のサイト、聖書を読むぞー」をご覧下さい。
     分厚く難解な聖書をわかりやすく解説してくださっています。
     また、キリスト教の学びに関心のある方は、「ペンテコステ宣教学・
     やさしい神の国講座」を開いてください。
     自分の学びを確認できるやさしいテストもついた、学びのテキスト
     です。







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